頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史3


 ティグラネス1世は紀元前140年頃に生誕したと推測されている。紀元前95年、父?ティグラネス(またはアルタタバステス)の死去に伴い、パルティアのミフルダート2世の支援を受けてティグラネスはアルメニアに帰還した。このとき、既に40歳を超えていたようだ。彼はパルティアの宮廷で年少期から青年時代を過ごし、東方文化のなかで育ったため、彼以後のアルメニア王家の宮廷文化に、イラン系アーリア的要素がアルメニアに流入する事となった。
 ティグラネスは支援の見返りに領土を差し出す羽目にはなったが。圧倒的大国であるパルティアには逆らえるはずもなく、また自身の地盤を固めることからティグラネスは始めなければならなかった。
 前王の子?と言ってもアルメニア王はこの時代の他の王国と等しく地方豪族の連合体の議長のようなものであり(その点はパルティアも同様である)、王の権力は制限されていたからである。

 ティグラネスはアルメニア西北、黒海に面するポントス王国の王ミトラダテス六世の娘クレオパトラと結婚し、同盟を結んだ。また自分の娘アウトマ(アリヤザーテ)をパルティア王ミフルダート2世に嫁がせた。

 パルティア皇帝もローマの将軍スラとの交渉結果に大いに不満を感じていたため、ローマに対抗すべくポントス王と同盟を結んだ。こうして当時の3つの王国は相互に同盟関係を築き、アルメニアは国内の統治体制を固め、ポントス王はローマに挑戦状をたたきつけ、パルティアはセレウコス朝最後の領土、シリア奪取を目指した。

 だが三国の安定は紀元前91年頃にミフルダート2世が死亡したとたんに崩れてしまう。パルティアは下メソポタミアの総督ゴータルズ(ゴダルゼス)が皇位を称した。
 従来、彼は総督の一人でしかなかったとされていたが、実際はミフルダート2世の皇子であったようだ。ゴータルズ1世はミフルダート2世の生前95年頃から「諸総督の総督」と称し(あるいは父に許されて)、皇族の最上位に位置し帝国最大の穀倉地帯を制していたが、強権を握っていたとは思えず様々な問題に対処できなかった。また叔父に当たるシナトロケスが、ミフルダート2世の生前からイラン高原で王位を宣言して諸貴族の支持を集めようと蠢動していた。そのためメソポタミアに基盤を置くゴータルズ1世はイラン高原の貴族達の支持を集めるまでには至らなかったのだろう。
 ミフルダート2世の他の息子達も反旗を翻し、諸藩国も自立を謀った結果として、帝国は未曽有の大混乱に陥ったのである。ゴータルズ1世は皇帝号たる諸王の王の称号を名乗らなかった事からも、その権力の脆弱さが伺えるであろう。
 一方ポントス王はローマ支配に不満を持つ多くのギリシャ系住民の支持を得て、一時大いに勢力を伸ばしたが、紀元前86年にローマ軍に大敗を喫して逼塞した。彼の野望は挫かれ、ポントスはローマの執拗な攻撃に晒されることになった。

 こうした情勢の中ティグラネスはまず混乱しているパルティアに目を向け、軍勢を送り込みユーフラテス川中流域のパルティア支配下の小国ゴルディエネとアディアベネを占領し、イラン西方部のアトロパテネ王国も屈服させその属国化に成功した。
 さらにパルティア王となったゴータルズ1世の支配下にあった北メソポタミア、オスロエネ(エデッサ)も征服した。ゴータルズ1世は、この戦闘の混乱の中で戦死したか、暗殺されたか、死亡していなくとも実権を失った可能性がある。前87年頃に即位したと考えられるミフルダート3世(ゴータルズ1世の兄弟?)に皇帝位を奪われたのであろう。
 ところがミフルダート3世の治世は前80年頃に終わり一人、兄弟か息子のウロード(オロデス)1世に引き継がれた。しかりウロード1世の治世は安定せず、ミフルダート2世の弟シナトロケスもイラン高原部で未だ王位を称しており、帝国は無政府状態は続いた。
 そして前76年頃までに、ウロード1世の治世は終わり、名称不詳の人物(アルタバーン?)にメソポタミアを中心とする勢力基盤を奪われたようである。

 さてアルメニアにおいて、前83年に大事件が起きた。パルティアに王を殺され、内乱に明け暮れていたシリアのセレウコス朝で首都アンティオキアの住民を中心に、ギリシャ人の王家を見限りティグラネスを新王に迎え入れることを決定したのである。
 喜び勇んでティグラネスはシリアに進軍し、アンティオキアに入城した。
 
 こうしてティグラネスはアルメニア、シリア、メソポタミア、イランにまたがる大王国の主となった。王は東により過ぎた首都アルタクサタを移転する計画を立て、広大な領土の中心部に新首都ティグラノケルタ(ティグラシャート)を建設した。
 新首都は10年もたたず、未完成でありながら各地から人々が集い、王専用の広大な狩り場や果樹園、釣り堀を完備し、高さ50キュービットの頑丈な城壁を持つ、人口30万を超える大都市に発展した。
 古来より、それはディヤルバクル市であると考えられていたが、実際はその近郊の別の場所にあったようだ。

 ティグラネスは、宗教的にはゾロアスター教徒であった。ただしハカマーニシュ朝の王室が信仰していた教義とは差異のある、分派あるいは地域色の強い土俗的アーリア的古代宗教の系譜を継いだものであったと推測されている。アラクス河をアナーヒータ女神と同一視して崇拝したように、主神アフラマズダに対する信仰は希薄で、おそらくはティグラネス一世以後は、パルティアの影響を受けて、ミスラ神が主神の座を占めていたと思われる。またペルシアやパルティア帝国でも確認できる最近新婚も受け入れられていたようである。この風習はキリスト教徒化した後、近代まで受け継がれた。

 ティグラネス1世の幸せは長く続かなかった。得意の絶頂にあった王に立ちはだかった国家があったからである。言うまでもなく、西方古代世界で最も戦争が大好きな、ならず者国家ローマ共和国である。

 この頃ローマはスラを中心とする勢力とマリウス、キンナを中心にする勢力が敵対して内乱が長く続き、スラもマリウスもキンナも死んだ後でも混乱は引き続いていた。スペインにはセルトリウスの反乱が、イタリアでも有名なスパルタクスの乱が紀元前72年に発生していた。

 これを見てスラに敗れて屈辱的な休戦を余儀なくされていたポントス王ミトラダテス6世が、懲りずに74年に再び決起したりもした。

 ポントス王は圧倒的な大軍で一挙にけりを付けるつもりであったが、しかしローマが送り込んだルクスス将軍の率いる4分の1にも満たないローマ正規軍に完敗して、71年にはアルメニアに逃げ込むことになってしまった。傭兵やら、民から無理矢理集めた軍隊では、例え少数でも油断ならない将軍に率いられたローマ軍に勝てるわけがなかった。

 そこで頭を捻ったミトラダテス6世は単独でローマに勝てないと考え、救援を同盟者のティグラネスに求めることにした。

 ティグラネス王もローマの勢力がこれ以上アジア側に及ぶことは得策でないと考えて、これに同意して10万以上の大軍を収集して出陣した。ローマ軍はポントスにも兵を振り向けていたため2万にも満たない兵力であったが、ルクススは大軍ではあってもポントスと同じで傭兵や民兵の寄せ集めに過ぎないアルメニア軍をたやすく撃破して、アルメニア王ティグラネスは自らが作り上げた首都ティグラノケルタも放棄して逃亡する羽目に陥ってしまった。おそらく事前の交渉の中で、多くの者がローマに内通していた結果であると考えられる。ティグラネスは領土の割譲を提示して、内乱状態にあったパルティアの皇帝の一人に援軍を求めた。この皇帝が誰なのか分からないが、バビロン天文日誌の研究結果によれば名称が不明な皇帝(前77/76〜前62年頃在位)で、通説のフラハート3世ではないようである。このパルティア皇帝(アルタバーン2世とする説もある)はルクススからも使者が送られていたので、どちらにも協力しない態度で終始対応し老獪にも漁夫の利を得んとした。実際、後のパルティアは失った領土を如才なく手に入れる結果となった。

 ティグラネス王にとって幸運にもルクススは無理がたたって(勝ったとは言え倍以上の敵に戦いを何度も挑むのは無茶な戦いには違いない)兵士の信望を失いローマに帰還したため、ティグラネスは首都には帰ることが出来なかったが、セヴァン湖近郊のアルタクサタ城塞に逃げ込み小康を得た。

 しかし悪いことは続くもので、紀元前66年にティグラネスの息子で同名のティグラネス王子が後継問題で不満を持ったらしく父に謀反を起こした(ややこしい)。まあそれ以前に二人ほど父王に謀反を疑われて他の王子が処刑されているから、王子の反乱の動機も何となく推測できる。なにか不手際があったティグラネス王子が殺される前にと・・・、切羽詰まって謀反を起こしたものであるようだ。王子はフラハート3世に懇願して軍勢を借りることに成功したが、父王にあっさり敗北した。王子はフラハート皇帝にまた泣きついたが、パルティア皇帝は無能なこの厄介者を見限っていたので、なんとか言いくるめて、ルクススに替わってローマが派遣してきたポンペイウス将軍を頼らせた。ポンペイウスは王子の亡命を幸いと、彼とともに大軍を率いてアルタクサタに向かった。勿論、ポンペイウスはティグラネス王子のために戦うつもりなどこれぽっちもなかったろうが、無能な王子の方は嬉々としてローマ軍についていった。こうしてティグラネス王子の先導もあってローマ軍はたやすくアルタクサタを包囲した。ポンペイウス率いるローマ軍はルクススの時と違い6万もの大軍で、ティグラネス大王は手も足も出ず降伏し、アルメニア本土を除くほとんどの地域は旧に復して、各小王国は元の主人のものとなった。ただし新たな宗主国はパルティアではなく当然ローマである。王の新領土だったシリア王国もローマの直轄地となり、大アルメニアは儚くもあっさり消滅した。アルメニアの実権も息子の一人アルタバステス(アルタヴァズド)2世が握り、ティグラネス「大王」は全てを失い、惚けたようになってやがて生涯を閉じた。

 そしてアルタバステス2世もエジプト女王クレオパトラ7世にそそのかされたローマのアントニウス将軍が遠征したときに捕らえられローマに連行され殺されてしまうことになる(紀元前30年)。

 一方ティグラネス王子は、ポンペイウスによってローマに送られ、愚者として処刑された。

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