頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史8


バグラト朝時代とディアスポラの始まり

 アラブに委任されて統治していたアルメニアは、長くアルメニア人の支配的一族だったマミコニヤン家が771年〜772年にアラブ支配に反対して起こしたムシェーグ・マミコニヤンの乱で敗北すると勢力が衰え、変わってアルツゥルニ家とバグラトュニ家が勢力を増していった。特に806年頃からバグラト家は大公としてアッバース朝カリフの承認を得て以後、イスラムのカリフの統治が弛緩し始めると次第に自立を強めていった。813年にはバグラト家のアショットはグルジアをも支配下におき、勢力を拡大させ、851年に起きた蜂起を機にほぼアラブ支配から独立した。856年にアルメニア大公になったアショット・バグラトゥニ(〜890年)は861年に「アルメニア、アルバニア、イベリアの大公中の大公(バトリーク・アル・バターリク)」と名乗り、885年ついにアラブ、ビザンツに承認を受け首都バガランで王に即位した(アショット1世)。

 バグラト朝と呼ばれる、このアルメニア人王朝の元で久方ぶりにアルメニアは独立国となった。 

 とは言えこれは、ビザンツとアッバース朝の力関係が拮抗するようになったがために成立した危うい独立であった。どちらかの大国が優位になれば、余裕の出来た側の攻撃を受け独立が微妙になるのである。

 アショット1世の死後、アルメニアは、その状況を好機と見たアッバース朝の攻撃を受け、為す術もなく敗北しその傀儡であるセムバト1世が即位していた。893年にブルガリアでシメオンが即位すると、この第一次ブルガリア帝国の前にビザンツのバルカン領はほとんど奪われ、ビザンツはもてる戦力を全て対ブルガリア戦役に投入せねばならなくなったから、アルメニアを救援する余裕はしばらくなかった。アルメニア王子アショット(後の2世)はコンスタンティノープルに亡命、914年にビザンツ皇帝の母后ゾエの援助でようやく首都に戻ることが出来た。

 これは王朝に大打撃となった。王国はセンバト1世の在位中の混乱の中、アルバニア(アゼルバイジャン)のエミール(総督)であるユースフの攻撃を受けた。この結果ユースフにより擁立されたバグラトゥニ家と並ぶ大貴族ガギーク・アルツゥルニ公が即位し、王国の一部を占拠してヴァスカプラン王国(908年〜1021年)が生まれた。ユースフはアショット2世によって撃退されるがヴァスカプラン王国の討滅には至らなかった。その後の王国は安定をみて黄金期(アッバース王、アショット3世王時代)を迎える。特にアショット3世は首都をアルパ川沿いのアニ(現アニベムザ近郊)に遷し、大いに栄えさせたため「敬神王」と贈り名されている。しかし王国の繁栄も、徐々に地方勢力の力が増し、ブルガリアが衰退したため余力を取り戻したビザンツの露骨な侵略の意図もあり分裂への道を進んだ。961年には王位継承の争いからアショット3世の弟ムシェーグがカルス地方で自立(〜1063年)。他にもロリ朝(アルバニア王国)が980年に(〜1256年)、アルゥツェリン朝東シウニク王国が920年頃(王位僭称は970年〜1166年)、遅れて後にはカケート王国が1039年(〜1102年)に勃興し、王朝は瓦解の道を早めた。

 1020年にバグラト朝ガギク1世が死亡しホヴァネス・セムバト3世とアショット4世の後継者争いが始まると、この混乱の中アルメニア南東部の前述の小侯国アルツリュン朝ヴァスカプラン王国がビザンツに1021年に併呑され、バグラト朝の両王の死後には重要な都市であったアニが謀略外交の結果、ビザンツ帝国に奪われた。そして最終的にビザンツ帝国は1045年アショット王の息子ガギク2世を誘い出してカッパドキアに移封させ、バグラト朝の領土を併呑した。これ以前1037年には東方のセルジュークトルコの大規模な襲撃がありガギク2世はこれを避けて逃げ出したと言えなくもない。この時の逃亡先で、一部のアルメニア貴族がやがてキリキア・アルメニア王国の基盤を作ることになる。

 アルメニアはまたもビザンツの衛星国になったのであるが、ビザンツの支配は長く続かず、引き続くセルジューク朝の侵入によりアルメニアは次第にその支配下に入っていった。

 この時代からアルメニア人達の東西への移住が進み始めた。1065年にアニがセルジューク朝のものとなり、トルコ人はビザンツに反感を持つ一部のアルメニア貴族の支持を取り付けると、以後瞬く間にアルメニア地方を席巻した。1071年、セルジューク朝スルタンのアルプ・アルスラーンはマンヅィケルトにおける会戦で6万にも及ぶビザンツ軍を壊滅させ、皇帝を捕らえる程の大勝利を得た。これ以後アナトリア高原はトルコ人の地へと変貌していくことになり、アルメニア人もトルコ人(大セルジューク朝の分家であるルームセルジューク朝)の統治下で暮らすことになる。またセルジューク朝はアルメニア人の強制移住を行った。新たな占領地や食糧確保が必要な拠点などに農民として、また荒れ果てた都市などの住民確保のためにアルメニア人を各地に定住させた。特にアルメニア人が大きな役割を果たしたのは黒海北岸のクリミア半島カッファで、ロシアやステップ遊牧民達との交易の拠点として重要な都市として発展していき、やがてイタリアの港湾都市ジュノヴァの支配下で黒海貿易の拠点として知られるようになる。

 他にもこうした政治情勢の変転の中で内紛や戦乱を避けてアルメニアの人々の多くがキリキアに逃れ、幾つかのコロニーを作った事が知られる。その成立にはシリアの勢力に対する緩衝地帯の設置を意図したセルジューク朝の(強制的な)後押しがあった。そして1073年にはタルソスを中心にアルメニア人公国が成立し、1080年からはアルメニア人のルペン1世が統治する世襲のルペン朝小アルメニア(キリキア・アルメニア)公国が始まった。もっとも小アルメニア公国は1137年にビザンツ皇帝ヨハネス2世コムネノスにより占領され一旦瓦解する。1145年にはルペン朝のトロス2世が反旗を翻したが、それもヨハネス2世の息子マヌエル1世が1158年に軍隊を派遣して屈服させられ、トロス2世は山岳地方に領土を与えられて逼塞した。さらにトロス2世が1168年に死ぬと、北方国境の安寧を得るためにキリキア介入を決めたシリアのザンギー朝のヌール・アッディーンの策謀で、後継者争いが起こるなどビザンツ統治下でのキリキアは混乱が続いた。だがマヌエル1世がミリオケファロンでルーム・セルジューク朝に大敗を喫したため、ビザンツのキリキア支配は事実上挫折し、ルペン朝レオン2世が1198年に王位を宣言しビザンツに承認された。その後、ビザンツ帝国はヴェネツィアが主導した第4次十字軍で首都を失い衰退し、ルーム・セルジューク朝も1243年にモンゴル帝国のバトゥ汗に敗北して、その属国に成り下がった。1226年からヘトゥム朝支配下となっていた小アルメニアは創始者ヘトゥム1世自身が帝都カラコルムに赴き、皇帝モンケに臣従を誓いモンゴル帝国(後にはイル汗国)の藩属国となって生きながらえていくことになった。マムルーク朝の攻撃から身を護るためには致し方ないことであった。それでも幸運なことにイル汗朝の支配体制が脆弱であったため、ほぼ独立した国家として、しばしの小康を得ることはできた。

 最終的に小アルメニア王国がマムルーク朝とアナトリアのトルコ人のベイリク(侯国)の一つカラマン侯国に滅ぼされるのは1375年のことであった。その原因は十字軍国家との長い連携の中で生まれたローマ・カトリックとの合同賛成派と反対派の対立であったという。だが、王国滅亡後もアルメニア語を話すアルメニア人は十数万人もキリキアに残留し、キリキアはアルメニア人の重要な慰留地であり続けた。

 本国アルメニアでは、移民や逃亡による人口流失により国力は弱体化の一方だった。一応はティフリスを首都とするキリスト正教徒の国家グルジア王国の同君連合国家の立場であったが、その後、侵入した金帳汗国バトゥ・ウルス(キプチャク汗国)に支配が移り、イル汗国との抗争の場となったりした。その間「アルメニア王」は存在したが、豪族達のまとめ役や司法、収税を担当し、軍勢の指揮官などとして、汗に従属する地方官のような存在でしかなかった。キプチャク汗国が分裂すると、その後生まれた小汗国がトルコ系の諸王朝の傘の下でカフカスを支配したりと、アルメニア人の独立国家という体裁はほぼなかったと言って良い。アルメニア地方における王国・・・と言うべきか土豪連合と言うべきものはセヴァン湖周辺に維持されていたが、それも国家と呼べるものではなく、その時代ごとに影響を及ぼしてきたモンゴルの汗やイスラムのアミール(将軍)に従った。さらにアルメニア高原のヴァン湖周辺では遊牧民であるクルド人などが主要民族となりつつあり、次第にクルド人の地であるクルディスターンと呼ばれる場合が多くなるようになっていった。

 こうした中で流浪の民と化したアルメニア人の拠点はセヴァン湖周辺部以上にイラン・アゼルバイジャーンに近いジョルファー市が最大のものとなりつつあった。ジョルファーはカスピ海と河川で連絡が取れ、イランからの東西交易路上にあったからである。またモンゴルのユーラシア帝国の成立が影響してポーランド、ウクライナ、バルカン諸国、さらにはモンゴル帝国本土カラコルムまでアルメニア人は拡散していった。こうしたコロニーの成立は古代からそうでアルメニア人の商業民族化への道をさらに押し進めたた。また小アルメニア王国が成立したことでアルメニア人は西欧との接触も多くなり、十字軍国家との友好関係を築きシリアのアレッポ商業圏に食い込むとともに、イタリア商人との取引が拡大し、イタリア半島各都市にもコロニーを作っていった。14世紀にはイタリアの主要都市には何処にも必ずアルメニア教会が建てられていたと言われる。加えて小アルメニア王国が滅亡して以後は移住がさらに促進され、イタリア以外の西ヨーロッパの重要な商業都市には数千人からのアルメニア人が居る街も珍しくなくなっていく。こうしてアルメニア人は世界中に拡散し、血縁による結束や同族意識が強固であったことも手伝って、アルメニア人の世界規模の商業ネットワークが形成されていった。国家を持たぬ商業民族、離散(ディアスポラ)の民からなる交易離散共同体アルメニアの時代に移っていったのである。

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