頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史4


 その後アルメニアはローマとパルティアの争奪の対象となった。
 ローマにとってアルメニアは黒海経由の交易の中継地として重要であったし、パルティアにとってはこの地のローマ支配を許すことになればパルティア攻撃の重要な基地となりうることから(ティグリス、ユーフラテス川の上流にあるアルメニアは、ティグリス川河畔にあるパルティアの首都セレウケイア・クテスィフォン攻撃をたやすくしてしまう)ローマ軍の駐留は絶対に許せないことであった。
 戦争は一進一退であり、アルメニアやポントスと違い強力な騎馬兵団を有するパルティアをメソポタミア平原で撃破することはローマ軍でも困難であった。

 パルティアは国力では圧倒的な差がある事を冷静に認識しており、正面からの決戦を避け、砂漠地帯に引きずり出し消耗させる戦法を取り、大規模な会戦で決着を付けようとしたポントスやアルメニアの失敗を繰り返さなかった。

 さて大国の狭間におかれることになったアルメニアではローマに捕らえられ殺されたアルタバステス王の長子アルタクセスがパルティアとアルメニア豪族の支持を得て王位についていた。
 アントニウスは、メディア(イラン西部の広大な地方とは別で、メソポタミア北部のメディア・アトロパテネ地方のこと)の王アルタバステスとアルメニアの一部を割譲することで同盟を結び、自分の息子アレクサンドルの妻にメディア王の娘イオペタを迎え、アルタクセスを駆逐しようとした。
 メディア王はアントニウス麾下のローマ軍の支援を受けている内は優勢であったが、アントニウスが政敵オクタウィアヌスへの対抗のため軍隊を引き上げるとパルティアの援軍を受けたアルタクセスがメディア王をローマに追放しアルメニア王位を確保した。

 ついにメディア王国は以後パルティアのものとなり、アルメニアへの影響力をさらに増した。
 しかし紀元前20年になるとアルメニア貴族とアルタクセス王は不和となり、アルメニア貴族は、初代ローマ皇帝となっていたオクタウィアヌス・・・アウグストゥスに父王アルタバステスとともにアントニウスに拉致されていたアルタクセスの弟ティグラネスを送り込んでくれよう嘆願した。

 アウグストゥスはティグラネスに軍勢をつけて送り込み、またメディア・アトロパテネ回復のために前のメディア王アルタバステスの息子アリオバルザネスを送り込んだ。
 そしてアルタクセスは、ローマ軍が到着する前に暗殺され、ティグラネスはやすやすとアルメニアの新王となったのである。
 しかしティグラネスは表面上はローマに臣従していたが実質的にはより身近な脅威であるパルティアとの関係を深めざるを得なかった。
 紀元前6年頃にティグラネス3世が死去すると、息子のティグラネス4世が妹(あるいは姉)でティグラネス4世の妻でもあったエラトが共同統治という形で即位した。
 しかしローマではこれに異を唱え、より意のままになる新王の兄弟の一人アルタバステス(2世)を紀元前2年に王位につけた。
 しかしアルタバステスはアルメニア貴族たちにも、パルティア帝国からも敵意を持って迎えられたため、紀元前1年に逃亡していたティグラネス4世とエラトはそれら諸勢力の後援を受けて復位した。
 この事態にローマもすぐさま大軍を送り込んできたため、結局ティグラネス4世は王位を保ったものの屈服し、不利な和約を結び和平を請うこととなった。
 その後、紀元元年に地方反乱を討伐中にティグラネスは戦死し、エラトも同年退位、アルタクシアス朝はここに滅んだ。
 アルメニア王位にはメディア・アトロパテネの王子アリオバルザネスが即位することになった。
 ちなみに彼の母国メディア・アトロパテネはパルティアの領土のままでアルサケス家の皇子の一人アルタバーン(後のパルティア皇帝)が統治していた。

 露骨にローマの後援を受けて新たなアルメニア王となったアリオバルザネスは不人気で反乱が相次いだが、ローマの駐留軍がことごとくこれを潰してくれたので地位は安泰であった。新王は運良く天寿を全うしたようである。
 その後は息子のアルタバステス(3世)が王位を継いだ。
 しかし彼はすぐに暗殺されたか戦死したようで、その後はユダヤ王ヘロデの孫がティグラネス5世として即位し他が長続きせず、短期間パルティア王となったこともあるアルシャク家のヴォノネスが国王になった。その彼も紀元16年にパルティア王アルタバーン3世の圧力で追放された。

 変転の末、アルメニア貴族は権力を持つような王ではなく象徴的な王として、ポントス王ポレモンの息子ゼノをアルタクシアス3世として迎え入れた。
 この妥協はうまくいったようで、その後ローマの関心がゲルマン人との抗争に向いたこともあって、メソポタミアとシリアは安定した時期を迎えた。
 アルタクシアス3世が病死すると、パルティア王アルタバーン2世は息子をアルメニア王にした(名前は伝わっていない)。しかし彼はアルメニアの王座を餌にローマに唆されたイベリア(グルジア)王ファラスマネスに暗殺された。それに対抗してパルティア王が送り込んだ王子ウロード(オロデス)もファラスマネス自身が一騎打ちで破る(史実かどうかは不明)などして、パルティアの軍勢とともにアルメニアから追放した。
 晩年ファラスマネスは弟のミトラダテスをアルメニア王位につけた。
 パルティア王アルタバーン2世はイベリア人討伐を決意したものの、コーカサス山脈を越えて侵攻してきた遊牧民アラニ族に本国を脅かされたため、これを中断し、しかもアラニ族討伐中に国内に反乱が起き、ローマの傀儡であるティールダート3世がパルティア貴族の支持を得て新たにパルティア王となった。
 アルタバーン2世はしばらく東方の遊牧所族の間で逼塞し、後に王位に返り咲くが以後アルメニアに関わる余裕はなくなってしまった。
 それでもアルメニア王ミトラダテスの権力は安定せず何度も追放され、そのたびに兄やローマの助力で復位するということを繰り返した。
 しかし兄のイベリア王ファラスマネスが息子ラダミストゥスにアルメニア王位を与える決意をしたため、彼は孤立無援となった。
 ラダミストゥス率いるイベリア軍に首都アルタクサタで包囲され、兄イベリア王の賄賂攻勢でローマはラダミストゥスの攻撃を黙認した。
 降伏したミトラダテスは甥のラダミストゥスに妻子もろとも処刑された。
 だがラダミストゥスは暴君であったらしく、アルメニア貴族や臣民たちの支持を得られず、またアルタバーン2世の死後混乱していたパルティア王国がワラガシュ(ヴォロガゼス)1世の元再び勢力を増し、アルメニアに攻勢をかけてきたため、その政権は不安定であった。
 そして、まもなくパルティアの意を受けたアルメニア貴族に追放された。

 かわりの新たなアルメニア王はワラガシュ1世の弟ティールダート(ティグラネス)であった。
 このアルメニアの迷走ぶりにローマ軍も本格的に動きだした。
 ワラガシュ1世も弟を支援するため自ら出陣した。
 
 久しぶりにパルティア軍とローマ軍が全面的交戦をする戦争に発展したが、戦局はパルティア優位に進んだ。西暦58年には名将コルブロ率いるローマ軍にアルメニアを席巻されたが、62年にランディアの会戦でローマ軍は撃破され、結局ローマのネロ帝は和議を選択した。
 
 アルメニアはパルティア王族(アルシャク家)の者が王位に就き、宗主権はローマにあるとする妥協(ランディアの和約、63年)が成り立ち、紀元66年ティールダートは新王朝の開祖トリダト1世としてローマでネロ帝の手で戴冠した。その後も紆余曲折はあったものの、パルティア滅亡までこの体制は続いた。
 アルシャク朝アルメニア王国時代となった訳である。

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