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コラム:イスラームの巡礼と聖者崇拝1
 
イスラームの聖地巡礼と聖廟参詣

 イラクには、イランの国教である十二イマーム派シーア派の重要な聖地があります。
十二イマーム派は預言者ムハンマドの従兄弟で娘ファーティマの妻であったアリーの子孫の内、ファーティマの子フセインの系譜を最高指導者イマームとして認め、崇拝する一派です。
 彼らが認める歴代のイマームが十二人いるため十二イマーム派と称されています。

 十二代目のイマーム=マフディーが年少で行方不明となったため、以後十二イマーム派に万人の認める最高指導者はなく、マフディーが救世主として再臨するまで、法学者がその代理人として人々の指導にあたる形をとっています。 
 イマーム達の活動の中心はクーファなどイラクにあったため、シーア派にまつわる聖地がイラクに多数あるのです。
 
 多くのシーア派関連の史跡、霊廟のうち、

 ・初代シーア派イマーム(であり第四代正統ハリーファでもある)アリーの聖廟があるナジャフ。
 ・第三代イマーム=フセインと(その異母弟アッバース)の聖廟のあるカルバラー。
 ・第七代イマーム・ムーサー・アルカーズィムと第九代イマーム・ムハンマド・アルジャワード・タキーの聖廟のあるカーズィマイン。
 ・第十代イマーム・アリー・アルハーディーと第十一代イマーム・ハサン・アルアスカリーの聖廟のあるサーマッラー。
 
 この四つの聖廟はシーア派四大聖地(アタバート)と言われ、イランのシーア派にとっても重要な地となっています。
 イラク戦争後の混乱期に爆破されたのはサーマッラーの聖廟でした。
 美しいタイルに飾られた聖廟が無残に破壊された姿は、ムスリムでなくとも心痛みます。
 
 シーア派の人々は聖地を求めます。
 イランのサファヴィー朝以来の政策のためでもありますが、昔の偉人達の墓所や聖地を求める行動は万国共通と言うものでしょう。
 第3代イマーム=フセインがカルバラーの地で殉教を遂げたムハッラム月10日(アーシューラー)と前日は、タースーアーと呼ばれ、フセインの異母弟のアッバースが同様に悲劇的な殉教を遂げた日です。月初めからの10日間、人々はアーシュラーの祭りに熱狂します。最近ではスンニ派のテロが必ず起きる時期でもあります。イランではこの聖地を訪れるために密入国者が絶えず、さらにイラクの治安の悪化から、毎年数十人の死者が密入国者から出る始末です。もちろん盗難やら傷害など、死に至らなくまでも、危険な目に会った人はもっと多いでしょう

 イラン系のシャルグ紙の記事によると

 「アーヤトッラー・スィースターニーをはじめとするマルジャ〔シーア派宗教指導者の最高権威〕や大アーヤトッラーたちも、たとえイラク4大聖地の参詣を目的としたものであっても、不法入国は好ましくない旨のファトワー〔教令〕を発令している」。
 アーヤトッラー・スィースターニーのファトワーでは実際、次のように述べられている。「不法な手段でイラクに入国することは、イスラーム法上の禁止行為(ハラーム)に当たる。それは、密入国をしたり、その支援をしたりすることの対価として得られた労賃が、ハラームであることと同様である」。
 
 聖廟破壊はこうしたシーア派の人々の真摯な気持ちを踏みにじるものでした。
人々の反発が起きるのも頷けます。しかし、こうした憤りが直接的な暴力に直結し、一般の無辜の人々が殺害されたり、あるいは暴力の応酬を行い泥沼のような事態に発展してしまうのは、現在のイスラーム世界の荒廃を示す事例として今後語り継がれる事でしょう。
 
 さてイスラームで巡礼と言えば、メッカ。次にメッカ巡礼の話をしましょう。
 イスラームにおける最大の聖地ですからね。

 さて毎年、陰暦であるイスラーム暦十二月の巡礼月になるとサウジアラビアのメッカに多くの人々が集まり始めます。
 これらの人々、巡礼者達はイフラームと呼ばれる粗衣を纏い、髪や髭、爪を切らないようにするなどの準備をします。そして7日になると約200万もの人々が一斉に儀式を開始するのです。
 余りに多くの人々が参加するのでいつもトラブルが絶えないようです。帰還時のフェリー沈没で多数の人々が亡くなる事故がありましたが、それもずさんな管理しかできない船会社が、営業を続けることが出来るほど需要があると言うことでしょう。巡礼を行うことで死んだ人は天国に必ず行けるそうです。
 それは遺族にとって多少の慰めになるのでしょうか。

 それはともかく、儀式の中心となるのはメッカのカーバ神殿です。高さ15m、南北に12m、東西に10m程の、それほど大きな建物ではありません。カーバは石造りの建物ですが、常に美しい黒い布で覆われています。現在は巨大な二重の回廊で周りを取り囲まれており、この回廊と神殿のある中庭をマスジド・アル・ハラームと言います。英語圏でハラーム・モスクと称されるものです。回廊の中心にあるこの中庭には数十万の人々が入ることが出来ます。
 さてまず巡礼者は7日から8日に掛けて、神殿の周りを反時計回りに7回巡る儀式タワーフを人々は行います。それが終わると、神殿の近くにあるサフィーとマルワと言う二つの丘に続く約400mほどの道を、途中数十mは小走りに歩いて7回往復します。これをサイィの儀式と言います。200万の人が一遍に行うことは物理的に不可能なので、順番に要領よく行わねばいけないそうです。せっかくメッカに来たと言うのに、要領が悪くて儀式を終えることができない人も多そうですね。
 
 タワーフとサイィを終えた巡礼者達は、20キロほど東にあるアラファートの地に移動します。巡礼者は9日の正午までに、そこに行かなければなりません。ウクーフと呼ばれる儀式が始まる時刻が、正午からだからです。その内容はと言うと、正午から日没の時間帯にアラファートの地にじっと立って待機していると言うものです。このウクーフを真面目にやろうとすれば熱射病になること受けあいですねえ。
 まあ実際にはアラファートの丘の地に一度立って、その後はテントを設営しその中で待機するか、周囲を散策したり、クルアーンを読んだりして過ごすようです。

 日没になると、アラファートに居た人々はまた移動を開始します。メッカ方面に戻る途上にあるミナーの谷に行くのです。道中、ムズダリファと言う場所で数十個小石を拾うことも重要です。この小石をもって、ミナーの谷に行き、その地に立てられている3本の石柱めがけて、石を投げつける石投げの儀式を行うのです。この石柱は、悪魔を象徴するらしいですね。今ならジョージ・ブッシュとでも言うんでしょうかね。しかしニ百万人々の移動と石投げとなると、群集の一斉移動に伴って圧死したり、他人の投げた石で頭を打って重症を負ったりと、時に死者も出る危険なものらしいです。うーむ。

 さて夜が明けて、石投げの儀式も終わると、人々はミナーの谷で動物を犠牲に捧げます。この日に犠牲を捧げるのは、メッカの巡礼者だけでなく、ムスリム全体の行事です。全世界で、犠牲の肉を分かち合い、アッラーフに感謝するのです。これで一通りの義務は終了。巡礼者はイフラームの衣を脱いで着替え、髪と髭を切ったりして身なりを整えます。その後は13日になるまで、タワーフや石投げなどの儀式を反復して行ったりして時を過ごし、巡礼は終了となります。故郷に帰った人々は知人、友人、親族、家族などに報告し、巡礼完了の宴を開いたりして無事に大事を成し遂げたことを祝うのだそうです。
 さてこの巡礼月8〜13日にに行われる正式なメッカ行は、ハッジと呼ばれます。それ以外の日にメッカに巡礼することはウムラと呼ばれて区別されます。この二つがイスラームで正式に認められた巡礼で、それ以外の地を訪れて祈りを捧げたりする行為はスンナ派にとっては巡礼とは認め難い、と考える人が多いようです。現代の日本の研究者はメッカ巡礼以外(聖者やイマームの霊廟を訪れたりすること)を参詣と呼んで区別しているようですね。

 前述の様にメッカは聖地とされます。クルアーンに記述されている内容によれば、神に決められたハラム(禁じられた場所)だそうです。何が禁じられているかは書かれていませんが、前後の内容から戦うことが禁じられていると考えられているみたいです。
 メッカは歴史上、紀元前から存在するアラブ系(セム系)の人々の宗教的なセンターであったようです。

 ムハンマドはユダヤ教やキリスト教の知識を元に、メッカの地(カーバ神殿)は北アラブ人とユダヤ人の祖先であるアブラハムの建てたものであると考えました。ユダヤ教やキリスト教が成立する、ずっと以前から存在する最も重要な聖地であると主張したのです。歴史学的な解釈をすれば、まずありえない話ですが、ムハンマドはそう主張して、アラブの民に宗教的には受け入れられたのです。イスラーム法学者、神学者は、どんな科学的根拠をもって反論されても、決してこの主張を曲げることはないでしょう。メッカは神の選んだ聖地なのです。

 預言者ムハンマドは最初ユダヤ教やキリスト教に習ってイェルサレムを聖地として、その方向に対して礼拝を行っていました。一神教徒の聖地と一般的であったこともありますが、ムハンマドの本拠地メディナのユダヤ教徒達の協力を得るためでもあったようです。ところがメディナ市のユダヤ人達は協力を拒否し、結局ムハンマドによって虐殺されます。ムハンマドは経済的な支援を、自らが逃亡した故郷メッカの人々に頼らざるを得なくなるのです。メッカが新たな聖地となったのは、ユダヤ人との決別が大きな転機となった訳です。

 そもそも巡礼は純粋な一神教を目指したイスラームにおいて重要性はあるのでしょうか。昔読んだ(著者は忘れた)文献によると、ムハンマドが異教的、多神教的メッカ巡礼を奨励したのは、元々多神教の宗教都市であったメッカにとって、巡礼のためにカーバ神殿に集まる人々から得られる利益は交易とならんで重要なものであったことを指摘していました。
 ユダヤ人と決別し支持基盤の揺らいだムハンマドは、異教的な儀式を排除しようとした信念を曲げて、メッカの有力者と妥協するため、神のお告げとしてメッカ巡礼を奨励するようになったと言う推論ですね。
 実際同じような事があったのかもしれません。
 ムハンマドは宗教家ですが、同時に極めて優れた(あるいは宗教家として以上に)政治家、戦略家でした。自身の宗教を普遍的なものとするため、このような戦略を取ったとしてもおかしくないでしょう。無論、イスラームではそんな解釈は言語道断でしょう。

 何にせよ巡礼はパッションですから、理屈を持ち込むべきものではないのでしょうね。
 イスラーム世界において、スーフィー聖者やフサインなどシーア派イマームの霊廟などを訪れることをズィヤーラ(訳語は参詣とされることが多い)と言い、メッカを訪れる巡礼ハッジ(巡礼月の8日から13日に行う正式な巡礼)やウムラ(ハッジ以外の時期に行う巡礼)とは区分されています。
 と言うのもハッジ、ウムラは、クルアーンの文言などから、神が命じたものであるとされ、これを行うことは全ムスリムの義務であると考えられ、実行されています(一部否定する派もありますが)。ハッジの内容はかなり細かく規定されており、経済的時間的余裕も必要とされるものでした。

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