頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋

 
 
 
アルメニア通史11
オスマン朝1908年革命
 
 フランス革命を境にオスマン朝では、諸外国の圧力と軍事力に屈して次々と領土を縮小させていった。エジプトのムハンマド・アリー朝の成立、シリア領有を巡るそのエジプト軍とのネジブの戦いでの敗北はオスマン海軍の壊滅も手伝ってイスラム盟主の座すら奪われることとなった。エジプトの野望は西洋列強の介入により頓挫したが、もはやオスマン帝国の運命は風前の灯火だった。そして1837年の「薔薇宮(ギュルハネ)の勅令」を始まりとする西欧的改革派官僚主導の革命(タンズィマート)も失敗の憂き目を見た。他民族他宗教の法の元での平等を謳ったタンズィマートであったが、改革に要する資金は民衆の税負担となって現れ、改革で生まれた諸産業の利益が欧米人やユダヤ人、アルメニア人の資本家に集中したため貧富の差が激しくなり、特にムスリムに不満が生まれた。しかもこうした不満が元凶とも言える欧米人資本家や無能なスルタン政府にではなく、そう言った人々との中間にあり、直接民衆と接触することの多いギリシャ人やアルメニア人商人への近視眼的な憎悪に変換されていったことに悲劇があった。民衆は情報の不足から大局を見極めることなどできなかったのである。すでにギリシャ独立運動のあおりで、1822年に起きたキオス島のギリシャ人虐殺事件の例があり、次々と独立し帝国を裏切っていく非トルコ系の住民に対して、ナクシュバンディー教団などイスラム神秘主義教団とムスリムの不満分子が融合し、過激かつ短絡的な暴力が目立つようになっていった。民衆と政府との断絶も進み、政府は暴動を抑える力を持たなかった。それでもタンズィマートは帝国のアーヤーンなど地方勢力を押さえることには成功し、帝国の中央政権強化には一定の成果を得た。だがそれが、スルタン独裁の下地になろうとは皮肉と言うしかなかった。

 タンズィマートを主導したスルタン、アブディルメジトの死後新たに即位したスルタンであるアブディルアズィーズはこうした危機の時代に対処するには余りに無能であった。

 強力に改革を主導し帝国の立憲君主国家化を目指した有能な大宰相ミドハト・パシャを危険を感じたエジプトの賄賂攻勢を受けて、あっさりと解任するなど平然と賄賂を要求して恥じない上、珍しいオウムなど鳥獣達を異常なまでに愛玩することを何よりも大切にし、また大変なケチでも知られた。政治的な定見など皆無人物で、押さえにまわっていた大宰相アリー・パシャが死去すると無軌道ぶりはさらに増して、無政府状態寸前にまで政局は混迷した。財政は破綻し帝国は外積に縛られ、首が回らなくなっていたというのにである。ここにいたりついに意を決したミドハト・パシャはスルタン廃位を強行し、退位を受諾させた。しかし跡を継いだムラト5世は、失意の末にアブディルアズィーズ帝が自殺した事件により、精神に失調をきたし、またも廃位。こうした情勢の中バルカン半島ではイスラムとキリスト正教と間の対立が激化し暴動が発生し、ロシアやイギリス、フランスがキリスト教と保護を口実に介入を見せ始めるなど帝国は混迷した。帝国の将来は位を継いだ若いアブディルハミト2世帝の双肩にかかっていた。

 だがミドハト・パシャが念願かないアジア最初の憲法制定に成功したにもかかわらず、新皇帝は国益を阻害した人物をスルタンの裁量で追放できるという条項を利用して(ミドハトの威名を面白からずと思っていた官僚を指嗾してスルタンが修正させたのである)ミドハトなど改革派の追放に着手。立憲君主でありながらアブディルハミト2世は憲法を利用して強大な独裁君主となり仰せることに成功した。オスマン帝国の民衆にとっては全くの不幸であった。さらに露土戦争の敗北の責任追及やスルタンの不正問題が議会で問題となると、スルタンはこれをあっけなく解散し、彼を掣肘するものは(見かけ上は)何もなくなったのである。この時のスルタンの不正に関わっていたのはイスタンブールのガラタ区に住むギリシャ、アルメニア、ユダヤ系の金融業者であった。帝国は外積の発行など借金に苦しんでいたが、これを手当てしたのがこうしたガラタの非ムスリム金融業者であった。民衆の憎悪もまた彼らに向けられることになる訳であるが・・・。
 

 さて改革を潰したアブディルハミト2世が目指したものは汎イスラーム主義であった。

部族主義、民族主義、国民国家、分離主義を否定し、イスラームによる結束と統一がスルタンの理想であり、西欧への対抗の手段であった。なぜならアブディルハミト2世はオスマン帝国のスルタンであると同時に、全イスラームの頂点に立つ教主(カリフ)であるのだから。カリフ・アブディルハミト2世の一言が全イスラームを巻き込む聖戦(ジバート)を引き起こすことも可能なのである・・・と彼は夢想した。勿論、諸外国の純朴なムスリムの中にはスルタン・カリフに素直な感情で敬意を見せる人々も居たが、彼らに現実に聖戦を起こす力はなかった。逆に国内の様々な諸民族の独立運動が盛んとなり、アルメニアに置いても自治権拡大などを求めて運動や反乱に近い暴動が起こった。これは1890年ロシア系アルメニア人が中心となり組織された民族自立を求める武闘派革命グループ「ダーシュナクス」が中心となっていた。その背後にロシア帝国の影を見たアブディルハミト2世はこれに対して軍隊を送り徹底的な鎮圧を実施、強制移住などを行い1894年から96年にかけて多数のアルメニア人が(一説にはニ十万人)虐殺されたという。スルタンは「アルメニア問題を片づけることは、アルメニア人を片づけることに他ならない」と言い放った。アルメニア人の悲劇的大虐殺(ポグロム)の第一歩であった。スルタンはこの事件など流血を伴う強硬な姿勢が目立ち「紅きスルタン(クズル・スルタン)」などと言われるようになり、国内で威勢を奮ったが、英仏露などの強国に対してはオスマン朝は無力であった。そしてスルタンの掲げた汎イスラーム主義はスルタン自身よりもアフガーニーなどの在野の革命勢力や皮肉にもエンヴェル・パシャなど青年トルコ党内部の人々において大きな意味を持つようになっていく。

 スルタンの専制を打倒しようと各地で様々な運動が生まれたが、それらの内アルバニア系のイブラヒム・テモが創設した「統一進歩団」がその後の反スルタン勢力の源流となる。

 即ち、これが俗に言う青年トルコ党のことである。「統一進歩団」自身はアブディルハミト2世の悪名高い諜報組織ハフィエのより壊滅させられるが、運動自身はその遺髪を受け継ぐ形で継続し、テッサロニケ市を中心に軍部内に根を下ろし、特にマケドニアに駐屯する第三軍団は「統一進歩団」の影響下に置かれていった。そして1908年に「統一進歩団」の細胞経由でマケドニア駐留軍によって起きたクーデターは予想以上に呆気なく成功し、スルタンが巧みに身の保全を図りつつ妥協したため立憲制度はすんなりと復活した。

 だが1年後にアブディルハミト2世が各地に起こった非トルコ系民族の大反乱に乗じて反革命の動きを起こしたため、革命を指導していたエンヴェル・パシャは第三軍団の支持を受けて「皇帝軍」を破り、遂にアブディルハミト2世を退位に追い込んだ。スルタンは監禁され、弟のメフメト5世が新たに立憲君主として即位した。しかしこれは、立憲国家としてのトルコ再生には繋がらず、スルタン独裁から軍事独裁政権への移行でしかなかった。

 革命トルコ政権は英仏露への対抗上ドイツとの接近を謀った。ドイツからの軍事顧問団を受け入れたのである。中東への植民地拡大を模索していたドイツ皇帝ウィルヘルム2世には渡りに船の申し出であった。トルコ国内では親ドイツ派が主流となり、その危険性を主張したのはテッサロニケ士官学校校長のケマル(後のアタチュルク)ぐらいであった。

 1911年にイタリアがオスマン朝領土だったリビアに侵攻しエンヴェルが北アフリカに渡った時、バルカン諸国が連合して(第一次バルカン同盟)イスタンブールに迫った。これに対応して、オスマン軍はリビアを割譲してイタリアと和睦し反撃を試みたものの、各地で敗退し、バルカンでもイスタンブールまで15マイルまで侵攻されて、大宰相キャシュメル・パシャはバルカン諸国軍の占領地の支配を認めるという形で停戦に応じるしかなくなった。しかしリビアで戦っていたため、この停戦交渉に加わっていなかったエンヴェルは首都に帰還すると、反停戦のクーデターを起こし、王宮を制圧した。エンヴェルに対して戦争継続は無謀だと反論した陸軍大臣ナズルは反論の途中でエンヴェルに拳銃で射殺された。全権を掌握したエンヴェルは陣頭指揮を行い戦線建て直しを謀ったが、戦況を回復することは出来ず全戦線でオスマン朝軍は敗退を繰り返した。首都陥落目前まで至り、結局提示された新たな、勿論より厳しい内容(クレタ島の割譲など)の停戦内容を飲むしかなくなったエンヴェルは苦しい立場となり辞任を求める声が朝野に溢れた。しかし停戦交渉中にブルガリアと他のバルカン諸国が新たな国境策定で反目し同盟は瓦解、ギリシャとモンテネグロがブルガリアに対して宣戦布告した。この戦争に便乗し、ブルガリアに宣戦したエンヴェル率いるオスマン軍は全兵力を投入してアドリアンープルを奪回に成功した。この棚からぼた餅の功績により英雄となったエンヴェルはスルタンの娘を娶り、陸軍大臣となり、タラート、ジェマルの両陸軍要人と分かち合う形で実質政権を握った。さらにエンヴェル政権への反対派の大宰相マフムト・パシャを暗殺し、青年トルコ党の独裁権力が固まることとなった。

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