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アルメニア通史2-2

 マケドニアの優勢を実感したオロント家が機を見るに敏であったことは、後のアルメニア独立に寄与したとも言える。
 また別の見方をすればオロント家の支配確立は、彼ら自身の決断ではなく、大王の侵入と、死によるディアドコイ戦争の混乱の中、アルメニア地方の豪族達が結託して(結束ではない)自立を図った結果であるとも言える。
 前300年頃にアルメニア王を名乗った事以外、詳細が不明の人物アルドアテスなどは、こうした豪族の一人なのかもしれない。

 またオロント朝の国王は、自身の本拠地として即位後に王都を新造することが特徴であった。
 これも国力の誇示というよりも、即位した際に前王の基盤でもあった旧王都に居住することによる不利を忌避した結果とも思え、王朝の不安定さを伺わせる。
 それでも王朝が長く統治を続けた結果、オロント家の権威も向上していった。

 しかし新たなアルメニア王国も、所詮はアレクサンドロスの部将セレウコス1世ニカトールの興したセレウコス朝シリア王国の半属国でしかなかった。しかもオロント家のアルメニア王国の長期支配が続いた結果、国力を増し始めたことに宗主国が懸念を抱き始めたのである。

 その結果シリア国王アンティオコス3世(大王)は、独裁的支配権を増したオロント家に反発するアルメニア豪族を唆し、反乱を起こさせたのである。アルメニアのクセルクセス王の時代にアンティオコス3世は、軍事的圧力をかけて彼を屈服させ、王女を嫁がせて盟約を結ばせた。後にこの王女によってクセルクセスは暗殺される)。
 各地の反乱は収まることなく、アルメニア王国は分裂、計略は成功裏に進みました。
 そしてスィウニク地方の豪族でオロント王家にも血統上は連なるザドリアス(ザレフ)の子アルタクスィアス(アルタシェス)が、豪族等によって推戴され新たなる指導者となった。
 セレウコス朝の援助を受けた反乱軍は、優勢に戦いを進めアルメニア王オロンテス4世(あるいは5世)は当時の王都オロンサト(イェルヴァンダシャト)を陥落させられ、王朝は滅亡に至るのである。 
 紀元前200年のことであったとされる。
 一方でオロント家のプトレマイオスは、コンマゲネのサトラップとして王に忠実でしたが、163年にセレウコス朝の弱体化が明確になると独立を志し、コンマゲネ王国の実質的な創設者となった。

 戦争後、アルメニアは複数の州に分割され、それぞれに功績のあったアルメニア豪族がサトラップに任命された。
 しかしアンティオコス王が、カルタゴとの戦争に勝利して意気上がるローマに戦争を挑み、敗退する(マグネシアの戦い、BC190〜189年)と、アルメニア豪族等は独立を模索するようになる。
 まずオロンテス朝を滅ぼして以後、シリア王国のステラテゴンとなっていたアルタクスィアス(アルタシェス1世、在位189年〜159または160年。153年説、165年説もあるようだ)が俗に言う大アルメニア地方、つまりアララト盆地に自立した。この新王朝はアルメニアではイェルヴァンダシャート王国(アルタシェス朝)と呼ばれる。

 またアルメニア西部では、紀元前229/230年頃、アルセメス(アルシャマ)と名乗る人物が王を称し、自分の肖像を刻印した金貨を発行した。そして王国の首都としてアルシャマシャト(現在のアナトリア南東部ハルブルト近郊)を建立した。このソフェネ地方は以前よりアルマヴィルを中心としたアルメニア王国とは独立した小王国が存在した形跡があり、ハカマーニシュ朝滅亡後も存続し続けていたのである。

 しかしアルシャマ王は、212年にセレウコス朝のアンティオコス3世の軍勢と争い敗北する。
 圧倒的なアンティオコス三世に、アルセメスは多額の貢納金、物資を送り、王女と結婚することで和議を結ばざるを得なかった。しかも父王の命を受けた王女は、結婚後、アルセメスを暗殺し、王家は断絶した。
 ソフェネ王国はオロント家出身の豪族のザリアドレス(ザリフ)がストラテゴンとなったが、アルタシェス朝と同じく、紀元前190年〜189年頃に独立し、アルタシェス朝に併合されるまで存続したのである。
 セレウコス朝は広大な領地と同時に、複雑な諸言語、諸民族の混じり合う複合的な構造を持つ大王国であった。王家と官僚達に主導された、その統治は組織化され、かつ現地の情勢に合わせて柔軟に運用されるなど、多文化が混じり合う王国を巧みに運営した。しかし、やがて後継者争いなどによる統治機構の弛緩とともに、地方の分離独立が進んだ。特に東方の遊牧民族パルティアが次第に強大となりイラン全土とメソポタミアを奪われ、アナトリアも西方の強国ローマの影響下に置かれ、喪失すると内乱い血眼になっている王家の権威は、膝元のシリアですら失墜していった。

 こうした情勢を見て、前項で述べたようにアルタシェス朝が成立したのであるが、より正確には紀元前188年のアパミアの和約でセレウコス朝から正式に独立したとみなせる。前王朝の慣例に従い新王は一説ではカルタゴのハンニバルの援助でアルタクサタ(アルタシャート)を首都として造営し、新王国はアルバニア(現代のアルバニア国ではなく、現在のアゼルバイジャンのこと)とイベリア(グルジア)をも影響下に治め発展していった。アルタシェス一世は「悪魔を征服するもの」などと名乗り、版図拡大に奔走した。王都アルタシャトは、アラクス河流域に造営されたが、それは水利網を通じて黒海と地中海、メソポタミア、カスピ海(つまりイラン方面)を結ぶアルメニア高原の交易網を支配するためであった。内陸の交易都市として発展したアルタシャトは、「アルメニアのカルタゴ」と敵手たるローマ側に呼ばれるほど豊かな大都市へと成長していった。

 だが、その後のアルメニアは東からのパルティア王国の攻勢に晒されることになる。
 イラン東北部から勃興した遊牧騎馬民の連合王国が、アルシャク朝パルティアである。初期には中央政府があったかどうかもよく分からず、各地の支配組織も自前のものはなく、既存の体制を乗っ取って、武力で脅して税金を貢がせる様な形式の乱暴な国家であったが、さすがに100年ほど経つとそれなりの組織が出来てきたようで、この時代にはパルティアは「帝国」と呼んで問題はない規模に拡大していた。最も具体的な組織に関しては全く不明である。
 そして、この時代のパルティア皇帝は屈指の名君と言われるミフルダート2世であった。彼は混乱していたパルティア国内をまとめ、イランにおける皇帝号である「諸王の王」と称した征服者であり、有能な統治者であった。例えば強敵であった遊牧民サカ族をインド方面に誘導することで、その矛先をかわし、かつ一部を封臣として、自らの軍事力に組み込んで利用するなど、非常に才知に富んだ人物であったと言えよう。そして大貴族スーレーン家にサカ族を指揮させてインドを攻め、長年の宿敵であったインド・バクトリア王国の国王エウクトラを打ち破り、西はシリア近くまで勢力を伸ばしてメソポタミアを併合し王国を大膨張させた。

 一方のアルメニアに関してはアルタシェス1世の死後、王統は混乱して定説がない。
 王国が東西に分裂した事は間違いないだろう。旧説では、父アルタシェス1世を継いだのは、アルタバステス(アルタヴァズド)1世(在位紀元前160?〜115年)と言う事になる。ただアルタクスィアス2世?(在位144?〜120年?)が間に即位したとする説もあれば、アルタバステス王は王国全体を統治した王とみなせず、弟ティグラネスによって奪権されたという説もある。そしてティグラネス(ティグラン)1世として知られる人物によって王国が再興したとする。つまりアルタバステスの兄弟ティグラネス(旧説では一世)は、アルメニア王ではなかったとする説である。しかし父子関係は明確ではない様だ。ティグラネスは、アルタバステスの子ではなく、兄弟ティグラネスの子であったとする説も有力である。あるいはこの兄弟は同一人物であるという説もある・・・。ここではティグラネス1世を正式な王とはせず、大王と呼ばれる2世王を1世とする新しい説に従う。

 さて強大なパルティア皇帝ミフルダート2世の攻撃を受けて、当時セレウコス朝からストラテゴン(州長官)に任命されていたアルメニア豪族アルタバステス(アルタヴァズド)はたまらず降伏した。そして息子のティグラネス(ティグラン)をミフルダート2世に人質として差し出すことになった。
 だが、この王子ティグラネスが後にティグラネス1世(または2世)大王と呼ばれ、アルメニア最盛期を現出することになるのである。

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