頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
アルメニア通史2-1

 さて地方と在来の住民、そしてウラルトゥの旧王都ティシェバイナを紀元前585年に襲撃して制圧したのは、遺跡に残された鏃などから、スキタイ系遊牧民であったと思われる。このスキタイ系遊牧民は、おそらくメディア王国を構成する諸部族の一つだったのだろう。アルメニア高原はハムグマターナ(現ハムダーン)を首都とする古ペルシア語でマーダ、ギリシャ語でメディア人の王国が支配するところとなったのである。
 やがてハカマーニシュ朝の時代には、この地域はその住民を含めてアルミナ(アルメニア)とイランの人々に呼ばれていた事が、ペルシア王ダーラヤラウの碑文にみえる。

 また現在のアルメニア語に繋がる古アルメニア語は、紀元前七世紀頃から次第にこの地方に広まったと考えられている。この語を話す人々は、小アジア方面から進入したインド・ヨーロッパ語族のアーリヤ系民族であったと思われる。ウラルトゥ王国の一部族であったアルミナが、王朝末期からメディア王国時代にかけ、次第に有力となり支配層を形成していったのだろう。彼らが実質的なアルメニア人豪族のご先祖様と言えるだろう。

 アルメニアの名が確実に確認されるのは、このペルシア碑文が最初であり、ヘロドトスが「歴史」の中で「アルメニオイ」と呼び、後の時代ストラボンが「地理」の中で「テッサリアのアルメニオンという都市に住むアルメノスを・・・」と記述したことの由来もこのペルシア碑文と同源であったと思われる。

 また現在のアルメニア人は、自身を「ハイ(複数形ハイーク)」と呼ぶ。ハイヤスターンは「アルメニア地方」を意味し、ハイェレーンが「アルメニア語」という意味になる。この「ハイ」の語源は分からないが、一般的にはヒッタイト王国の遺跡で見つかった粘土板文書に記述してあった「ハイヤサ」と言う民族の記録に由来する。彼らは紀元前14世紀前後にはヒッタイト王国の東方に、ハイヤサ・アッズィ(ハヤサ人の王国)を作り、時にヒッタイトに支配され、時に離反していた。これがアルメニア人のことであり、古来よりそう自称していたとも言う。本当かどうかは分からないが。

 さらにアルメニアという呼称も、もともと「アーレヴ」と言うアルメニア語が「太陽」を意味し、これとラテン語の接尾語「ia」が付いて、「アルメニア」即ち「太陽の国」と言う名称が定着したという。
 たんに(ローマから見て)東にあるから太陽の国と呼ばれた、あるいはそう僭称したと言う説もある。
 なんじゃ・・・どこかの島国と一緒だ(笑)。

 またアルメニアにおいては月神(ルースィン)も盛んで、太陽と月が対となった神殿が建てられたという。アルメニア王は、その司祭も兼ねていたと言われる。

 ただアルメニア人が住むようになった旧ウラルトゥ王国領土は、別段アルメニア人の支配下に収まった訳ではなかった。ウラルトゥの版図は広大で、単一の王朝など形成できず、イランのメディア王朝の影響下にポントス、ビテュリア、カッパドキア、コマゲネなどの後世オリエント諸王国となる各民族に分裂していったからだ。

 アルメニアもその一つであり、ビシュトゥーン碑文に言及されるいくつかの事件が数少ない情報源である。アルメニア人の豪族であったと思われるティグラン・エルヴァニドゥ王やエルアンド王などが記録に残っている。
 これらを古代アルメニア王国(アフメニドゥ朝)とする見解もある。

 勿論、実体はペルシアの朝貢国であったが、キレ王やカンビュセス王などペルシア系の名を名乗る王の元でそれなリの平和の時代が訪れたようである。
 だが後にペルシアへの反乱を起こし、王国はペルシア州長官(サトラップ)に治められる属州となってしまう。
 
 しかし時を経るにつれ、アルメニアのサトラップはウラルトゥの旧都の一つアルギシティヒニリ(ペルシア名アルマヴィル)を治めるペルシア大貴族オロント家が世襲するようになる。
 このキュロス大王時代から名前の見える名族オロント家による支配期間をオロンテス朝と呼ぶ。またアルメニア語でイェルヴァンドあるいはアルヴァンド(現代アルメニア語ではフラント。勇者、英雄の意味)王朝期とアルメニアの史家は呼んでいる。またコンマゲネ王国はオロント家の分家から王統が生まれている。
 ハカマーニシュ朝アルタクセルクセス二世時代の人物で、クセノフォンの著作に言及がある当主オロンテス(サトラップ在官紀元前410年〜344年)は、アルメニアとコンマゲネ王国の開祖としてコンマゲネ王朝の碑文などに記されている。大王の王女ロドグネを妻に娶った義理の息子に当たる。

 オロント家(イェルヴァンド家)は、その後アレクサンドロス大王によるペルシャ帝国の滅亡の際、うまく立ち回り地位を保つことができた。
 当時のサルディル地方のサトラップでオロンテス家の公子ミトラネスが、マケドニア軍に身を投じて軍功をたてたことで、正式に大王からアルメニアのサトラップに御せられたのである。
 たた彼の父であるペルシア側のサトラップ、オロンテス(オロント朝としては一世王となる)は息子も加わっていたマケドニアとの戦闘(ガウガメラの戦い)に7000余騎のアルメニア騎兵を率い参戦し、敗死している。つまり親子敵味方となった訳である。

Copyright 1999-2009 by Gankoneko, All rights reserved.
inserted by FC2 system