頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史1-2

 古代の人々を分類する重要なファクターである言語に関して言えば、ウラルトゥ語は確認できる記録では前9世紀まで遡るとされる。粘土板史料から学者ギオルギ・メリキシュヴィリによって解読され、いくつかの特徴が挙げられている。
 まず日本語などと同じ、膠着語である事。ウラルトゥ語は周辺の国々の言語から孤立していた事などである。ナフ・ダゲスタン語族との関係も議論されているが、明らかではない。ただ紀元前16から14世紀頃に栄えた北メソポタミアのミタンニ王国の住人であったフルリ人の言語との類似性があり、共通の先祖を持つものと考えられている。そのためフルリ・ウラルトゥ語族とまとめて分類されている。ただフルリ人とウラルトゥ人の祖先は紀元前3000年以前には、すでに分離して別々の土地に定着していたと考えられている。
 逆に黒海の北からヒッタイトと共存しつつ南下しアナトリアに定着、ミタンニ貴族層の一部となっていた人々がウラルトゥ上層の人々の祖先であったとする説もある。

 さてウラルトゥ人と現在のアルメニア人との関係は…まあ血は混じってるかなあ、と言う程度ではないかと思う。
 紀元前1270年代にアッシリア人の記録に現れるようになったウラルトゥ人の祖先は、牧畜を主な産業としながらもアナトリア、レヴァント、北方ステップ間の中間地帯に位置する地の利を活かして交易を振興し、富を備蓄した。ウラルトゥ人は金属石材加工技術にも優れ、後にこれを活かした壮大な都城を建築した事でも知られる。ただしアッシリアとの戦闘が本格化する以前は、銅製の鎧すら製造がされておらず、本格的な戦闘経験もない部族国家であった。基本的には幾つかの都市国家に居住する言語も異にする諸豪族、諸氏族の連合体であり、当時としてはありふれた形の社会を形成していた様だ。
 彼らをアッシリア人は「ナイリ(またはウルアトリ)の国人」と呼んだ。ナイリは河川を意味すると言い、どうも「川の向こうの民」と言う意味となるようである。ナイリの国々は60の諸部族があり、数百の町があったという。中心部族?であるウラルトゥ人の他に、アルメン(アルメニア人?)、マティエン(フリル人)、アラロドなどの名が伝えられており、実に多彩多数の諸部族で構成されていたと想像されている。
 ちなみにウラルトゥはアッカド語による他称である。つまりウラルトゥと言う呼び名は、現在のアララト山のアッカド語の読み方なのである。これは「Urartu」と「Ararat」のAとUの読みが置換した結果だという。彼ら自身はビアインリ(Biainli)王国と称していたようである。これは変化して現在のヴァンと言う地名に残っている。
 もっとも現代のアララト山と、古代の人々がウラルトゥと呼んだ山が同一であったかどうかは分からない。旧約聖書「創世記」に現れる「ハレー・アララト(アララトの山々)」、トルコ人が「大いなる苦しみの山」と「小さき苦しみの山」と呼ぶ二つの頂きをもつ現在のアララト山が、その名で呼ばれるようになるのは12世紀に入ってからである。それ以前は「アララト」とは山系全体を呼ぶ呼称であったらしい。

 そんなウラルトゥの社会が王国と呼べるようになったのは紀元前9世紀からであるが、これは外敵アッシリアの侵入が契機となったようである。
 伝説にあるアッシリアのセミラミス女王に求愛されたアラム王のモデルこそが、最初のウラルトゥ王アラマのことだと言われている。19世紀以前のアルメニアの歴史家はアラム王を、自身達の神話上の祖先ハイクの血族であるとしていた。無論、アラマはアルメニア人と直接の関係がある訳ではない。
 歴史上のアラマ王の即位は紀元前860年前後のこととされ、首都をアルザシュクン(ウラルトゥ語でアルシスーサ)に置いた。
 ただ実際には、アラマは全部族の王と言うよりも、軍事指導者の一人と言う地位にあった様である。アラマは青銅製の武器と鎧、盾を導入するなど、軍事改革を実施し、ゲリラ戦を駆使してアッシリア帝国に抵抗を続けた。彼の在位から30年の空白期間の後、ルプティリ(ルプティム)の子サルドゥリ(またはサルドゥル一世、紀元前844年〜828年)の時代になって、ウラルトゥはナイリ諸部族に君臨したらしい。アラマ王とルティプリの関係は現在では分からない。親子か親類か簒奪者か不明である。おそらくナイリ諸部族はアラマとルティプリの二つの勢力に結集して、それぞれがアッシリアに対抗していたと思われる。サルドゥリ王はアッシリア帝国の軍制を真似して、これに対抗し、武器をさらに鉄製に切り替え、アッシリア帝国を撃退する事に成功した。
 現在もサルドゥリ王の碑文が残されており、以下の様な内容が記されていると言う。
 
 ルティプリの息子サルドゥリの記念碑である。
 大王、強き王、世界の王、ナイリの王、並ぶ者なき者、尊き神官、戦を恐れぬ者、反逆者を鎮めし王。
 ルティプリの息子サルドゥリは、あらゆる王から貢物を受けた。
 ルティプリの息子サルドゥリは、以下のごとく言った。
 「この石灰岩をアルニウルの町より運び、この壁を作れ」と。

 強き王とサルドゥリが強調したように、ウラルトゥの建国初期は、戦争の連続であり、多事多難であったらしい。
 アッシリアという攻撃的で強力な存在が目と鼻の先にいるのだから当然であろう。 最もアッシリア人が特別に戦闘的であったという考えは、近代になって発見された彼らの残した碑文、文書、レリーフなどが戦闘の場面を多く描き出していた事にある。王の勇壮さやアッシリアの偉大さを示すためのモニュメントであるから当然なのだが、これらを見た近代の歴史家達によって誤解されたイメージが現代まで残ってしまったのである。まあ他の民族もやってたことは大して変わらなかったと言うことである)。

 ウラルトゥの交易の富を狙った(と言うよりも地中海交易を阻害される事を防ぐため)アッシリア帝国は、アッシュール・ナツィルパル(アッカド語アッシュール・ナツィル・アプリ)二世(紀元前883年〜859年)の時代にすでにウラルトゥへの進軍が開始していた。
 その息子シャルマネセル(アッカド語ではシャルマヌ・アシャレド)三世(紀元前858年〜824年)の時代になると、さらに大規模な遠征軍を送り、二度目の紀元前856年の遠征では、ウラルトゥ王アラマを都アルシスーサから逃亡させ、略奪破壊した。
 シャルマヌ・アシャレドは各地に遠征を繰り返した好戦的な王である。一見、大義名分などない古代らしい略奪戦争である。だがアッシリアにとって、ウラルトゥに北方を抑えられると、アナトリアやギリシャ方面への交易路を寸断される形となる。鉱物資源を交易に頼るアッシリアとしては、どうしても制圧しておかねばならない地域であった。このアルメニアの地政学上の重要性は、後世まで変化はなかった。

 強大な軍事力を持つアッシリアであったが、ウラルトゥの主要地帯は守り適しており、峻険な地形に拠って、ねばり強く抗戦を行った。アラマ王のゲリラ戦術に、アッシリア軍は苦戦した。しかし844年の遠征以後、アラマ王の事績が追えなくなり、おそらく戦死したものと思われる。その勢力はルティプリの息子サルドゥリに引き継がれた。
 シャルマナサル三世は、優れた軍事指導者であったが、ウラルトゥの継続的支配には失敗した。軍の総司令官で後継予定者であった息子アッシュール・ダイン・アピルの突然の反乱で、帝国の大部分を喪失したのである。反乱を鎮圧できないままシャルマナサル三世は病没し、後継者のシャムシ・アダド五世の時代、紀元前820年前後にようやく反乱を鎮圧できた。しかし、帝国はかつての権勢を失い弱体した。また、この反乱鎮圧のために助力を受けたバビロニア王国とも、後に関係が悪化し戦争状態に突入した。シャムシ・アダド五世はバビロンを攻略して戦争に決着をつけたが、この直後死去し、幼君アダド・ニラリ三世が即位、母后サム・ラマト(シャンムラマト)が摂政となった。このサム・ラマトこそ、セミラミス女王のモデルとなった人物である。しかし母后の統治は旨く行かず、帝国は政治的に不安定となった。こうしてアッシリア内部で混乱が生じたため、ウラルトゥ戦線から、アッシリアは軍の撤退を余儀なくされた。
 こうしてウラルトゥは滅びることなく、ルティプリの一族は抵抗戦争に一応の勝利を得た。これによっておそらくサルドゥリ一世は王朝としての権威を確立したと思われる。アッシリア撤退後の824年(あるいは828年)に即位した建国王とされるウラルトゥ王イシュプイニ(〜810年)は、アッシリア王が内憂外患に奔走している間に内政をさらに改革し、(誤解を恐れずに言えば)古代奴隷制王国と呼べるような体制を整えたようだ。またマンナエ人の王国がら奪取したムサシルの街をハルディ神崇拝のための宗教都市として改造し、国王を祭司長とする神権的政治を目指すなど、中央集権体制確立を中心とした。彼は摂政シャンムラマト支配下のアッシリアを警戒しつつ、ヴァン湖とウルミア湖の間にある地域に勢力を伸ばし、北方では遊牧民の侵攻を防いだ。

 王国を継いだのはイシュプイニ王の生前から10年余り共同統治者だった次男のメヌア王(紀元前810年〜786年頃)であった。彼はトゥシパ(現ヴァン市)を拡張し、また各地に遠征してウラルトゥの勢力を伸張させため征服王と呼ばれた。東は分裂し弱体化していたヒッタイト王国の残党を攻め、南のマンナエ人からも、さらに領土を奪った。ただアッシリアとは正面衝突は避けていたようである。鉱山の多いアナトリア高原の東を手中にする事は、鉱物資源に恵まれていないアッシリアを弱体化させる間接的な戦略であった。またアナトリアやアルメニア高原は良馬の産地でもあり、ウラルトゥ王国は、高性能な武器・防具、軍馬を装備出来た事で、非常に精強な部隊を編成できるようになっていた。加えてウラルトゥの主神ハルディを祀る祭祀都市ムサシルをさらに改築、拡張した。ハルディの宗教的権威を高める事で、アッシリアの守護神であるアッシュールに対抗するためであった。高原地帯の生産性を向上するため、灌漑用水路の建設にも熱心で、さらに首都に水を供給する70キロもの水道を建設した事でも知られている(ちなみに水道は現在でも機能している)。各地の支配を強化するため自身の名を冠したメヌアヒニリなど都市建設も進め、王国の中央集権化を図った。文字の使用が始められたのも、このメヌア王の時代であったと言われる。


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