史料整理「唐朝徳宗期の河北三鎮、河南二鎮の乱前後の政治動向と年表」
六一八年(武徳元年)
隋煬帝、江都で殺され、隋帝国実質的に滅亡。長安で李淵即位し唐王朝成立。
群雄割拠の時代終焉。唐、中国全土を平定する。
涼州に節度使(軍民の全権を与えられた地方長官。律令に則らない非公式な地位だったが常設化した)が設置される。
以降辺境十藩鎮が七二一年までに設置される(下図参照)。
辺境十藩鎮兵力配置(8c中頃)
藩鎮名 |
所在地 |
歩兵兵数 |
騎兵兵数 |
目的 |
設置年 |
安西
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亀慈(新彊ウイグル自治区庫車) |
24000
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2700
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西域経略
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七一〇
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北庭
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北庭都護符(新彊ウイグル自治区吐魯番) |
20000
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5000
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トルコ系緒族からの防衛 |
七一二
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河西
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涼州(甘粛省武威市)
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73000
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19400
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突厥と吐蕃の分断 |
七一〇
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朔方
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霊州(寧夏回族自治区霊武県) |
64700
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14300
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突厥防御
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七二一
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河東
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太原府(山西省太原市)
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64700
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14000
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突厥防御
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七一一
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范陽
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幽州(北京市)
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91400
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6500
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契丹と奚族からの防衛 |
七一三
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平盧
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営州(遼寧省朝陽市)
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37500
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5500
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室韋と靺鞨からの防衛 |
七一九
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隴右
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鄯州(青海州西寧市)
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75000
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14000
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吐蕃防御
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七一三
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剣南
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益州(四川州成都市)
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39000
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2000
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吐蕃防御と山岳民族対策 |
七一四
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嶺南 |
広州(広東省広州市) |
15400 |
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山岳民族対策 |
七一一 |
玄宗皇帝即位
楊玉環、玄宗皇帝の後宮に入る。太真の名を与えられる。
安禄山、平盧節度使となる
安禄山、范陽節度使も兼ねる。突厥、ウイグル族に強襲され四散する。ウイグルが北方草原の新たな覇者となる
楊太真、貴妃の地位を賜う。安禄山、契丹討伐で大功を立てる。
安禄山、河東節度使をも兼ねる。
南詔国討伐に失敗。安禄山、反乱し洛陽に進撃、占領。安史の乱始まる。十藩鎮以外にも内地に藩鎮が設置されはじめる。
安禄山、大燕皇帝を自称する。玄宗皇帝、帝都長安を脱出し、蜀の地、成都城に落ち延びる。
逃避行中、楊貴妃死を賜る。安禄山、長安を占領。唐王朝、塩の専売制を始める。粛宗即位する。
安禄山、養子の安慶緒に殺害される。
史思明、安慶緒を殺害し、乱の指導者になる。
史思明、息子の史朝義に殺害される。代宗即位。
江淮で土豪の袁晁が反乱(~七六三年)。
史朝義死す。安禄山の乱、これをもって平定される。史の降将ら(李宝臣、李懐仙、田承嗣、薛嵩など)降伏し、それぞれ節度使に任命され、河北三鎮が成立する。吐蕃、侵寇し長安を一時占領する。後、郭子儀が奇略をもってこれを奪回する。
盧龍藩鎮(旧范陽藩鎮、十二州を支配し五万の兵力を持つ)節度使の李懐仙、その部将朱希彩に殺され、節度使位を奪われる。
朱希彩、部下に殺される。朱泚が跡を継ぐ。後に朱泚は、節度使位を弟の朱滔に譲る。自らは五千の騎兵とともに長安に至り、朝廷に申し出て吐蕃防御の任に当たる。長安市民はこれを歓迎したという。
潞州昭義節度使の薛嵩死す。
朝廷、魏州天雄節度使田承嗣に対して討伐軍を派遣するも失敗する。
田承嗣病死す。田悦が天雄節度使となる。李希烈、節度使李忠臣を放逐して淮西藩鎮で実権を握る。代宗崩じ、徳宗即位す。
楊炎の上奏により両税制を施行する。天雄節度使田悦に対して、朝廷、兵力を現状七万から四万に縮小するよう要求。田悦、兵士の支持を得ていることを確認すると、これを拒否。
成徳節度使李宝臣死す。朝廷、その子李惟岳の後継を拒否し、河北三鎮の平定の意図を露わにする。李惟岳、田悦らは他の藩鎮の節度使と語り合って連合、反乱する。以後六年に渡り、河北三鎮をはじめ、有力藩鎮の乱が発生する。この頃、李希烈、正式に淮西節度使となる。徳宗は李希烈に地位を認め恩を与える替わりに梁崇義を討伐させようとする。李希烈の野心を警戒した宰相楊炎はこれに反対するが、楊炎の見下したような態度に怒った徳宗は、専断の故をもって楊炎を処刑する。
<徳宗皇帝>
唐徳宗皇帝、姓名は李适(りかつ)。742~805年。即位年779年~805年。代宗皇帝の長子で、代宗即位後、天下平馬元帥となり安史の乱の平定に尽力。ウイグルと吐蕃の侵攻の際にも前線に赴いた。七六五年に皇太子となり、密教に懲りだし政治姿勢が投げやりになった父代宗を補佐した。即位すると、税制の改革を断行(いわゆる両税法)し、戦乱で破綻した財政の再建を画し、また半独立状態の黄河流域の各藩鎮(軍閥)の制圧に乗り出した。しかし中央の兵力不足、指揮の乱れ、反乱勢力の団結などの理由により鎮圧は成功せず、立ち直りかけた財政が再び危機に陥った結果、増税に走り長安での暴動にまで発展した。この結果、一時徳宗は長安を脱出せねばならなかった。結局、藩鎮の独立を認める形で和平となり、以後は出兵を控え、蓄財を図り、国力の回復に務めた。決断力に富み、知性に優れた精力的で有能な皇帝であったが、一連の内乱の結果、徳宗は軍人を信頼しなくなり、以後強化に務めた禁軍(近衛軍))の指揮を宦官に任せたため、宦官勢力の強大化に繋がり、宮中の宦官の数は急速に増え、5000人に達した。これは後々の唐滅亡の原因の一つに繋がっていった。
<徳宗期の藩鎮の乱の経過>
・七八一年~七八二年春。
成徳節度使の李惟岳、淄青(平廬)節度使の李正己、魏州天雄(魏搏)節度使の田悦、山南東道節度使梁崇義が連合し反乱する。徳宗は河東節度使の馬燧、昭義節度使の李抱真に命じて田悦を攻撃させる。田悦は七八一年六月に部将に八千の兵を与え邢州を包囲させ、本軍数万は自ら統率して臨洺に在陣していた。田悦が兵力を分散させたのをみた馬燧は軍勢を励まし強行軍で、これらを急襲、各個撃破して田悦軍を敗走させ諸都市の包囲を解かせることに成功した。田悦は一万人以上の死傷者を出し、以後敗退を続けた。こうして馬燧は李抱真と共に田悦を洹水の線まで退かせた。冬を迎えたため馬燧と李抱真はそれ以上の進撃を中止し、連戦で疲弊していた戦力を休息させ再編した。こうして準備を整えた後、二将は七八二年春に再び出撃した。田悦軍は洹水の手前、漳水に一部隊を送り渡河を妨害しようとしたが馬燧は上流で秘密裏に流れを堰き止めさせ、水位を下げさせて全軍の敵前渡河に成功した。これを見た田悦の派遣軍は本軍と合流すべく退却した。なぜなら田悦は密偵からの情報で馬燧と李抱真の軍が補給を十分に受けておらず長期戦が不可能であることを察知したため、そこでの決戦を避け、守りを固め退却に敵を追い込む戦略を採ることにしたからである。それに対して馬燧と李抱真は協議した結果、速戦即決の決意を固め、10日分の食糧のみを携帯し敵陣近くまで進撃した。洹水を挟んで両軍は対峙した。馬燧はすぐさま準備しておいた舟橋を河に架けさせ渡河し田悦軍に決戦を挑んだが、田悦は挑発に乗らず、堅陣を構築して守りに徹した。無論馬燧はこのような戦いは予想していた。食糧が尽きようとしたとき馬燧は少数の軽騎兵部隊を本陣に残して軍隊を夜間秘密裏に移動させた。残った部隊は陣太鼓を一晩中叩かせ、篝火を多く焚かせ、旗を振らせ、まだ全部隊が在陣しているように見せかけた。そして翌朝この騎兵部隊も移動した。田悦は朝になってみると敵陣が静まりかえってしまったのを不信に思い偵察させた。敵陣が完全に沈黙しているのとの報告を聴くと田悦は敵が食糧不足で撤退したものと思い安心して、追撃のため主力部隊を率いて敵の架けた橋を渡って敵陣に至った。予想通り馬燧軍の姿がないことを確認すると敵を探させため偵察部隊を周辺居派遣した後、略奪を始めた。馬燧は田悦軍の主力が橋を渡り自陣に着いたのを確認すると同時に移動を開始した。馬燧軍は橋からやや離れた場所に潜んでいたのである。強行軍で移動して橋を渡った馬燧軍はそのまま田悦の本陣に向かった。田悦は偵察部隊から、その報告を受け馬燧軍を追ったが、橋は馬燧軍によりすでに焼かれており、すぐに渡河ができなかった。手薄な本陣が陥落すれば、食糧を失い田悦軍は崩壊してしまう。田悦は慌てて橋を修理させ馬燧軍を急追した。やがて馬燧軍に追いついたとき田悦軍は疲労しきっていた。それでも攻撃しないわけにはいかない。田悦軍の手持ちの食糧は僅かだったからだ。追い風であることもあって田悦は攻撃を開始した。馬燧軍は十分準備を整えて布陣していたが、それでも最初は押され気味だった。遊牧諸族の騎兵軍を多く含む田悦軍は精強で知られていた。奇襲効果の少ない正面からの野戦では馬燧軍より有利であった。馬燧は最初防御に徹し、攻勢を控えていたが、それでも両翼の部隊は後退を続け危うく崩壊しかけた程であった。しかし馬燧はその寸前に近衛部隊を中心とした疲労していない予備兵力を自ら指揮して善戦している中央に投入した。その結果疲弊しきっていた中央の田悦軍は戦列を支えきれず突破され、会戦は決着した。田悦は逃亡し、ともに逃れた兵は1000名余りという大敗北を喫した。残りは戦死するかとらえられて捕虜となったか逃亡して四散した。こうして馬燧は田悦を本拠の魏州に追い込むことに成功した。しかし田悦の軍はほとんど解体してしまったにもかかわらず魏州内の残留していた兵士や有力者は田悦に説得され援助を承諾し籠城を決意することになる。このように馬燧が田悦と戦っている間に朝廷では幽州廬龍節度使の朱滔に命じて李惟岳を攻撃させ、これを敗走させ恒州に逃亡させる。李維岳は恒州で部下で高麗人と言われる王武俊に殺され、王武俊は朝廷に降伏した。同時期に梁崇義も蔡州淮西節度使の李希烈らとの戦闘に敗れて水死し、李正己の息子の李納も降伏した。
・七八二年初夏~七八三年
勝負がついたと思われた藩鎮の乱であったが朝廷の戦後処理がまずく功労者である朱滔と王武俊が、論功行賞が不公平だとして朝廷に不満と猜疑を持ったことで様相が一変する。これをみて魏州に孤立していた田悦は二人に使者を送り秘密裏に同盟、朱と王は挙兵し魏州に軍を率いて入城する。魏州を包囲陥落させるべく田悦と対峙していた馬燧は窮地に立つ。朝廷は朔方の節度使の李懐光を救援に送る。李懐光は早速歩騎一万五千の兵力を率いて急行し馬燧と合流する。李懐光は着陣後、魏州から出撃してきた朱滔、王武俊を陣容が整っていないと見て馬燧の反対にも関わらず単独で攻撃した。朱滔の先鋒を撃破して、その陣を蹂躙したが兵が略奪に夢中になっているとき、予め回り込んで潜んでいた王武俊軍二千騎に強襲を受け軍は分断。後退し陣容を整え直した朱滔配下のウイグル騎兵の追撃も受け永済渠に追い込まれ壊滅した。相手の陣容を確かめぬ内の拙攻が祟って全滅逃亡することとなったのである。馬燧は包囲を続けたが、攻撃するには兵力が足りず、逆に守城側から水攻めを受け、和平を結び退却した。この結果を受け、十一月に反乱軍首脳は正式に同盟を結び、朱滔が冀王、田悦が魏王、王武俊が趙王、李納は斉王を称した。加えて李納の討伐令を受けていた李希烈も反乱に同調して建興王、天下都元帥を称した(後の七八四年初に楚帝を自称)。淮西が反乱したことで、江淮の穀物生産地との連絡が絶たれた朝廷は緊急に長安市内から様々な名目で税を取り立て、特に商人層に恨まれた。陸贄などは、これに反対したが徳宗は聞き入れなかった。七八三年一月には朝廷の混乱を見た李希烈が進撃を開始して周辺都市を次々に攻略、徳宗皇帝は安史の乱の時郷兵を率いて対抗し大功をたてて名望があった顔真卿を和睦の使者として送るが、李希烈は逆に彼を配下にしようとして拒否されると顔真卿を幽閉してしまった(後に幽閉されたまま顔真卿は死去)。和平失敗を見て朝廷は江西の節度使李皋に命じて李希烈討伐に向かわせた。李皋は一万余の兵力で李希烈に奪われいた黄州に侵攻し、李希烈の部将を破り、その奪還に成功した。李希烈は李皋の進撃を阻止すべく、要衝蔡山に陣を張り、これに対抗した。険しい地形のためほぼ天然の要塞となっている蔡山を奪るべく、まず李皋は西方の?州を先に攻めるように見せかけるため嘘の情報を流し、また少数の部隊残し西に移動した後秘密裏に南方に方向を変え、遠回りした後蔡山に舞い戻った。李希烈は李皋の行動が西方攻略のためだと完全に欺かれた。李希烈は揚子江を西に進撃し蔡山を遠く離れた。これを見て李皋は少数の部隊しか残っていなかった蔡山を攻撃し簡単に陥落させた。李希烈は蔡山陥落を知り、再び東進したが時すでに遅く、怒った李希烈は蔡山を奪還しようと試みたが強行軍で疲れ切っていた上に蔡山から出撃し攻め下った来た李皋軍の高所からの猛攻撃に耐えきれず数時間で瓦解、潰走した。李希烈は逃亡し本拠に戻らざるを得なくなった。だが依然、その兵力は強く完全な討伐は困難であった。そこで朝廷は七八三年十月長安の西北部を鎮守する姚令言率いる陜西の涇原藩鎮の兵士を李希烈討伐に向かわせたが、長安までの行軍中、長雨に祟られ、また長安で支給された食糧が少なく粗末であったため兵士の間に大いに不平が拡がった。一応、長安を出発はしたものの、その後軍内で遂に不平が爆発。軍隊は長安に引き返し、重税で朝廷に対して不信を抱いていた市民を扇動して入城、制圧してしまった。徳宗は奉天(現在の陜西省乾県)に逃亡し、涇原藩鎮兵はちょうど長安に滞在していた、反乱の中心人物朱滔の兄、朱泚を擁立した。朱泚は大秦皇帝を名乗り(後に国号を漢、自身は天皇を称した)、ここに新王朝樹立を宣言した。
・七八四年~七八五年
東方の敗北により朝廷は窮地に立っており、また長安が奪われ統率力が失われた結果、徳宗は七八四年自らを罪する詔を発し、和睦を呼びかけた。朱泚が皇帝となり、勢力が急伸してしまったその弟朱滔に対して他の藩鎮が疑心暗鬼となったこともあって、朱氏と李希烈を除いた王武俊など諸節度使は前より和睦を内々に伝えていたこともあり、ほぼ完全な自治を条件に和平を受け入れた。これで余裕の出来た朝廷は兵力を引き返し、長安と淮西に振り向けることになった。しかし兵力と財政に不安のあるの朝廷側では両面作戦を採ることは出来ず、強力な兵力を有する淮西に対しては討伐を断念せざるを得なかった。その間長安で即位した朱泚は、皇室関係者七十七人を虐殺し後顧の憂いをなくすと、奉天に侵攻し徳宗皇帝を捕殺しようと試みたが渾瑊(こんかん)将軍に阻止され、救援に駆けつけた河中節度使李晟、及び軍を再編していた李懐光軍に破れ退却した。李晟は長安奪回のため進撃を開始した。ところが徳宗が近臣の言に惑わされ李懐光に会おうともしなかったため李懐光は不信を感じ取り朱泚の策謀もあって反旗を翻す。徳宗は李晟らの救援が間に合わないことを知ると今度は梁州に逃亡することになった。李晟は徳宗皇帝の救援と李懐光討伐を渾瑊と馬燧に任せると兵力を失い長安に戻った朱泚を追いつめ、長安に包囲した。李晟は長安城が広大であるのに対して守る兵力が不足している点を突き、夜間に部隊を秘密裏に移動させることで守りの弱い部位を奇襲し、宮殿を陥落させた。朱泚は長安からの逃亡には成功したが逃避行中に彼を見捨てることにした配下の部将梁庭芬や韓旻に殺された。こうして長安奪還の報告を受けた徳宗は七月になってようやく首都に戻ることが出来た。孤立していた朱滔はウイグルに援軍を求めて対抗したが七八四年五月、かつて同盟していた王武俊と李抱真の攻撃を受けて大敗を喫し、その後七八五年、病を得て病死した。その後を受け継いだのは朱氏の将軍ではなく劉怦(りゅうほう)と言う人物で、朝廷側の和睦を受け入れた。反乱した李懐光も本拠の河東郡河中府に追い込まれ、城に籠もったが馬燧と渾瑊に破れ、ついに城内でくびり殺された。さらに李希烈は皇帝を称したが幾たびかの小競り合いを繰り返す内に、これも病を得て寝たきりとなり、部下の珍仙奇に毒殺された。その後珍仙奇は李希烈の腹心だった呉少誠に殺害され淮西は以後呉氏が実権を握り半ば独立状態になったものの珍仙奇配下の部隊が唐王朝の派遣した李泌率いる部隊に壊滅させられ呉少誠に合流できず、軍を立て直す間は呉少誠も反攻には踏み切れず和平を受け入れたため、唐帝国は一応の平安を得た。
これにより河北三鎮、河南二鎮の乱は終息したが藩鎮の独立性は全く保たれ、淮西が朝廷の手を離れたことで唐王朝は逆に勢力を減退させることになった。さらに徳宗治世後半にはチベットの吐蕃王国が侵攻し、長安の東方まで攻め寄せてきた。李晟の必死の要望も虚しく内部の意見対立で実現性の高かった李晟の反攻案は棄却され、吐蕃戦争は中止された。唐王朝の西方領土は永遠に失われてしまうことになった。
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