頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史6

 
 アルメニアがキリスト教化したことはササーン朝の不安を招いた。もともとアルメニアはゾロアスター教の重要な聖地の一つでもあり、アルメニア王家の祖たるアルサケス朝の諸王もパルティア時代から熱心なその信者であった。

 またメソポタミアにも多数のキリスト教が在住し、マニ教徒などと合わせてペルシア王国からすれば将来の社会不安の材料であった。ササーン朝の統治システムはゾロアスター教団と密接に関わっており、詳細は不明だが文官供給源はマグ(ゾロアスター教神官)の関係者、あるいは教育を受けた者であったと言われているから、彼ら文官層の危機感も手伝ったと思われる。その結果がティリダテス3世王の近臣、地方豪族による暗殺となって現れたのであろう。

 そしてペルシアでは新たな国王シャープフル2世が誕生する。シャープフル2世は、まだ生まれても居ないときに宮廷内の権力抗争の妥協の産物として即位したと言う波瀾万丈な一生を約束されてしまった人物であった。幼年で即位した王は成年後苦労して実権を掌握したが、その結果、陰謀策略に長けた酷薄な国王になったとも言われる。内外の情勢を吟味した結果、シャープフル2世は領土拡大が可能と判断した。
 その矛先の一つにアルメニアもあった。そしてこの時期にシャープフル2世がアルメニアに触手を伸ばしたのも頷けなくもないのである。
 
 4世紀半ばの平和をむさぼれた時代を反映してか、アルメニア王ホスロー2世は実に暗愚な人物であったからである。ペルシア王は密偵を放ち、外交使節を送り込み、アルメニア王のその惰弱につけ込み、友好を装って危機感をゆっくりそぎ落とすべく謀略外交を開始した。結果、シャープフル2世の甘言と賄賂攻勢により、ホスロー2世は遊興に耽り、首都を離れ狩猟をもっぱらとするような政務放棄の状態となった。アルメニア貴族内の親ゾロアスター教徒のペルシア側への取り込みも成功し、アルサケス王家の権威は失墜した。ホスロー2世が不摂生の末338年に死亡すると、シャープフル2世は決断しアルメニア討伐軍を送り込む。対する親ローマのキリスト教徒アルメニア貴族達はホスロー2世の生前から彼を廃位しローマのアルメニア併呑を望んでいたのでコンスタンティヌス1世(大帝)は甥のハンニバリアヌスをアルメニア王とするつもりであったという。しかしアルメニアにとっては運が悪いことに(あるいは幸運なことに)ペルシアとの戦争開始前に大帝は急死し(337年)、ローマでは大帝の息子達による皇位請求の内乱が発生し、アルメニア問題は棚上げになってしまう。ローマ帝国の混乱の中で首都コンスタンティノープルのハンニバリアヌスが処刑されてしまったのである。この間にシャープフル2世はアルメニアを制圧しアルメニア王に就いていたアルサケス朝のティグラネス5世に、ペルシアへの朝貢を誓わせ占領下に置いた。

 その後しばらくしてローマでは、コンスタンティヌス大帝の三男コンスタンティウス2世が再統一に成功し、ペルシアとの戦争にようやく突入したが、戦局は思わしくなかった。ガリアでの反乱にも悩まされたため戦争はどうしてもペルシアが優勢になったからである。それでも345年にはシャープフル2世をシンガラで敗走させ、ペルシア王子ナルセスが捕らえられ殺害されるという事件が発生した。この敗北でペルシアはアルメニアからも撤退したが、ローマは長期間ペルシア軍と対峙する余裕がなく、ティグラネス5世は身の安全を図るためローマにもペルシアにも朝貢をする天秤外交を強いられることになった。

 ナルセス王子はローマ軍に残酷に殺されたらしく、シャープフル2世は悲嘆に暮れたが、同時に復讐も誓い359年には再度出陣しローマ軍を屈服させ、アミダ市などを占領し、とうとうシンガラを破壊した。コンスタンティウス2世は、ガリアの反乱鎮圧の後には、今度はアラマン族、フランク族などのゲルマン諸族の侵入に悩まされたためペルシアへ反撃は失敗に終わった。

 そしてコンスタンティヌス2世が死亡すると、甥にあたる「背教者」ユリアヌス帝が即位した。ユリアヌス帝は禁欲的な人物で、またゲルマン戦争にけりを付けるなど有能な軍人でもあったが、不可解で無謀なペルシア遠征を行い、ペルシアの首都ティースフォーンを包囲しようとしたが目前で阻まれ、帰還途中、ペルシア軍の投槍を受けて戦死した。

 ユリアヌス帝の死後、またもローマは後継者問題で混乱し、一時的に軍中で皇帝となったヨウィアヌス帝は退却の安全を確保するためペルシアにニシビス市のペルシアへの割譲、ローマのアルメニアへの不干渉など不利な条件での停戦を受け入れることになった。

 その頃キリスト教教父や貴族達の努力で新たに即位し地位を保っていたアルメニア王ティグラネス5世の弟アルサケス2世ティラヌスは、残念ながら惰弱な人物で、政務放棄同然に狩猟にふけるなどする点では父ホスロー2世とかわらなかった。このような王の元ではローマの干渉がなくなったアルメニアに、シャープフル2世の大軍をとどめる力などあるはずもなかった。364年に進撃してきたペルシア軍は無理をせず悠然と侵攻し、武威を示した後にアルメニア王に友好的態度を取り和平交渉を提案した。アルサケス2世は愚かにもこれを信じ、招かれた和平交渉の宴の場で捕らえられ、メディア地方のエクバターナ市にある「忘却の塔」と呼ばれるアニウシュ城に幽閉された。アルサケス2世はここで367年に暗殺(自殺?)された。アルメニア国内は混乱し、一部のアルメニア人はローマ名族の娘でアルサケス2世の妃オリンピアスを担ぎ、城塞に籠もり抵抗したがシャープフル2世はこれも撃破して王妃は捕らえられた。368年にはアルタクサタなど主要都市が大略奪を受け、アルメニア人は塗炭の苦しみを受けた。それでも国内のキリスト教徒貴族達は反抗を続け、アルサケス2世の息子パパ(アパ、パラ)を即位させた。

 アルメニア王が捕縛された時のローマ皇帝はウァレンス帝の時代であった。帝国はアルメニア回復に必死の交渉を重ねたものの、その最中に皇帝はバルカンへのゴート族の侵入に対して出陣した際アドリアーノポリでローマ帝国滅亡の遠因となったと言われるような大敗北を喫して死亡した。しかしペルシアもこの機会を活かすことが出来なかった。なぜならシャープフル2世が老齢のため衰弱し378年にやむなく軍を撤退する事を決意したからである。老王は379年に死亡した。このためアルメニア問題はうやむやとなってしまい、アルメニアの地はローマとペルシアが睨み合う中立状態のような形勢となった。またこの混乱の中で377年頃からアミコミ家(マミコニアン大公家)がアルメニアの実質的統治者となっていく。

 ローマの混乱を押さえ込んだローマ皇帝テオドシウス1世の時代になって、ようやく和平がペルシアと成立した。この結果アルメニアは国土の5分の1をローマが、残りをペルシアが分割支配することとなった。387年のことでアルサケス家のアルメニア王は、このローマ側の5分の1の小さな所領で存続することになった。

 しかし束の間の和平はペルシア王バフラーム5世の時代に破られることになる。ローマは和平後、392年に当時のアルメニア王が死去した際、アルメニアのローマ側を直轄地とすることに決めた。軍権はローマの送る総督が握り、内政はアルメニア貴族から5人の長官(サトラップ)を選び分割統治させることにした。これにサトラップに選ばれなかった貴族が抗議し、ペルシア側アルメニア州の総督になっていたアルサケス家のホスローを王に推戴し、ペルシア側で即位させた。アルメニアに戦雲が拡がっていると見たテオドシウス1世は新たにテオドシオポリス(現エルズルム)要塞を築き、これに備えた。さらに420年代になるとペルシア王がキリスト教と迫害を行った際にローマに逃れた人々の引き渡し要求を皇帝テオドシウス2世(正確には実権を握っていた皇姉プリケリア)に求めてきた。テオドシウス2世がこれを拒否したため、421年に両国は遂に再び戦争状態となった。ペルシアは軍を進撃させたが、逆にローマの反撃に遇い、ローマ軍はメソポタミアを劫掠、野戦でペルシア軍を撃滅した。ローマ軍はヨウィウス帝以後ペルシア領になっていた重要都市ニシビスを包囲した。ペルシアの宰相ミフル・ナルセスは巧みにニシビスに籠もって防戦したが、敗色は濃厚であり、ペルシア東方のトルコ系遊牧民の情勢が不穏になってきたという情報が流れたため、422年にペルシア国内の信仰の自由を約束させられてワフラーム5世は和平を飲まざるを得なくなった。しかしこれはアルメニアの自立には不利に働いた。

 なぜならこうした情勢の中で、428年、バフラーム5世は地方統治を引き締めるためにアルメニア王を廃位し、ペルシアの州に編入し長官を派遣してアルメニア貴族を統率させる方針に転換したためである。当時のアルメニア王アルダフシール(アルタクシアス4世)が不人気であったことも災いした。ローマ側もこれを承認し、改めてアルメニアを分割統治を継続する事で和平が成立した。

 こうしてアルサケス朝アルメニア王国は滅亡し、アルメニア全体はローマ・ペルシア両帝国に分割されたまま、その直轄統治領となった。

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