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アルメニア通史5


 しかしながらアルメニア問題以外ではローマとパルティアの関係は次第にパルティアが不利となっていった。当然であろう。国力がやはり違いすぎた。ローマの人口は5000万にも達したと言われるが、パルティアは多く見積もっても1000万には届かなかった。さらに重要な交易相手であった中国後漢王朝が衰亡し東西交易が衰えたことにより王室財政が窮乏したこと、地方勢力が経済的に発展したこと、王族間の後継者抗争が激化したこと、ローマとの戦争で直轄地で最も豊かなメソポタミアが荒廃したこと、東方に新興クシャーン朝が、北方にアラニ族がそれぞれ勢力を増して圧迫されたことなど様々な要因が伴い、国力は落ちていった。ローマ自体も軍人皇帝時代を経て弱体化の傾向が顕著となり、国内経済の変質、人民の流動化、ゴート人やゲルマン人の革命(戦士王時代)による戦力増強に伴い(部族単位の攻撃から、幾つかの部族が組織的に連合するようになった)北方の戦線が予断を許さなくなったことなど、滅亡への道を着々と進み始めていた。

 先に滅亡したのは国力に劣るパルティアであった。
 紀元3世紀、ローマ皇帝カラカラの侵攻は撃退したパルティアであったが、王家はこのとき二人の王子にわかれて内戦中であった。そこをペルシス地方エスタフルの神官出身の貴族ササーン家に突かれたのである。
 だがこの革命は国家の滅亡というより発展的解消とも言うべきものであった。
 弱体化したアルサケス朝の支配が強力な経済的な地盤を持つようになった地方勢力サーサーン家に取って代わられた結果、逆に国家としては強大化して新ペルシア帝国へと変貌したからである。
 ローマ側はバルカンに侵攻したゴート人への対応に追われ、ペルシアの攻勢を支えきれず、戦略的優位をペルシアに与えることになった。ちなみにこの間アルメニアはカラカラ帝により攻め込まれ一時ローマに併合されかけ、国王バカルシャ−クは捕らえられているが、カラカラの権威失墜、暗殺などの混乱、ペルシア帝国への対抗勢力をローマが必要とするなどの政治情勢の変化もあり、バカルシャークの子ティリダテス2世(ホスロー1世)が217年、ローマのマクリヌス帝の承認を受けアルメニア王となっていた。

 サーサーン朝の開祖アルダフシール1世パーパカーンはオーフルマズダカーン(ホルミズド)平原の決戦でパルティア最後の王アルタバヌス4世(古い文献5世としていることが多いので注意)を敗死させ(226年〜227年)、パルティアの大貴族スーレーン家やカーレーン家の支持と同意の元、226年に「諸王の王(シャ−ハン・シャー)」と称してサーサーン朝ペルシア帝国(エーラーン・シャフル)を樹立した。山中に逃れたパルティア王子アルタバステスも捕らえられ処刑された。アルダフシールはさらにアルサケス家と婚姻関係を結んでいたためサーサーン朝に異議を唱えたインドのクシャーン朝を討伐し、パルティアの首都ティースフォーンを陥落させ(226年)、メソパタミアでローマと戦い(230年)、メソポタミア北部の重要な都市ハトラを陥落させた(239〜240年)。ハトラ攻略中か陥落直後にこの英傑アルダフシールは逝去(近年はあるいは引退した可能性もあるとする説がある)し、同じ軍中にした王子シャープフルが即位し、すぐさま実権を掌握した。シャープフルもやがて父に劣らぬ優秀さを見せることになる。

 そうした情勢の中アルメニアはサーサーン家の攻撃を逃れたアルサケス家の王族(カーレーン家の者であったとも言われる)が地元豪族達の支持を集めて徹底抗戦の構えを見せていた。前述のアルメニア王ホスロー1世(即位年217年〜52年)は優れた軍事指導者でローマやスキタイ族の支援を取り付けてペルシア軍を寄せ付けず、10年以上抵抗を続けたが、和平の使者を装ったシャープフル1世の送り込んだ刺客に暗殺された。後継者の王子ティリダテス(後の3世)は幼少で臣下に守られてローマに亡命するしかなく、アルメニアもペルシア帝国に併呑された。アルメニア王にはシャープフル1世の臣下である傀儡王アルタバデスが就任した。

 シャープフル1世は、ローマに対してその後も連勝を続けたが、シリアの隊商都市パルミュラのオディナトゥス王の反撃を受けシリアに獲得した領土を失った。272年にシャープフル1世が薨去すると、後継者が短命であったり、貴族や司祭達の権力闘争なども加わり安定せず、第5代ワフラーム2世の時代に東方のスキタイ系サカ族が283年に反乱を起こしたため、ローマと和平を結ぶことになった。このときアルメニア地方はローマに譲渡され、アルサケス家の王が復位した。

 アルサケス朝時代の画期的事件はティリダテス3世(光輝王、287〜330)によるキリスト教受容であろう。この時代にはローマの保護なくして王朝の維持は不可能な状態であったから、ローマからのキリスト教文化の流入は様々な形で行われていた事も背景にあったと思われる。

 さて296年にササーン朝ペルシアのナルセス王はローマが各地の内乱で苦しんでいる状況につけ込み大軍をアルメニアに送ってきた。元々王統の主流派ではなくアルメニアに長く軍と共にあったナルセス王の即位は一種の宮廷革命であったとの説もあり、内部矛盾から目を逸らさせるために外征が必要であったのかも知れない。当然ティリダテス3世王はローマに援軍を求めた。この時ローマの正帝だったディオクレティアヌスは当時エジプトに起こったドミテウス・ドミティアヌスの反乱討伐に向かっていたため、東の副帝ガレリウスが平定に向かうことになった。しかし兵力が足りずペルシアの防衛部隊を敗れなかった。結局翌年になって部隊をかき集めてナルセス王率いるペルシア軍をほぼ壊滅させ、同行していたペルシア王の家族も俘虜にされるほどの大勝利を博して、ティグリス側上流部を占領してアルメニアも解放された。久しぶりの対ペルシアへのローマ側の大勝利であった。

 このおかげで、戦争がない40年の平和がアルメニアを訪れる。そうした精神的余裕がキリスト教受容に繋がったとも思われる。ティリダテス3世と臣下達の受洗はグレゴール・ルゥ・サヴォリーチェ(啓蒙者グレゴリウス)により301年(303年説もある)になされたとされる。しかし実際にはそれ以前に人質としてローマに滞在していたこともあるティリダテス3世個人はキリスト教を受け入れていたと考えられている。

 またグレゴリウスと王のキリスト教受容には様々な伝説的エピソードがある。グレゴリウスの父アナクはアルサケス家に繋がる貴族であったが、ペルシア王に通じてティリダテス2世を暗殺した張本人であったという。しかし情勢が変化して、その後ローマにいた王の息子であるティリダテスが3世として即位すると暗殺者たるグレゴリウスの一家は逃亡した。時が過ぎ逃亡生活の中、キリスト教に帰依したグレゴリウスは宣教の意味もあって密かにアルメニアに帰還した。だがあえなくティリダテス3世に捕らえられ、牢に閉じこめられてしまう。 しかしティリダテス3世が37名もの少女を惨殺するなどキリスト教徒に迫害を加えるなど、様々な暴挙を行い、ついにその報いを受け狼狂にかかると、獣のようになった王を救えるのは閉じこめられた聖者のみだという託宣に従い(密かにキリスト教徒となっていた)王の妹が牢獄のグレゴリウスに助けを求め、見事王の病をいやしたという。またティリダテス3世自身にも、ローマ皇帝ディオクレティアヌスがゴート王ヘルチェに一騎打ちを申し込まれたとき、皇帝に変装してゴート王との戦いに勝利したという伝説がある。
 王はかくして後年神格化されていくのである。

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