頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史1-3

 
 さらに、その子アルギュシュティ(アルギシュティス)一世王(紀元前785年〜753年)は攻勢を強め、アナトリア(小アジア)東部をもアッシリアから奪い、シリア北部まで勢力を伸ばし、国土を最大とした。父の政策に習って都市建設にも熱心で、アルギシュティヒニリ(現在のアルマヴィル)を782年に、新都エレブニ(現アルメニア首都エレヴァン)を造営し、灌漑用城や農地の開拓にも熱心であった様である。彼がウラルトゥ黄金期の王であると言っていいだろう。
 
 歴代王の努力によるウラルトゥ王国の強大化はまたしてもアッシリアの懸念を呼び、紀元前8世紀には再び交戦が始まった。
 弱体化した王権を立て直したのは、ニムルドでクーデターを起こし、アッシュール・ニラリ五世をおそらく殺害して、王位を奪った剛腕のアッシリア王ティグラト・ピレセル(アッカド語トゥクルティ・アパル・エシャラ)三世であった。

 アダド・ニラリ三世以後の四代の王たちの時代アッシリアは宦官達や将軍シャムシ・イルの専権によって混乱していた。この情勢を打破したティグラト・ピレセル三世は、即位宣言の際に、通例である先代王アッシュール・ニラリ五世への言及がないため簒奪者ではないかと言われているのだが、アッシュール・ニラリ五世の血縁者であった可能性もある。
 どちらにせよ彼は優れた将帥であり、直属の常備軍を再編成し、全方面に軍事活動を再開した。彼の直接指導する軍団によって、アッシリアは帝国として強大な勢力復権に成功する。
 当時のウラルトゥ王サルドゥリ二世(紀元前753年〜730年)は、決して無能な軍事指導者ではなくアッシュール・ニラリ五世の送った軍勢を敗る事には成功した。しかし、イランとシリアで勝利を収め意気の上がるティグラト・ピレセル三世の軍勢を防ぐ事は出来なかった。
 アッシリア軍はシリアのアルパドなどウラルトゥの同盟国を各個撃破し、アッシリア包囲網を瓦解させ、鉱石などの交易ルートを奪還する事に成功した。そうした情勢を打開すべく、735年(または736年)にシリアの救援に出陣したサルドゥリ二世自身が率いるウラルトゥ軍は、アッシリア軍とユーフラテス河畔で決戦に及んだ。しかし、ウラルトゥ軍は大敗を喫し、壊走したのである。王自身は戦場から逃げ延びたが、首都トゥシュバは追撃してきたティグラト・ピレセル三世によって包囲され、陥落した。この時、サルドゥリ二世も戦死したと考えられている。
 アッシリア軍は略奪するだけでなくウラルトゥの領土に入植も試み、永続支配を狙った。だがティグラト・ピレセル三世の政治基盤も盤石ではなく、内政に専念するため積極的な軍事行動は控えるようになっていった。ウラルトゥ側も新王ルサ(ルサス)一世王(紀元前735年頃〜714年)の必死の反撃により、ウラルトゥは自国領土からアッシリア軍を退去させたようである。ルサ一世は、アッシリア側に寝返り始めた地方総督や豪族達を慰撫するため、国内を常に移動して、権威回復に努めた。加えて、北方トランスコーカサス一帯の直接統治のために遠征を行い、王室財政の基盤とすべく開発を推進した。

 しかし718年から繰り返し国境付近で挑発行動を起こしていたアッシリアは、紀元前714年、国王サルゴン(シャル・キン)二世自らが親率する大軍でウラルトゥに進撃してきた。これはルサ一世が遊牧民対策に謀殺されていたためであった。
 サルゴン二世は親衛隊を直率してウラルトゥ諸部族連合軍と決戦を行い苦戦の末に決定的な勝利を博して、その軍勢を壊滅させた。背後を衝こうとした迂回機動に失敗したウラルトゥ軍は、逆にこの作戦を察知したサルゴンによって策源地、キャンプを夜間急襲され、戦闘継続能力を喪失したのである。そして退却時の追撃によってウラルトゥ軍は各所で包囲され、大敗を喫した。このサルゴン軍の勝利はアッシリア側の情報収集能力の差であったと考えられている。ルサ一世の行動はサルゴンに筒抜けであった。さらにサルゴン二世はウラルトゥの精神的支柱だった聖都ムサシルも破壊しハルディ神殿を略奪、ウラルトゥ王国の要人、貴族をほとんど全て殺害してしまった。ルサ一世はムサシルに、略奪を恐れて王室財産を避難させていたが、それが仇となり、スパイの報告を受けたサルゴンによって狙われたのである。
 ウラルトゥ王ルサ一世は精神的なショックから立ち直れず同年に死去(自殺と言われている)する有様であった。
 また同時期(715年、702年)黒海の北からキンメリア人がウラルトゥに現れて破壊の限りをつくした事も痛手だった。

 それでもウラルトゥはアルギシュティ(アルギステス)二世(紀元前714年〜685年)の元、アナトリアの諸都市やメディアの豪族達(その一人ダイアックは息子フラワルティシュがメディア王国の統一者となることで知られる)と連合することでアッシリアに対抗した。また北方に領土拡大または直轄地の増大を目的とした軍事行動を繰り返した。
 
 とは言え、アッシリアに対する貢納金や農作物の支払いやアッシリア軍の軍事行動の黙認、森林資源、鉱物資源の供出あるいは採掘権の譲渡などが課せられた上での平和であったと言う。つまり、実質は属国的な扱いとなっていた。
 だがサルゴン二世は完全な併合までは成し遂げる事が出来なかった。サルゴン二世は王位継承において正統性に欠けていたらしく、国内対策にも忙殺され、外征はやがて下火となっていったからである。 
 しかし、これらの侵略によりウラルトゥが滅亡寸前まで追い込まれたことは、取り返しのつかない痛手となり、ナイリの王国は栄光の時代を終え、衰退の時代へと向っていった。

 …と言うのがアッシリア側の資料に基ずく歴史の流れである。

 しかしサルゴン率いるアッシリアの侵略がどの程度、真実を持って描かれているか疑問を持つ史家も居て、その後もウラルトゥ王国は、それなりに存続していたことを考えると、王国の経済、軍事力を壊滅させたとまではいかなかったようである。

 紀元前680年に即位したルサ二世(〜639年)は首都をトゥシパからティシェバイナ(カルミル・ブルール遺跡)に遷し、改革を行い国家の建て直しを計ったが、アッシリア王アッシュールバニパル(アッシュール・バニ・アプリ)に破れ、宗主権を認めることとなった。

 ルサ二世の死後には混乱が続き、王位継承順ですら判然としなくなる。
 以下の在位年は推測である。

 ルサ二世の子であると思われるサルドゥリ三世時代(639〜625年)には、スキタイ遊牧民や国内のアルメニア部族も離反し、略奪に現れるようになった。これ以後さしものウラルトゥ部族連合も解体をはじめ衰退していったようである。

 その後アルメニア地方一帯はサルドゥリ四世(紀元前625年頃〜620年頃)、簒奪者の可能性もあるエリメナ王(紀元前620年頃〜605年頃)が即位した。
 加えて王国は紀元前612年頃からイランのメディア王朝の侵出をうけて、実質支配されるようになったと思われる。エリメナの子供ルサ三世(紀元前605年〜595年)の子ルサ四世(在位紀元前595年〜585年頃)が、おそらく最後のウラルトゥ王であった。
 その治世の時代には、すでにウラルトゥの主な都市は廃墟と化していた様である。
 そしてルサ四世の抵抗も虚しく紀元前585年首都ティシェバイナがスキタイ人とメディア人(またはアルメニア人)の侵略によって陥落し、遂に滅亡したのである。

 廃墟と化した王国はメディアに合併された。
 そして紀元前550年にメディア王国がハカマーニシュ(アケメネス)朝ペルシアに滅ぼされると、そのままペルシャ帝国のサトラップ(州)の一つとして、その支配下に収まったのである。


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