頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
アルメニア通史7

 
ペルシア・アラブ統治時代

 ペルシア統治時代のアルメニアを最初に襲ったのは、大宰相(ウズルグ・フラマルダール職)ミフル・ナルセスの主導するキリスト教弾圧であった。ワフラーム5世の跡を継いだヤズデギルド2世の時代(439年〜457年)にミフル・ナルセスはキリスト教を論難し、司教達の反論を招いた。アルメニア人達はゾロアスター教の強制に反旗を翻し、ヤズデギルド王は東方でエフタル族と戦っていた部隊を呼び戻して、これを鎮圧させようとした(エフタル戦争は大敗北であったのだが・・・)。

 451年のペルシア軍主力との戦い(アヴァライールの戦い)でアルメニア軍は敗北し、反乱軍を率いていた軍将アルミール(赤い)・ヴァルダン・マミコニヤンは敗死、首都アルタクサタの司教らは捕縛され、数年後に全員処刑された。ゾロアスター教の神殿が多数アルメニア国内に建造され、監視の目が厳しくなった。しかしキリスト教はすでに民衆レベルで浸透しており根絶することは不可能であった。結局ペルシア帝国は反乱の指導者バハーン・マミコニヤンが481年にペルシア総督となることで妥協をはからざるを得なくなったのである。 

 同時期東ローマ帝国では皇帝テオドシウス2世の意を受けたカルケドン公会議が開かれ、キリスト教の単性説が異端とされた。そのため単性説を採るアルメニア教会はコンスタンティノープルやローマと袂を分かち独自の道を模索することとなった。アルメニアはペルシアからもローマからも孤立することとなった。

 だが、独立を失ったアルメニアの5世紀は文化事業が興隆をみた時代であった。宗教的圧迫に対してアイデンティティを確保するための知識階級の反攻とも言えるだろうか。アルメニア文字が聖メスロプによって生み出され、その弟子や多くの教父らによって、様々な神学の著作が書かれ、ギリシャ語からの書籍の翻訳がなされた。特に434年に聖書のアルメニア語訳がなされた意味は大きかった。

 その後歴史は混沌とし始める。ローマはゲルマン民族の大移動、フン族の侵略により遂に西ローマ帝国が滅亡した。ペルシアはエフタルの攻撃に敗北し東部領土の大部分を失い、エフタル討伐に向かったペーローズ王が逆に討ち取られるなど、完全に屈服させられ、エフタル族の朝貢国に転落してしまった。

 戦争もアルメニアが戦場になることはあったが、それはもはやペルシアとローマ(すでにビザンツ帝国と呼んだ方がよいであろう)の間の紛争であった。アルメニア人は主にビザンツ側の騎馬傭兵として参陣する者がある程度の関わりであった。 

 大規模な事件、戦争が発生するのは6世半ばから7世紀に入ってからである。この時代はビザンツがユスティニアヌス1世、ペルシアがホスロー1世アノーシルワーンと言う名君の統治した時代を受けて、領土が絶頂に達した時であった。最もビザンツはユスティニアヌスの拡大戦争とそのための増税で国土は疲弊し、異端弾圧など宗教的混乱が国内の統一性を脅かす結果となっていた。ペルシアではホスロー1世の内政改革(内容自体は優れたものであったが)に対する反動があって貴族層などに王家への不満がくすぶって政治的求心力が曖昧になっていた。アルメニアは、この間にも何度もペルシアへの反乱を企てたが、ことごとく失敗した。

 そのような中、ローマとペルシアは全面戦争に突入した。引き金は、ビザンツ皇帝マウリキウスの殺害である。「ホスローとシーリーン」の主人公として有名なペルシア王ホスロー2世パルヴィーズは、マウリキウスの援助で即位できたのだが、恩人の不当な死に憤り復讐を誓った(ふりをした)。マウリキウスは極めて優れた軍人であり統治者であったのだが、それ故に他者に理解されず、市民や軍隊に不人気であったためクーデターで廃位させられ、息子達共々惨殺された。そしてクーデターの実行者であり、後継皇帝となったフォーカスは余りに無能かつ粗暴であった。ホスロー2世はこれを行幸として、即位時にマウリキウスに譲渡したアルメニアを奪還しようと考えていたと思われる。

 602年に始まった戦争はホスロー2世の思惑以上に拡大し、ビザンツ帝国からシリアとエジプトを奪取するという、未曾有の大成功を治めた。これはビザンツ帝フォーカスが危機に直面して自暴自棄になったこと、ビザンツ側のオリエント総督だった将軍ナルセスが反旗を翻しペルシア王に与したこと、単性派のキリスト教に保護を与えるというペルシアの政治宣伝効果が単性派の多いアルメニア、シリア、エジプトで支持されたこと・・・等々の複合的な要因の結果であるとも言えた。途中フォーカスから政権を奪ったヘラクリウス帝もペルシアの進撃を阻むことは出来ず、アルメニア方面から進出したペルシア将軍シャヒーンがアナトリア奥地まで進撃し、キリキアまで支配下に置いた。ビザンツ帝国では首都をアフリカのカルタゴに遷す案まで浮上した。

 このままならばホスロー2世はアケメネス朝以来の大帝国を建設した英雄となったところであったが、ビザンツ側の反撃が622年始まると瞬く間に占領地を放棄することとなった。

 ビザンツ皇帝ヘラクリウス1世はカッパドキア出身であると言われるがアルメニアのアルサケス王家の血縁者であった。かつてのローマの宿敵であったアルサケス朝パルティアの末裔がローマ皇帝となるとは何とも皮肉な結果である(ビザンツではアルサケス家は名門であると考えられていたので、後の皇帝にもマケドニア朝バジレイオス1世などアルサケス家出身であると主張する者が現れる)。

 ヘラクリウスは即位当初はフォーカス派の残党に苦しめられ敗退を繰り返したが、620年頃から反撃の準備を整え、メソポタミアのペルシア本土を目指して進撃した。そして苦戦の末、627年ニネヴェ近郊の戦いでペルシア軍主力に完勝し、ペルシアを屈服させることに成功した。ホスロー2世は退位し、暗殺され、領土は戦争以前の状態に復された。

 アルメニアなど主戦場となった地域は荒廃したがヘラクリウスはペルシアを実質的に属国化させた大逆転勝利を収めた。アルメニアに関しては。ヘラクリウス帝は宗教的合一を謀ろうと交渉を重ねたが、形式上の合一はなされたものの、軋轢は減らずユスティニアヌス2世時代には軍事衝突に発展して頓挫した。 

 ペルシア戦争の終結による平穏は長くなかった。ヘラクリウス帝が都コンスタンティノープルに凱旋してまもない634年に正統カリフ(ハリーファ)国の侵入が始まったのである。アラブ軍は635年には早くもダマスカスを占領、シリアを掌握した。ヘラクリウス帝は自ら迎撃に出陣したが、636年ヤムルークの戦いで大敗北し、ビザンツはシリアを永遠に失った。そして正統ハリーファ国はシリア総督ムアーウィア(後のウマイヤ朝開祖)麾下の軍勢をアルメニアにも派遣した。将軍ハビーブ・イブン・マスマラに率いられたアラブ軍はアルメニアには640年10月頃現れ、テオドル・ルシュトゥニ率いるビザンツのアルメニア・テマ軍を破り、アナトリアのエルズルムを制圧して、ここを拠点に東進し、アフラート要塞を落とし、ササーン朝のマルズバーン(総督)が固守していたペルシア領土のアルメニア州都ドヴィンを降伏させ、さらにナヒチェヴァン、スィウニクと次々と主要な城塞を屈服させていった。ハビーブ将軍はさらに東グルジアに存在したカルトリ王国(ササーン家の王族が治めていた。ビザンツ帝国からは総督、パトリキウスの称号を得ていたとされる)を攻めたが情勢の変化で果たせず進軍をやめた。情勢の変化とは北方での敗戦であった。イラクのクーファからハビーブ軍の援軍として送られたサルマーン将軍麾下の6000の軍勢がアルメニア制圧がほぼ終わってしまったため転進しアッラーンとアラブ人が呼んでいたメフラン家(ササーン王族)を中心とするアルバニア王国(アゼルバイジャン)に進撃したことである。これもバイラカーンを手始めにバルダ、シャムフル、そして旧王国首都カバラ、そしてコーカサスを越えダルバンド制圧し、ほぼダゲスターン全域を征服し順調にみえたのであるが、平原部に出たところで、当時勢力を増していたハザール王国の可汗の軍勢と交戦する羽目となった。統御された1万5千騎の騎馬軍団に囲まれたサルマーン軍は壊滅した。しかしハザールは騎馬軍団が有効に働かないコーカサス山脈に足を踏み入れずアルバニアはアラブ軍の直接支配下のままであった。さらにアルメニアでも643年にテオドルが反撃しアラブ軍を破り、ビザンツ帝国から正式にアルメニア軍司令官となり、抵抗を続けていた。しかし結局、抗しきれず、652年にビザンツ皇帝コンスタンスの同意の元でテオドルはアラブ軍と正式に講和して、テオドルはカリフからアルメニアのオスティカン(知事)に任命された。アラブに人頭税と地租を貢納する事の引き替えに自治を得ることには何とか成功した。テオドルの後継者ハマザプス・マミコニヤンもオスティカンとして統治したが、その統治はビザンツよりであったという。

 アルメニア人はアラブと言う新たな支配者にも抵抗をしたが、アラブ人は寛大で彼らの宗教に特に異議を示すでもなく税金だけを求めたため、大規模なものとはならず、人々は占領下で逼塞した。だがアルメニア人の中から自立を求める人々は消えずビザンツの協力を得てアラブ人の支配から脱出しようと考える者もいた。そして彼らの主導の元、正統カリフ国がウマイヤ朝に変革したときのイスラムの第一次内戦の際、アルメニアはアラブからある程度の自由を得て、またビザンツとも友好関係を得る事に成功した。しかしウマイヤ朝の第二次内乱(683年〜692年)の際にカフカスにハザール王国軍が侵入し、ビザンツも呼応してグルジアに軍勢を送ると戦乱で地方は荒廃した。内戦を制した新カリフ、アブドュル・マリクは弟マルヤーン率いる大軍を送り、ビザンツ、ハザールを追い払ったが、その後も一進一退の戦闘は続いた。最終的に737年に12万もの大軍でハザールを駆逐することでカフカスのアラブ帝国支配は確立したがグルジアの首都トビリシを始め、地域は大損害を受けた。また一方ウマイヤ朝カリフはアルメニアの貴族の一人を侯に任命し統治を任せる形をとり、アルメニア豪族と妥協して関係はこれで安定した。逆にビザンツとの友好は一時的であった。ビザンツが8世紀初めに宗教的統合を求め、これに反対したアルメニア人を追放したことから、アルメニア教会とアルメニア人はビザンツと完全に離反することになった。

 その結果アルメニアはビザンツ帝国がイサウリア朝コンスタンティノス5世の時代に遠征を受け、セオドシオポリなどの都市が掠奪され、人民が連れ去られるなどした。アルメニアは以後ビザンツからの攻撃対象となった。

 またこの頃アルメニア地方からパヴリキアン派と呼ばれる異端派が生まれ、帝国のイコン破壊運動にも絡み、アナトリアに拡がり武力反乱まで起こすようになった。この運動は12世紀になっても根絶できず、ビザンツ帝国を長く悩ませることになる。

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