頑固猫の小さな書斎

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コラム:イスラームの巡礼と聖者崇拝2
 
 ハッジに関して、10世紀頃カスピ海沿岸にあった小国ズィヤール朝の君主カイ・カーウースの著作「カーブースの書」には次のような逸話が載っています。
 
 ブハラのある裕福な貴族が巡礼を志した。100頭のラクダを連ねたキャラバンを組むなど、たっぷり金を掛けたお陰で優雅かつ安楽に旅を楽しみつつ聖地を目指していた。途中に、同じく巡礼を行いながら経済的余裕がなく旅の途中に、食物も水もなく飢え渇き、足に水泡が出来て、道中死にかけた貧乏な男と貴族はあった。貧乏な男は「今はそなたはそんなに恵まれ、私は困窮している。しかし報いのとき(最後の審判)には、我らの応報は同じである」と貴族に食って掛かった。しかし貴族はこれを否定し「私は神の命令で(巡礼に)来たが、そなたはそれに反して来た。アッラーフは金のある者には巡礼を命じたが、そうでない者には、我とわが身を破滅に投げ込むな、と仰せられた。神の命令に反して、何の支度もなく空腹で砂漠にやって来て、自らを破滅に追い込んだそなたと私が平等を主張できようか」と。

 一方参詣ズィヤーラは、ある意味娯楽・観光的な意味合いも含めて、巡礼の補完的なものとして発展しました。
 メッカを訪れることが出来ないほど遠方の人々、あるいは女子供なども率先して行っており、世界各地で広汎に見られる風習でした。
 ズィヤーラは聖者廟など著名な場所以外にも、縁戚の者の墓参りなども含まれる用語です。それは一般に墓をただ漠然と見るだけに留まる事はなく、被葬者に対する供物(クルアーンを詠み贈るなどの行為も含む)や祈願を伴い、いわば見返りを求める契約行為であるとも言えます。
 そのためご利益がなければ、被葬者を罵る様な行為も当然あり得る訳で、アッラーフへの祈りを捧げる場であるモスク(メッカのそれを含む)での祈祷とは異なります。これはあくまで願いをかなえるのはアッラーフであって、被葬者は、あくまでアッラーフと祈願者とのとりなしを行ってもらうと言う原則が関係しているのでしょう。
 イスラーム宗教文化にたぶんに認められる商業的な要素であるように思えます。
 
 ズィヤーラの対象は多岐にわたるため、その礼拝内容は厳粛に形式化されたものから、お祭り騒ぎ、気軽な観光レベルまで様々なパターンがあり定義を行うのは困難でもあります。
 歴史上、こうした聖なる地と考えられる空間を訪れ、宗教的儀式を行うことは、地中海世界においては古くから見られる行為で、イスラームの巡礼、参詣もこの流れにあると言われています。参詣の盛んだったエジプトなどでは古代からの文化の継承者たるビザンツやコプト文化の影響が顕著であるともされています。
 
 さて10世紀以後、聖者崇拝はイスラーム以前の諸宗教の要素を吸収して、聖者を通じた分かりやすい教化の促進に繋がりました。
 民衆のイスラーム改宗は増大し、スーフィーなど教団(タリーカ)の拡大が顕著となり、聖者廟崇拝が定着していくことになりました。
 参詣の原型はハッジでありますが、ハッジ自身もそれまでアラブ各部族やエジプトのコプト教徒に見られた偶像神や聖者に対する多岐にわたる巡礼行為をメッカのみに集中させることで、宗教上の統制に加えて、経済的な利益をも独占するために誕生したと推測されます。
 しかし結局は参詣の興隆に見られるように、ムハンマドの意図は完全には達成できなかったと言えるでしょう。メッカに一元化するには、イスラームは広がりすぎたこともあります。幾度も繰り返されたイスラーム法学者の禁令にもかかわらず参詣を行う人々は無くならず、聖人崇拝(とその遺骸崇拝)の数千年の歴史を覆すことは出来なかったのです。

 スンア派のきまじめな法学者達が参詣の興隆に眉をひそめたのに対して、シーア派は聖者、遺骸崇拝を積極的に推進しました。
 シーア派はその信仰の元となるハディース集(ムハンマドやその一族、また教友の言行を集めたクルアーンに継ぐ聖典)がスンナ派のものとは異なります。一般にスンナ派が禁じているムハンマドやその一族への墓参が、シーア派の聖典とも言うべき四大ハディース集では奨励されており、シーア派はハッジに匹敵する行為として(つまり宗教上の義務として)参詣を行うよう勤めているのです。
 「アーシュラー(フサインの殉教日)にフサイン墓を参詣する事はメッカ巡礼に匹敵する行為である」
 のと言うのです。

 そしてシーア派は、参詣に関するガイドブック的な参詣書の類も他派に先駆けて著作されました。
 シーア派にとって参詣は崇高な行為であり、ハッジと並んで何とか成し遂げたい夢となったのです。
 
 参詣の推奨、制度化はフサイン死後に、その後継者のイマーム達によって行われ、次第に規定化されていったと言われています。
 すでにフサインの息子第4代イマームのザイン・アルアービディーン時代に、フサイン墓の参詣が儀式として行われていたと伝えられています。
 5代ムハンマド・アルバーキルに時代にも、イマームは、フサイン参詣に勤め、学者として名高い第6代ジャーファル・アッサーディクはフサイン墓参詣日時や方法を規定し、それを広めることに努力しました。
 こうしたイマーム達の努力によって、フサイン墓参詣は民衆に浸透していき、シーア派に限らずスンナ派市民も参詣者が増加しました。
 党派を越えたアリー家の人々(アフル・アル・バイト)に対する尊崇の念を人々の間に広めることが、イマーム達の意図であったのでしょう。
  しかし政権側、つまりアッバース朝もこれを看過するわけにも行かず、弾圧が始まりました。聖地カルバラーを封鎖し、行動を制約し厳罰を課したのです。
 さらにはアッバース朝が衰退し始めた時代のハリーファ=ムタワッキルは聖墓を破壊し、イマームを監視下に置きました。しかし墓はすぐに修復され、効果は永続しませんでした。
 
 フサイン墓を参詣した人々は、カルバラーの地の土を持ちかえり、遠隔地の親類や知人に、病気の治癒などその功徳を分与するため分け与えました。諸イマームのアッラーフへの執りなしは、他の聖人に勝ると考えられた様です。

 さて近年のアルアスカリー廟爆破事件など、参詣対象に対する破壊行為は、歴史上散見されます。
 あの事件は、情報の出所が曖昧な米軍謀略説をはじめ、諸説あって真相は闇の中になりそうですが、宗教よりも結局政治的要素が強く背景にあるのは、過去の様々な宗教施設に対する破壊行為と、同じように思えます。
 概して政情が不安、あるいは政権発足時など、治安や政治権力が弱体な時期に見受けられるケースが多いようです。

 例えば中世、11世紀初頭にイラクとイランを支配したブワイフ朝の時代、バグダードではスンナ派とシーア派が対立し、次第に政権によってもコントロール出来なくなっていきました。
 この時期は広範な統一権力であったアッバース朝が衰退し、武人政権が本格的に各地に生まれた変革期に当たりました。政治上も経済上も変化の時代であり、シーア派が力を持った時代でもありました。
 バグダードのスンナ派とシーア派の対立は、ブワイフ朝の大アミール、ムイッズ・アッダウラが、初代と第2代のハリーファ(最初期の正統ハリーファ、アブー・バクルとウマルの事です)は簒奪者であることを宣言し、シーア派の重要儀礼であるガディール・フンムの祭礼や、アーシュラーの日の殉教儀式を行うように定めたことがきっかけでした。
 バグダードを支配するムイッズ・アッダウラは、個人的にはシーア派の十二イマーム派であったとも言われ、ブワイフ家の出身地たるダイラム人はシーア派でもザイド派が多数でした。一方王朝の軍事を司るトルコ系奴隷兵士や、バグダードの一般市民は、シーア派よりもスンナ派が多数派であったようです。
 これまでバグダートの宗派間の問題は、各派の市民間の私的な対立に過ぎなかったのですが、これ以後、公的な立場での両派の組織的対立が表面化する事になります。
 そして軍人階級のダイラム人とトルコ武人も、その対立に加わったこともあり、武力による内戦へと容易に繋がることになってしまいました。
 さてムイッズは、布告の際にアーシュラーの祭りでは、市場を閉ざすよう命じました。
 私的活動が禁じられた公的な空間が創られ、詠者(カーイル)が哀託詩を詠み、泣き女達(ナーディブ)が殉教者フサインに哀悼の意を示すため通りで泣き叫び狂い、人々は羊毛の粗衣をまといました。
 この様な基本的な儀式は、十ニイマーム派の第6代イマーム=ジャアファル・アッサーディクの時代には、原型が出来ていました。
 やがて10世紀頃には、主に東方でイマーム廟へ参詣慣行が成立して広まっていき、やがてブワイフ朝の援助の元、アーシュラーの祭りが政権公認の祭りとなったことで、大きな影響力を持つようになったのです。
 スンナ派では、人々がフサイン参詣の風習に取り込まれないよう、対抗上シーア派弾圧を行った人物として知られるムスアブ・ブン・アッズバイルの墓に参詣する祭りを創設、シーア派の祭りと同時期に行う事にしました。
 そしてブワイフ家の治安維持能力が、代を経るに連れ弱体化すると、対立は破壊活動をともなう無秩序な状態を生み出し、かつての華やかな帝都は見る影もなく荒廃しました。
 こうした情勢の中でイマームの聖廟も略奪にあったことがあり、ムーサー・アルカーズィム廟は1051年にスンナ派に襲撃され墓を暴かれかけたのです。
 しかしブワイフ家が完全に勢力を失い、替わって強力なスンナ派のセルジューク朝が成立すると、対立は水面化に潜り、表立った闘争は見られなくなりました。
 安定した政権の元、バグダートの破壊活動は影を潜め、平安と秩序が回復されたのでした。
 対立は依然として存在しましたが、暴力によって相手を排除しようとすることは政府の扇動した場合を除いて見受けられなくなります。
 尤もセルジューク朝も後期になると、スンナ派内部の法学派の違いによる対立が、次第に助長され、イラン各地の都市の荒廃を招くなど、かつてはモンゴル帝国の侵略が原因とされていた中央アジア諸都市の衰亡が顕著になりました。これも王族や軍人、官僚層がそれぞれの支持基盤と癒着、支援した結果であり、学問上の問題という因り、やはり政治的要素が招いた悲劇であったようです。

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