頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史12

第一次世界大戦とアルメニア人大虐殺
 
 「小さなゴルゴダ」と呼ばれる場所がある。シリアのアレッポに近い沙漠ダール・エル・ゾールの一角である。現在はどうか知らないが、ここには第1次大戦とその後の混乱の中でアルメニア人の頭蓋骨が山のように積まれた場所である。現場を目撃した人々が人類の正気を疑い、その英知への不信を決定的にしたとも伝えられるこの世の地獄、あるいはこの世こそが地獄と確信させた場所。アルメニア人の悲劇の象徴であり、一説によると100万人のアルメニア人が周辺で虐殺されたと言われている。今から語られる内容はこのゴルゴダの丘へとつながり、ナチスのユダヤ人虐殺のモデルとなり、そして現在まで続く民族浄化の源泉にもなった恐るべき事件の概要である。そして、それが真実であったかどうか、もやは誰にも立証できない。それは歴史を扱う者にとって、実にやっかいな問題でもあるのである。

 第一次大戦はバルカン戦争の継続的戦争の意味を持つ。第2次バルカン戦争で領土を拡大し中世ステファン・ドウシャン帝のバルカン・セルビア帝国復活を夢見るようになったセルビア人の脅威に対して圧力をかけてきたハプスブルグ帝国への反感が起爆剤となったからである。そして起こったのが1914年のセルビア青年によるオーストリア皇太子夫妻暗殺事件「サラエヴォ事件」である。戦争は瞬く間に拡大した。かくして英仏露を中心とする連合国側に対してハプスブルグ帝国とドイツ帝国の同盟軍は宣戦布告した。ドイツの影響下にあったオスマン朝は開戦2ヶ月に英仏露に対して宣戦布告、宿敵ロシアを破り領土を回復すべく戦争に突入した。ここでは欧州全体の戦況は割愛して、カフカスにおける戦争に焦点を当ててみる。

 エンヴェルはこの戦争で資源に恵まれイスラム人口の多いカフカスに軍を進めた。彼は汎トルコ主義者であり、ロシア内のスンナ派トルコ系民族のウズベク、アゼルバイジャン、トルクメン、キルギスなどと呼応して中央アジアからカフカス、そしてオスマン朝領アナトリア(小アジア)に連なる大トルキスタン帝国建設を夢見ていたのである。ロシア軍もトルコ領内のアルメニア人の首都とも言うべきエルズルム占領を目指して侵攻を開始した。

 エンヴェルはカフカスの国境地帯にいる3個軍団に加えて2個軍団規模の増援を送り込んだ。これで兵力は10万。ロシア側の1.5倍程度と優勢であった。自身も前線に向かい指揮を執る。進撃して来たロシア側の弱点は後方から補給路が鉄道一本しかないことにあるとエンヴェルは考えた。そこでロシア軍の補給が伸びきったところを正面からは第9軍団が防御を行いつつ拘束、時間を稼ぎ、その間に第10軍団が側面に迂回し、第1軍団はさらに北方に進撃、背後の鉄道線を遮断、包囲網を築くという壮大な作戦を立てた。最後に増援の第11軍団と共に攻勢をかけロシア軍を降伏に追い込むというものであった。

 だがオスマン朝軍は敗れた。敗因はオスマン軍の進撃の情報がクルド系住民の手でロシア側に筒抜けであったこと。アルメニア系住民がロシア側とまでは行かないものの非協力的だったこと(ちなみにロシア軍内のアルメニア人部隊は反乱を恐れて西方の対ドイツ戦線に投入されていた)。何よりオスマン朝軍の攻勢が真冬の12月に行われたことにあった。

 クルド人から情報を得たロシア軍は進行を止めて、防御を固めオスマン軍を待ちかまえる形となった。攻守が逆転したのである。しかもオスマン軍はロシア軍を迂回攻撃を行うため山地を超えなければならなかった。真冬のカフカス山脈を越えた侵攻は当時としては自殺行為であった。第9軍団はロシア軍が進撃してこなかったため、これと接触できず、最初にロシア軍と戦ったのは奇襲をかけるはずの第10軍団であった。防御を固めていたロシア軍への第10軍団の攻撃は失敗し敗退、第9軍も進撃してきたユデニッチ将軍率いるロシア軍にサルカミシュの会戦で包囲撃滅された。山地を何とか突破し、後方に辿り着いた第1軍団は幾つかの都市を占領したが、疲れ果て補給もなく孤立した彼らには大したことは出来ず、他の軍団敗北の報をうけ退却するしかなかった。ロシア軍は反攻に出て、第9、10軍団の敗残兵を追撃した。増援に来た第11軍団が踏みとどまって兵士を逃そうとしたが、ロシア軍の攻勢を支えきれず大損害を出して後退した。サルカミッシュ地方を占領したロシア軍は3万名ものトルコ軍の凍死体を各地に発見したという。エルズルムに退却できたオスマン朝軍は逃散した兵士もあり、たったの2万名でしかなかった。だがロシア軍もドイツとの戦線で大損害を受け、これ以上の戦線の拡張はできなかった。東方のオスマン軍は壊滅したが戦線は沈滞し、夏を迎えることとなった。だがこのカフカス戦の間、トルコ人は西方で真の英雄を得ていた。1915年4月25日、メソポタミア戦線で苦戦していた英仏軍が起死回生の策として企図したイスタンブール占領を目標とするゲリボル(ガリポリ)半島上陸作戦が行われた。だが4万を数える上陸軍第一陣はオスマン守備隊により壊滅し、単独でダーダネルス海峡突破を謀った海軍も陸上の要塞からの砲撃や機雷網、オスマン海軍の潜水艦の攻撃を受け、大被害を被り撤退したのである。そして陸上での指揮を執ったのが後のトルコ共和国初代大統領になったケマル・パシャであった。 
 1915年の夏、ロシア軍はカフカス戦線の司令官にニコライ大公を送り込んだ。大戦が始まるまで軍を指揮したことのなかったにもかかわらず、戦争が始まると全ロシア軍総司令官に任命されたニコライ大公には、その座は荷が重すぎた。結局ドイツとの戦いで不利な情勢が続いたため解任され、カフカスに送られたのである。左遷である。大公は有能とは確かに言い難かったが、ろくでもない無能者ではなかった。ドイツとの戦争で苦杯を舐めたことは間違いないが、全面的にニコライ大公の責任とは言えず、それはロシア軍とドイツ軍の質に差があったせいでもあった。実際大公の後任となった総司令官よりは余程優秀であった。後任の総司令官とはツァーリ・ニコライ2世その人で、ロシア皇帝は軍事については才能の欠片もなく幼児よりひどいと酷評されることになる。大公が無能でない証拠に、彼は対トルコ戦においては優れた作戦指導を見せた。

 ロシアが攻勢準備を進める中で、オスマン朝内では敗戦の原因をアルメニア人の利敵行為に求める声が挙がっていた。実際、独立をもくろむ武闘派組織によって幾つかの戦闘が起こっていたが、アルメニア人全体がロシア側に立って闘ったわけではなかった。逆にオスマン朝のために闘った兵士も数千人にのぼったというのに。だがエンヴェルら、オスマン朝内の権力者は(特に軍部の)敗戦責任を逸らすためにアルメニア人追放を決した。1915年4月のイスタンブール在住のアルメニア人の有力な235家族が残らず逮捕、虐殺されたのを手始めに、10月にかけて、エルズルムからディヤルバキル一帯のロシアとの国境に近い地方のアルメニア人の強制的な追放・・・実質は民族浄化が・・・実施された。正規軍と近傍のクルド部族を指嗾して行われたこの虐殺は60万〜150万人以上(正確な数字は不明)の人々が虐殺されたと言われる。11月には逃げまどい国境まで逃亡した50万人の人々が国外に追放されメソポタミアのオスマン朝の手の届かない地方へ脱出した。だがこうして逃れた人々の内、飢えや渇き、疫病による死の手を逃れ得て、終戦まで生き延びたのは9万人に過ぎなかった。アルメニア人は虐殺が行われている間、隠しておいた旧式の武器を取り、抵抗したため50万人近いクルド人が反撃で殺されたと言い、トルコ軍もトルコの民衆も決して少なくない被害を受け多数の死亡者を出した。

 ロシア軍は当初、1916年の春の雪解けを待って攻勢に出る予定であった。しかし英国のゲリボル半島の敗戦、メソポタミア戦線での膠着から、大公は苦戦する英軍の支援のためトルコに対して早期に攻勢を仕掛ける必要を感じた。そのため1916年1月には山脈を越えての攻勢は開始された。冬期のカフカス山脈の冬は前年多数のトルコ軍の将兵の命を奪ったが、夏から進めていた冬期戦の準備が整っておりに、元来寒さに慣れているロシア軍は最小限の被害で踏破に成功した。ロシア軍は吹雪の中の奇襲を成功させ、エルズルム要塞の占領に成功し、8月までに敗北で戦力の低下していたアルメニア領土内のトルコ軍は完全に駆逐された。だが統治のアルメニア人はすでに激減しており、死体が山のように転がっていた。生き残ったアルメニア人は復讐に動き、多数のトルコ人、クルド人を殺した。

 ロシア勝利で終わるかに見えたカフカス戦線は、翌1917年に再び混沌を帯びることになった。ロシア革命が勃発したのである。ロシア全軍は実質崩壊し、ニコライ大公も逃亡を余儀なくされた。落胆し、地位保全に苦慮していたエンヴェルは再び訪れた好機に奮戦し、1918年8月から実施された反撃作戦で、オスマン朝軍はドイツ軍と共にロシア領深くアゼルバイジャンのバクーまでの制圧に成功した。この侵攻作戦中にトルコ人クルド人の虐殺を行っていたアルメニア人への報復として、有力なアルメニア人の街ヴァンは徹底的に略奪破壊され、ロシア側の領土内のアルメニア人に対しても虐殺が行われた。この結果、「裏切り者」粛正に狂ったオスマン軍により虐殺された人々が新たに50万人加わった。だがこの間にドイツとトルコとの不協和音が広まっていった。長年の戦争でトルコ軍は経済的にもドイツに依存しており、その結果トルコ軍内部でもドイツ人が幅を利かせ参謀総長はドイツ人のゼークト将軍が務める有様であったからである。だが結局のところ、メソポタミア戦線のオスマン軍が英軍の攻勢で遂に崩壊したため、カフカス占領どころではなくなった。英軍はクウェートのペルシャ湾岸の占領地帯からイラクのバグダット、アゼルバイジャンのタブリーズへと進み、エジプトから進発した軍もシリアのアレッポまで進撃した。仏軍もベイルートなどに上陸し小アジア制圧を目指した。北方でもバルカン戦線が連合軍に突破された。

 1918年10月30日、オスマン朝は連合国に降伏した。

 アルメニア一帯と小アジア東部では、オスマン朝とロシア帝国の崩壊で政治的空白が埋まれ無秩序状態が発生していた。ロシア赤軍、ロシア帝国残党、アルメニアとアゼルバイジャンの各革命軍、英軍の派遣軍などなど。

 オスマン朝内でアルメニア人虐殺に責任があった革命政権の三巨頭であるエンヴェル、タラート、ジェマルは国外に逃亡し、後に欠席裁判で死刑を宣告された。実質的な独裁者だった風雲児とも言うべきエンヴェルはトルキスタンで独立トルコ人国家を創るべく、反ソ連のゲリラ活動に身を投じていたが、ソビエト赤軍との戦闘で戦死した。ジェマルはグルジアのトビリシで、タラートはベルリンでアルメニア人によって暗殺された。

 
 アルメニア人の悲劇は戦争終結で終わった訳ではなかった。連合軍がトルコの分割を決めたセーブル条約を取り決め、スルタン・メフメト6世が自身の安全の保証を条件にそれを受け入れたことを気に、生き残っていたオスマン軍はアンカラでゲリラ活動を行っていたケマル・パシャの元に結集し、オスマン朝ではなくトルコ人の新国家のために闘う決意を固めた。大戦の影響で経済的に破綻していた連合軍はこれを鎮圧できず、勢力を増したケマル・パシャ軍は小アジア各地を再征服していった。この間、小アジアのほぼ東半分の領有を主張する大アルメニア共和国建設を宣言していたアルメニア独立軍「野蛮師団」はオスマン朝の領土を平定しようと活動していた。ケマルパシャはすでに2月にはマラシュ、セバスなど周辺の小アジア中部のアルメニア人の掃討を行っていた(3万人ほどが虐殺された)。さらにセーブル条約が調印されて以後は、権力を掌握したケマル・パシャはかつての宿敵の後継国家ではあるが国際的に孤立していたソビエト連邦と手を結び、大戦前の国境に戻す形でのアルメニア分割を行うことで同意し、アルメニア国家を滅亡に追い込んだ。アルメニア人の国家はソビエト連邦の一員アルメニア「人民」共和国のみとなった。

 1920年冬、「新ビザンツ帝国」建設を目指しイズミルから小アジア東部に侵攻したギリシャの大軍をケマル・パシャは見事な戦術を駆使して撃破、イズミルとイスタンブール周辺を確保に成功した。これにより現トルコ共和国領土がほぼ確定した。トルコ人国民国家を目指すケマル・パシャは容赦なくギリシャ人、アルメニア人、クルド人など非トルコ系民族を弾圧した。ギリシャ人はギリシャ本土のトルコ系住民との交換でトルコ領を去り、クルド人は国家成立の夢を奪われ、各国との国境に部族単位で抑圧の中生きる道を選ばざるを得なかった。そしてアルメニア人は徹底的に虐殺された。かつてアルメニア商人全盛時代に多数の人々が交易拠点故に居住していたイズミル、トラブゾンなどのアルメニア人は誰にもその正確な数が判らないほど徹底的に虐殺されていった。1922年9月に生き残った10万の人々が西欧に亡命したが、死亡した人々も含めてトルコ政府は彼らの財産を全て没収した。 

 ロシアとトルコ領土内で300万以上の人々が居住していたと言われるアルメニア人はオスマン朝、ケマル・パシャ政権、ソ連の虐殺や強制移住の結果、最終的に4万人しか生き残らなかったともいう。現アルメニア共和国内に純粋なアルメニア人は実はほとんどいない・・・とも言われるほどの大虐殺であった。

 この数は過大であると、現在のトルコ政府は主張する。真実は信頼できる一次資料がなく全くの藪の中である。いわゆるホロコーストの先触れとして、西欧的なオリエンタリズムの色眼鏡が正確な情報の公開を阻んでもいる。確かにアルメニア側の(正確には西欧人の含めた)主張・・・150万人以上の虐殺・・・が真実なのか疑問もある。だが弾圧が行われたことは否定できず、トルコ政府もそれは(計画性や何やらぼかそうとは努めているが)認めている。

 結果、アルメニア人はさらに多くが新天地を探して再び離散していった。その最大の逃亡先はアメリカ合衆国であった。

 
 結び

 
その後のアルメニア人の歴史、アルメニア共和国の動向はソビエトと共にあり、その崩壊と共に、とうとう独立国家になった。現アルメニア共和国関連では、アゼルバイジャンとの紛争と勝利が近年の話題であろうか。

 アルメニアは今も国際的に孤立している。周辺国で、なんとか友好を保っているのはグルジアくらいであろうか。これからも様々な困難が続きそうな気配である。今回の下らない与太話を最後まで読んでくれた人で、新聞を丹念に読んだり、文献を調べたりして現代アルメニア史を調べて書いてくれたりする人がいると嬉しい。わしゃ疲れたので遠慮する(笑)。

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