頑固猫の小さな書斎

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アルバニアの英雄スカンデルベウ

■スカンデルベウ アルバニアの民族英雄

 今回は以前HPに載せていた記事の採録です。
 アルバニアの民族英雄で、オスマン帝国との戦いにおける指導者だったスカンデルベウについて、日本で読める資料に基づいて簡単に書いたものです。

 バルカン半島南西部にある人口350万ほどの小国アルバニアは、現在では主にムスリムが多くを占める共和国です。
 アルバニアと言う固有名詞は、その地質が石灰岩を多く含んでいて白いことから、ラテン語で「白い土地」を意味する言葉を起源とする他称であるそうです。11世紀頃からビザンツ帝国の史料にアルバニアの呼称が散見される様になったそうです。
 正式名称はアルバニア語で「Republika e Shqipërise」。通称がシュチパリア(Shqiperia)即ち「鷲の国」です。そのトーテムが鷲であると考える民族伝承に因るともい言います。また別に「言語を解する者」シュチプタルから自称が生まれたとする説もあります。
 その祖先は紀元前6世紀に到来した古代イリュリア人とトラキア人であると考えられています。

 アルバニアは1912年11月28日にオスマントルコ帝国から独立し、ゾーグ1世の独裁王政、イタリアの占領統治を経て、大戦後の1946年に社会主義国(実際はエンヴェル・ホジャの独裁政権であった)となりました。
 しかし中ソ国境紛争以後、ソビエト連邦との関係が悪化、敵対したため軍事重視の国民皆兵制度に変換、中国と接近したのです。
 この後、アルバニアは周辺国ともほぼ完全に断絶した鎖国体制を取りました。しかし文革期以後の中国の路線変更で、その援助がなくなると国内は朝鮮民主義人民共和国と並ぶ、閉鎖的かつ貧困が蔓延する国家となってしまいます。
 
 1992年に社会主義政権が倒れた後も、資本主義経済に不慣れな国民性故に、ネズミ講が流行し、1997年のその破綻を契機とした大暴動がアルバニア南部で発生しました。
 以後、元々大量の武器が行き渡っていたこともあり治安が急速に悪化、現在も影響は残り問題になっています。
 また南北で言語的な差違があり(北はゲグ方言、南方はトスク方言。現在のアルバニア語文語はトスク方言を元としている)、ネズミ講争乱以後、その対立も表面化しました。ネズミ講争乱には、この南北対立が背景にあるとも言われ、北部に地盤を持つ民主党政権を崩壊させるべく、南部の社会党支持層が仕組んだものではないかとも考えられます。
 
 現在はイタリア軍を主軸とする多国籍軍の派遣によって治安はほぼ回復され、資本も流入し、年7~8%の成長率を示し、徐々に最貧国からの脱出が進んでいるようです。
 その間、アルバニア系住民の絡んだコソヴォ紛争などもあり、バルカン半島の重要な回廊に位置する小国アルバニアは常に波乱に富んだ歴史を歩むべく運命づけられていると言えるでしょう。
 さて、オスマン帝国から独立した際、彼らが民族国家として、アイデンティティーを確保するために、シンボルとした民族英雄がいました。
 それが本構の主人公スカンデルベウです。
 アルバニアの国旗には赤地に黒い双頭の鷹があしらわれているが、これはスカンデルベウが用いた家紋が原型となっているのです。

 13世紀頃まで、アルバニアは統一された王権は存在せず、各地を豪族が割拠する分裂状態でした。
 しかし14世紀半ば、豪族トピア家が勢力を伸ばし始め、当主カール・トピア(在位1359年~1388年)の時代にはドゥラッツォ、クルヤ、アンティヴァリなど北部とバルシチなど東部に支配権を確立し、各地の豪族を影響下に置き始めたのです。
 しかし、これに反抗する諸豪族は多く、特にツェタのバルシチ家当主ゲオルグ2世バルシチは手強い勢力でした。
 そこで彼らに対抗するため、トピア家は1385年、当時目覚しい発展を遂げ、バルカン半島にも進出し始めていたオスマン家と同盟を結んだのです。

 しかし結局ヴォユサの戦いにおいて、イタリアの雄ヴェネツィアの援軍を受けたバルシチ家が、トピア家の勢力を打ち破り、シュコダル(スクータリ)やドゥラッツォ等はヴェネツィアの所有と帰し、諸豪族もヴェネツィアの宗主権の元各地に割拠することになったのです。 アルバニアは以後、統一的な政権のないままオスマン朝と対立することになりました。

 やがてオスマン帝国のアルバニア勢力への反攻が始まります。
 1415年にクルヤが、1417年にヴァロナ、カニナ、ベラトが、1419年にギロカスタルが次々とオスマン朝の軍勢に席巻され、アルバニアはじわじわとオスマン朝の勢力下に組み込まれていきました。
 アルバニア豪族達は、ある者は殺され、ある者は臣従し、ある者はムスリムとなってオスマン朝と一体化していったのです。

 スカンデルベウと後に呼ばれる、ギェルギ・カストリオト(Gjergi Kastoriot Skenderbeg)は、マティとギブラの豪族ギオン・カストリオトの第四子として1405年あるいは1406年に生まれたとされます。
 古くからアルバニアの豪族として君臨したカストリオト家の素性ははっきりせず、奴隷出身とも言われ、広大な土地を所有する領主であり、かつ半ば山賊的な武装集団の長でもありました。
 カストリオト家はオスマン朝の支配が半島に少しずつ及んでいくことを懸念し、ヴェネツィアとの同盟を強化して、オスマン朝に対して幾度が反抗を見せていました。

 1423年頃、ヴェネツィアとの戦端を開いていたオスマン朝は、その軍勢の主力を移動させました。軍事的空白が生まれたアルバニア周辺に生まれたのです。この間隙をついて、今こそ自身の勢力の伸張の機会と見たギオン・カストリオトは、オスマン朝に対して本格的に反旗を翻しました。
 しかし彼に予想を反してオスマン朝は戦争を速やかに、かつ優位に進めました。オスマン朝は部隊を取って返してきて、反乱したギオンを一蹴したのです。
 ギオンは破滅を免れるため降伏し、臣従の証として三人の息子をアドリアーノポリ(エディルネ)に差し出さねばならなくなりました。
 後のスカンデルベウ、ギェルギ・カストリオトもまた、その中に含まれオスマン朝のスルタンに以降仕えることになったのです。

 こうして1430年には、カストリオト家領は完全にオスマン朝の支配下になってしまいました。

 同じような立場の、諸国の王族貴族の師弟と共に、ギェルギはイスラームに改宗させられました。
 また軍事的な教育を受けさせられ、軍隊を率いる士官候補生として厳しい訓練を積まされました。

 ギェルギはスルタン・ムラト2世に気に入られ、そして武勇に優れていることが次第に明確となり、アレクサンドロス大王に因んだトルコ名イスカンダルの名を与えられました。スルタンの後押しで、彼は順調に出世していき、将軍位(トルコ語でベイ、アルバニア語でベウ)を与えられたのです。ここにオスマン朝の若き将軍イスカンダル・ベイが生まれたのででした。スカンデルベウとは、アルバニア語でこのイスカンダル・ベイを発音したものです。

 さらにスカンデルベウは、今までの軍功により1437年または1438年には封地(ティマール)として父の領土を与えられました。
 彼はスルタンの代理人としてクルヤ(トルコ名アクチェヒサル、即ち”白き城塞”の意)を拠点として主に、ヴェネツィアとハンガリーとの問題に関与し、各地を転戦し、その武勇はキリスト教諸国に知れ渡り、恐れられるようになりました。
 
 スカンデルベウが突如として、オスマン朝を裏切り、キリスト教徒に戻り、反旗を翻した理由は全く持って不明です。
 分かっているのはクルヤ統治が始まってすぐ、彼は地元のアルバニア豪族達や隣接するダルマティア沿岸の国々、ヴェネツィア共和国、ナポリ王国、ローマ教皇など西欧諸国と接触を繰り返し、蜂起に向けて様々な画策をすでに始めていたことです。
 そして1443年、彼は計画を実行に移したのです。


 バルカン半島でのオスマン朝の快進撃に脅威を感じていたキリスト教諸国は、ポーランド王兼ハンガリー王ウラースロー2世を中心に「十字軍」が編成されました。
 ハンガリー王国のトランシルヴァニア総督(ヴォイヴォード)の将軍ヤノーシュ・フニャディ率いる軍勢は(それはハンガリー、ポーランド、ワラキア、そして各地の義勇兵を加えた軍でした)、1442年から1443年にかけ、オスマン支配地にドナウ川に沿って進撃したのです。
 クルシェヴァツ、ニシェ、ピロト、ソフィアと進撃した後、フニャディは軍を返すことにしましたが、その帰還途中セルビアの旧都ニシェ近郊でオスマン軍と遭遇し、これは撃破したのです。

 スカンデルベウは、このニシェの戦いにオスマン朝側の将軍として参加していました。
 しかしオスマン軍の敗戦を期に戦線を離脱し、配下のアルバニア騎兵300余騎を引き連れ、クルヤに帰還。オスマン軍守備隊を襲撃して、これを占領したのです。
 以降、彼は生涯を対オスマン朝の戦いに費やすことのなる。スカンデルベウはアルバニア全土に、オスマン朝からの独立と闘争を呼びかけ、各地のアルバニア貴族、豪族をヴェネツィア領土だったレジャの地に集めました。1444年5月のことです。
 この「レジャ同盟」によって、アルバニア連合軍が結成され、その指揮官にスカンデルベウは就任したのでした。
 彼が蜂起から1年と経たない短期間で実質的にアルバニア北部を統一したことは、スカンデルベウの事前に根回しがすでになされていたことを物語ります。
 
 信頼していた将軍の突然の反乱に驚いたオスマン帝国スルタンのムラト2世でしたが、その対応は素早く、即座に3万近い大軍をアルバニアに送り込みました。
 しかしスカンデルベウは、率いる兵士6000名ほどの寡兵であったにもかかわらず、これを潰走させムラト2世と周辺諸国を驚かせます。
 スカンデルベウは、平野部での会戦を避け、アルバニアの険しい地形を利用した山岳戦を常に選択しました。彼はオスマン軍が大軍であることを逆に利用し、これを混乱させることに卓越していたのです。
 情報収集を重視するのは勿論、戦場を誰よりも把握することに注力し、兵士の心理を知り抜いている極めて冷静かつ果断な指揮官でなければ出来ない勝利でした。
 
 ニシェ、アルバニアと敗北を続けたムラト2世は、今までの拡大路線を修正し、内政と外交の整理ための停戦の時期に入ったことを悟りました。
 可愛がっていた息子のアエラッディンの死も手伝って、厭世的になっていたスルタンは1444年8月に、ウラースロー2世と10年の和平を約しました。
 元来、外交を重視し、戦争を好まなかった(将帥としては極めて優れてはいたのですが)ムラト2世は引退を決意し、息子のメフメトに王座を譲り、興味があった神秘主義に残りの生涯を捧げることとしました。


 息子に帝位を譲ったムラト2世は、信頼する宰相チャンデルリ・ハリル・パシャに後事を託すとバルカン半島を去り、アナトリアのオスマン朝の旧都ブルサに隠遁しました。
 賢明なスルタンは、外交的な状況を考え、これで現状を維持でき、平和が続くと考えていたのかもしれません。
 しかしキリスト教徒の諸侯は、もっと貪欲で利己的、将来が見えない者ばかりでした。
 強硬派の教皇使節ジュリアーノ・チェザリーニ卿に
 「異教徒との約束など守らなくても良い。若輩のスルターンが即位したばかりで混乱した今こそ、トルコ人を徹底的に撃ち破る好機である」
 と唆されると、迂闊にもハンガリー王ウラースローとヤノーシュは結んだばかりの条約を破棄し、1万6千名の軍勢をドナウ川沿いに南下させてしまいます。

 目先の状況だけ考えると、決して無謀な出兵ではないように思えたのでしょう。
 オスマン帝国では新体制に移行するに当たって宰相ハリル・パシャが主導権を握ろうとする政府側と、それを好まない多数の人々(その筆頭が新スルターンであった)とが対立し、対外的危機の際に統一した軍事行動を取ることが不可能に思えても不思議ではなかったからです。
 さらに幾つもの情勢がキリスト教徒達を強気にさせました。
 
 ムラト2世が育て上げた有名な親衛隊イェニチェリは、賃金増額の要求を拒否した、あまりに若く、しかも傲慢なスルタンに不満たらたらで、ついには反乱を起こし、エディルネで騒擾を起こす始末でした。
 ビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスには、オスマン朝のスルタン位を伺うオスマン一族のオルハンが亡命しており、謀略を巡らしていました。
 ボスポラス海峡には、教皇とブルゴーニュ公、そしてヴェネツィアの派遣した艦隊が派遣されており、オスマン軍の増援がアナトリアからバルカン半島に渡ることを、阻止すべく行動していました。
 そしてスカンデルベウもまたこれに呼応し、アルバニアから出陣する手はずだったのです。
 
 この危機に、宰相ハリル・パシャは、ムラト2世を呼び戻すことを決意しました。
 実権を奪われると見たメフメト2世は大反対でしたが、さりとて状況を収拾し解決する術は彼には全くありませんでした。
 賃金増額を認める事でイェニチェリの反乱を鎮めて彼らの支持を受け、また巧みな交渉手腕で反対派を黙らせた宰相にメフメトも折れざるを得ませんでした。
 
 さて宰相の要請を受けたムラトは、情勢を迅速に分析し、すぐさま旧帝国首都ブルサで兵を集め始めます。後の行動も賢明なスルタンらしく素早いものでした。
 軍資金をばらまき、今後の交渉で有利な条件を提示することで、ヴェネツィアの艦隊の中立を確保すると、ジェノヴァの艦隊を大金で雇い、集めた軍をバルカン半島にあっさりと上陸させる事の成功しました。
 主力であるヴェネツィア艦隊が動かないため、教皇の艦隊だけで強力なジェノヴァ艦隊に攻撃することは無謀であり、上陸を阻止するどころではなくなってしまいました。

 エディルネに到着したムラト2世にメフメト2世は、指揮権を譲るように要求しましたが、ムラトはともかく、実戦経験のない若いスルタンの指揮をイェニチェリが認めませんでした。
 結局ムラト2世自身が、軍を率いハンガリー王国軍を補足すべく出陣していくことで事態は収拾されました。
 若いスルタンの遺恨を首都に残して、ムラトは帝都を後にしました

 1444年11月8日黒海に近いヴァルナの地でオスマン軍とキリスト教徒軍は、会敵しました。
 オスマン軍の陣容を見たハンガリー軍を主力とするキリスト教徒側諸将は予想以上の大軍に、動揺します。ムラト2世は、ハンガリー軍の3倍以上の兵士を率いていたからです。
 チェザリーニ枢機卿は有利な地形で迎え撃つ形で会戦するべきだと主張しましたが、ニシェの戦いの勝利で、自軍の騎兵部隊の攻撃力を過信していたフニャディは、部隊を前進させ、攻撃を開始したのでした。

 確かにハンガリー騎兵の突撃は強力でした。しかしこの時は他の部隊との連携に欠けていました。数に劣り、予備兵力の少ないハンガリー軍は、突撃による成果を拡大させることが出来なかったのです。
 オスマン軍は損害を受けつつも、崩れる事はなく陣形を保ち続け、状況を冷静に眺めていたムラト2世が、予備の騎兵による反撃を行った時、攻勢に疲れ切ったハンガリー軍はあえなく瓦解しました。国王ウラースロー2世は戦死し、フニャディも命からがら脱出することが精一杯という有様でした。
 ヴァルナの大敗は、スカンデルベウにとって大きな誤算でした。アルバニアはハンガリーの側面援助が当面受けられなくなったため、単独でオスマン軍と対峙しなければならなくなってしまいました。
 スカンデルベウが懸念した通り、オスマン軍は1445年から連年アルバニアに軍勢を送り込んでくることになったのです。

 予想通り、オスマン軍は1445年、1446年とアルバニアに軍勢を送り込んできました。しかしゲリラ戦術を駆使して、スカンデルベウは何とかこれを撃退することに成功します。 
 彼の名声はさらに高まりましたが、しかし平穏は当面得られる状況ではありませんでした。それどころか、今まで頼れる味方であったはずのヴェネツィアが、アルバニアの強大化によって、ダルマティアの利権が奪われるのではないかという懸念を抱き、スカンデルベウの権力を剥奪し、アルバニアを占領するため軍勢を送り込んできたのです。しかも1448年6月、ムラト2世自身率いる軍勢が、アルバニアに迫って来ていると言う情報もスカンデルベウの元に入ってきました。
 明らかにヴェネツィアとオスマン朝の動きは連動していました。二国間で密約がなったことは明白でした。

 スカンデルベウはアルバニアに駐屯するヴェネツィア軍を、まず撃破すべく西に機動します。
 そしてスカンデルベウは苦心の末、7月にドリン川流域でヴェネツィア傭兵軍主力との会戦に持ち込むことに成功しました。この会戦に大勝を博し、ヴェネツィアの派遣軍を瓦解させると、今度はクルヤに迫るオスマン軍に決戦を挑むべく、東に急行します。しかしオスマン軍は本格的な戦闘を交えることなく、退却していきました。これは3年かけて、軍を再建していたハンガリー軍が南下を開始したからでした。
 スカンデルベウは救われた形になったわけですが、事態は結局好転しませんでした。
 ムラト2世は、巧みな陽動でハンガリー軍を、コソヴォの湿地帯に誘い込み、ハンガリー騎兵の機動力を奪うと、1448年10月17日から19日の戦いで、これを完膚無きまでに撃滅したのです。フニャディの名声は地に落ち、ハンガリー軍は以後、さらに数年再起することが出来なくなりました。
 こうしてアルバニアを支援する存在は、ついになくなったのです。
 1450年、ムラト2世は十分な準備を整えて、アルバニアに進撃することを決定しました。ヴェネツィアの支援も確認した上で、10万の大軍を用意しての大攻勢でした。
 対するスカンデルベウは、義勇兵をかき集めても1万弱の軍勢です。正面からの会戦など望むべくもありません。今回もパルチザン的な戦いしかないと考えたスカンデルベウは、交通の要衝でもある首都クルヤの城塞の防御を固める一方、その守備は部下に任せると、自身は8千人余りの兵力を率いて、城外に出て、トゥメニシュト山を中心とした山岳地帯に潜んだのでした。

 春に進撃を開始したオスマン軍は、5月にクルヤ周辺を幾重にも包囲しましたが、スカンデルベウの姿は、城塞内にはすでにありませんでした。
 スカンデルベウは、その本当の拠点を悟られぬよう、山中を進撃し、クルヤ包囲軍に奇襲、夜襲を繰り返し敢行し始めました。時に後方の補給路や物資集積所を焼き討ちし、迎撃に来た敵を待ち伏せするなどの考え得る限りのパルチザン戦を展開したのでした。
 この戦いでスカンデルベウが本拠を置いたのはトゥメニシュト山でした。後世この山はスカンデルベウ山と呼ばれるようになります。
 ムラト2世は、包囲軍を急襲してくるスカンデルベウ自身の部隊は補足不可能と考え、まずクルヤの城塞を陥落させ、敵の政治的拠点を奪うべきだと判断しました。そのため目前の攻城戦に全力を傾けたのです。

 これは決して間違った考えではありませんでしが、山上の城塞クルヤは余りに堅固で、守備隊の士気は高かったのです。
 4か月の包囲攻撃を受けても、城壁を突破できず、冬も間近に迫り、さらにゲリラ戦によって補給も滞り始めたオスマン軍は、士気の低下が著しくなりました。このためムラト2世は、10月末、遂に退却を決意しました。心中で、対アルバニア戦略の転換が必要と考えていたに違いなかったでしょうが、ムラト2世がそれを実行する機会はありませんでした。
1451年、ムラト2世は病没したからです。

 ムラト2世は政治家として有能な王であり、野武士的と称される果敢で冷静な戦闘指揮官でした。しかしイスラームの神秘思想に傾倒するなど、精神的に平穏な人生を望んだ人物でもありました。しかしそのような人生を謳歌できる余地はない事も知っていました。
 一旦は引退を決意したものの、結局責任放棄することなく、その生涯を閉じたのでした。
 
 この勝利によってスカンデルベウの名声は、全ヨーロッパに広がりました。しかしムラト2世を嗣いだ新たなスルタン、メフメト2世はかつてムラト2世に頼らなければ事態を解決出来なかった頃の若造ではすでにありませんでした。やがて「征服者」異名を奉られることになる、この青年スルタンが、アルバニア連合の息の根を止めることになるのです。

 危機を乗り切ったスカンデルベウは、国内の統一を推進し、自身の権力強化を図るべく、封建領主達の権限と行動を制約するべく行動することになります。
 しかし当然ながら、これは諸豪族の反発を招きました。
 スカンデルベウは次第に孤立していったのです。
 豪族貴族はスカンデルベウに対する経済的支援を拒否するようになり、軍勢を維持するためスカンデルベウはナポリ王と臣従関係を結び、その支援を仰がねばならなくなりました。

 加えてアルバニアに対して、オスマン軍は1452年から翌年にかけて、またも軍勢を送り込んできました。しかし、これは他の作戦のため支作戦でした。
 つまりスルタンのビザンツ攻撃の際に、その援軍たり得るスカンデルベウの自由な行動を封じるためだったのです。
 1453年5月、スルタン自身率いるオスマン帝国の大軍勢は、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスを遂に陥落させました。
 ビザンツ帝国は千年に及ぶその歴史の幕を閉じ、オスマン朝はこの東ローマ帝国旧領全てを併合すべく、さらに活動を活発化させたのでした。
 
 よく中世の終焉を象徴すると言われるこの衝撃的な事件は、各国に波紋を投げかけましたた。
 スカンデルベウも諸国から資金をかき集め、軍勢の収集と訓練、要塞など防御施設の補強、修理を急がせました。
 さらに1455年にはベラト要塞奪回のために攻勢に出たのでした。
 しかしこれは大失敗に終わってしまいます。
 アルバニア統一のために行っていた中央集権化政策に反発して、配下の部将や親族までもがスカンデルベウを裏切ったためでした。
 特に右腕とも言うべき名将モイセ・ゴミレの裏切りはスカンデルベウにとっても衝撃的でした。
 モイセの手引きによって、やすやす国境を突破したオスマン軍4万の背後からの急襲によって、不意をつかれたスカンデルベウは、潰走し、部隊の半数以上を失うという敗北を喫したのでした。

 クルヤに戻ったスカンデルベウの元には、次々に悲観的な情報が舞い込むようになりました。
 スカンデルベウ軍の一翼を担っていた甥のハムザがオスマン朝に寝返り、また1456年にはハンガリーのフニャディがベオグラードを死守し、キリスト教徒に勝利の美酒をもたらしましたが、まもなく無念を残して病死しました。
 そして翌年オスマン軍が再び、大軍を編成して侵攻を開始するという情報もまた彼の元に入ったのです。
 その数およそ8万に達すると喧伝されました。

 この大軍が国内に進入すると、スカンデルベウは、自らが囮となり、敗走を装いつつ、オスマン軍を誘導する作戦を選択しました。
 そしてアルバニア軍を潰走させたと信じ、戦勝を祝賀していたオスマン軍の陣営に、スカンデルベウは全部隊を率いて奇襲をかけたのです。
 完全に油断していたオスマン軍は数千人の使者と数倍する負傷者を出して、今度は自分たちが本当に潰走する羽目となりました。
 またもスカンデルベウはアルバニア併合の危機を救ったのでした。

 1460年、メフメト2世はアルバニア征服には、さらなる準備が必要と考え、一時の休戦を結ぶ決意を固めました。
 キリスト教国の援助や支援に限界を感じていたスカンデルベウも、新たな道を模索する時間を必要と結論せざるを得ず、これに同意し3年間の休戦が実現しました。
 このためスカンデルベウは、最大の援助国であるナポリ王国が政変に見舞われたときイタリア半島に渡り、これを救うことが出来ました。
 しかし1462年には休戦は敗れ、オスマン軍は何度か侵攻してきました。しかしスカンデルベウは、これらの侵略をなんなく撃退しました。

 1463年、ローマ教皇ピウス2世は対トルコ十字軍を宣言し、アルバニアも勝利の暁にはマケドニア地方を得ることを条件に、これに参加しました。

 しかし、この机上の空論は実を結ぶことなく、1464年、教皇ピウス2世の十字軍構想が潰えると、以後アルバニアはほぼ孤立無援となっていました。

 最早ヴェネツィアの経済援助のみが頼りとなってしまいました。
 しかしそれも限界がありました。
 オスマン軍はヴェネツィアの交易ネットワークの拠点港を押さえることで、海戦に勝利することなく、その海軍力と経済力を封じていったのです。
 そのまま戦い続ければ貿易立国たるヴェネツィアは立ち枯れてしまいます。
 こうして万全の外交策を行った上で、オスマン軍は毎年、アルバニアに侵入し、略奪・破壊行為を繰り返したのです。陸路ヨーロッパに進入できるアルバニア回廊はオスマン帝国にとって、重要な戦略的要地でした。
 しかし、その度にスカンデルベウは知力を尽くして、これを撃退しました。
 ですが連年の戦役で次第に将軍、兵士達を失い、軍事力は弱体化していきました。

 そして1466年、決戦を期してメフメト2世は自ら15万に及ぶ、過去最大の大部隊を率いて、アルバニアに侵攻したのでした。
 スルタンはクルヤを8万の部隊に包囲させました。ただし大規模な攻城戦は行わず、食糧の尽きるまで包囲し、陥落させる持久策を取りました。
 残りの部隊はアルバニア各地に分派し、徹底的な破壊活動を行わせ、スカンデルベウのパルチザン戦に対応させました。そして要塞を新たに築き(後のエルバサン市となります)、長期の駐留が可能なように物資を集積させました。冬が来て、スルタン率いるオスマン軍はひとまずブルガリア方面に退却しましたが、クロイアはバラバン将軍の軍勢に包囲されたままとしました。
 万全を期したスルタンの前に、スカンデルベウも万策尽き、自らローマに渡り援軍を請うしかありませんでした。
 一兵卒の姿に身を費やし、ボロボロになった部下達と共にローマに現れたスカンデルベウ一行に対して、イタリア人の反応は冷たいものでした。
 アルバニアが陥落すれば、イタリア方面への陸路での侵攻が可能となると言うのに。
 そして今まで彼らを守り続けてきたのはスカンデルベウであったというのに。
 現実を理解せず、目先の利益を追うローマ教会や西欧諸国に絶望したスカンデルベウは、「まずローマ教会と戦うべきであった」と言う怒りと悲しみに満ちた言葉を残し、アルバニアに帰っていったのです。

 西ヨーロッパ諸国の冷たい反応に絶望したスカンデルベウでしたが、意を決して祖国に舞い戻ります。そしてアルバニア各地を周り、集められる限りの兵士を集めると、オスマン帝国のクルヤ包囲軍を強襲したのです。
 1467年4月、おそらく5倍以上の兵力差のある敵に、まさに背水の陣の覚悟で臨んだこの決戦で、アルバニア軍は奇跡的に勝利を収め、クルヤを救ったのでした。
 劣勢の兵力で攻勢に出てくるとは予想していなかったオスマン軍は、大混乱に陥り、同士討ちを始める始末でした。
 この乱戦の中オスマン帝国軍のバラバン・ベイ将軍は戦死してしまいます。

 メフメト2世は敗北にも拘わらず、アルバニアからの全面撤退はせず、7月には再度軍勢を再編してアルバニアを劫略しました。しかしこれもクルヤ陥落には到りませんでした。
 年が変わり1468年1月になって、ようやくスルタンは敗北を認めてオスマン軍の撤退を開始しました。
 
 それを見届けたスカンデルベウは、新たな防衛体制を再編すべくレジャで再び会議を開くべく諸侯を招集しました。
 しかし会議が開かれる前に、スカンデルベウは体調を崩してしまいます。長年の連戦に、さしもの頑強な彼も疲労困憊し、その体はボロボロとなっていたのです。
 そして17日、遂に回復ならず、スカンデルベウは世を去ったのでした。

 その死を知ったメフメト2世は驚喜し、
 「ヨーロッパとアジアは、これで私のものとなった。キリスト教国は、その剣と盾を失ったのであるから。二度とあのような勇者は見ることは出来まい」
 と叫んだと伝えられています。

 伝承の中ではスカンデルベウは小男あったとされています。
 しかし彼に実際にあった人々はまるで、そのことに気づかなかったと彼の伝記や物語では言い添えられます。
 常人離れした雰囲気が、彼を遙かに大きな男に見せていたという逸話ですね。
 アルバニア人が彼を英雄視するのは当然として、敵対者たるオスマン軍将兵の間でも彼を尊崇する者が絶えなかったと言います。
 離教した反乱者ではあっても、元オスマン軍将軍たる彼を同胞のように思っていたとも言われています。
 彼の遺骨は聖者のそれのごとく扱われ、墓所から取り出された骨片はお守りとして、兵士達の争奪の対象となった程でした。

 スカンデルベウの死後も、10年近くアルバニアは抵抗を続けましたが、1478年6月16日、補給を断たれ、飢えと疫病に苦しむ中、遂にクルヤは陥落しました。

 さらにスルタン=メフメト2世自身とアルバニア出身のダウド・パシャの率いる軍勢4万が、最後の拠点シュコダルの要塞を包囲しました。
 1474年、1477年と大軍による攻城戦を何度か跳ね返し続けてきたシュコダルの要塞は、難攻不落として知られていました。
 しかし守備するアルバニア人や義勇兵達を救おうとする勢力はなく、頼りは守城に優れた手腕を発揮するヴェネツィア人総督ロレダンの指揮と、ヴェネツィアのわずかな資金提供だけでした。
 数ヶ月に及ぶ砲撃によりアルバニア守備隊は、兵士の3分の2を失いながらも、頑強に抵抗を続けました。
 しかしヴェネツィアがオスマン朝との戦争の敗北を認め、アルバニアの権益を直接掌握することを放棄し、和平を結んだことで要塞の維持は不可能となったのです。
 1479年1月のことでした。
 
 ここにアルバニアの全領域は、オスマン朝の支配下となり、独立は失われました。
 オスマン支配を受け入れられない多数のアルバニア人がイタリアに亡命しました。
 しかし占領下のアルバニアは圧制下に置かれた訳ではありませんでした。
 50年も経たずに人口が倍増したとされるように、安定したオスマン朝の支配下で繁栄し、ムスリムとなったアルバニア人の中には大宰相にまで昇る者も現れました。
 平和が続く中、アルバニアはムスリムが多数を占めるイスラムの国となり、現代に到るのです。
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