頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史10

ロシアの進出とアルメニア商人の衰退
 
 アルメニア商人の交流の背後にはサファヴィー朝の強い後押しがあったことは否めない。

 そのサファヴィー朝が衰退すると、ジョルファーの求心力が失われ、強固だったアルメニア人ネットワークもほころびが生まれ、内部分裂や他者の交易ルートへの進出を見ることになったからである。さらにオスマン帝国も衰亡し、西欧資本主義のイスラム世界への進出が急速に進むとアルメニア人社会の再編を求めてきた。

 アルメニア商人の転換点を語る前に18世紀後半から19世紀のアルメニア地方を中心とした政治動向を簡単にまとめなければならない。

 サファヴィー朝ではシャー・アッバース1世末年頃から、平和と経済的繁栄の影響から次第に退廃的な風潮が宮廷内に満ちてきたと言われている。英君であったアッバース1世も美少年愛にふけるようになったと言われ、その死後即位した王達は大局の見えない暗愚な人物ばかりであった。またタージークと呼ばれたイラン系の官僚達も腐敗し、地方からの税収が彼らに搾取、着服され、減少し中央財政が困窮し始めた。政府に彼らを取り締まるための手段はなかった。中央政府も問題が多発していたからである。この頃中央軍たる「王の奴隷」の主力はグルジア系の人々であった。彼らは奴隷といっても個々人でシャーに仕えているわけではなく、縁故による集団を形成して、その集団として王に従っていた。そうした集団がいくつもあり、党派争いを行い、政治的にも重要な位置を占めるようになり、宰相を輩出し始めた。当然、古来帝国創建に力を貸したトルコ系の人々や土着のイラン系、アルメニアの経済人達は不満を示し、シャーへの忠誠心は薄れた。さらに財政を立て直すと称して農民やアルメニア商人への税が重くなり、経済活動への支障が出始めていた。新ジョルファーの指導力も低下し、アルメニア人ネットワークの衰退が始まった。このような状況で官僚達は、王朝への奉仕を放棄して私腹を肥やし、そのためさらに中間搾取が増加して帝国は弱体化した。悪循環であった。そして重要なのは、財政難による軍事費の削減であり、グルジア人を主体とする王の軍勢は半世紀のも及ぶ平和で実戦の経験がなかったこともあり、装備も訓練も数もかつての栄光の陰すらなくなってしまっていた。アルメニア人やイラン人の銃兵隊や砲兵隊、トルコ人諸部族から成る騎兵隊も王朝に対して無関心となってしまっていた。宗教界も権威を失った王家を見放し、イマーム、救世主、神の化身と標榜する王家を批判し始めていた。そして東方からアフガンのカンダハル遊牧人達が侵入したとき、数も少なく、装備などなきに等しかった彼らに王朝軍は完敗し、アルメニア人やイラン人は王朝を救おうともせず傍観した。人口70万に達していた大都市、首都イスファハーンは呆気なく陥落し、その婦女子はすべて陵辱されたと伝えられるような徹底的な略奪を受けた。サファヴィー朝のシャー、スルターン・フサインはアフガンの族長マフムードに王位を譲らざるを得なかった。1722年のことで、この年が実質上サファビー朝滅亡の年であった。アフガン人達はカズウィーンでサファヴィー朝のタフマースプ2世を擁立したトルコ系のアフシャール族の族長ナーディルによって追放されたが、やがて彼自身が1736年シャーを名乗りサファヴィー朝は滅びたのである(名目的には1773年にザンド朝に擁立されたイスマイール3世が没したときとも言えるが)。ナーディル・シャーは畏るべき軍事的な天才で、アフガン族を打ち破った以外にも、ペルシアの混乱を見て取り侵入したオスマン軍、インドのムガール軍、そして最新の装備を誇っていたロシア軍さえ、完膚無きまでに打ち破り、西欧の人々から後にペルシアのナポレオンと呼ばれる程であった。インドのデリーを襲撃し、中央アジアを支配下に治め、このままであるならばイランは再びアフシャール朝の元発展していたかも知れない。だが雄図半ばで彼は暗殺されてしまう。

 彼の死後には再び無秩序が荒れ狂うことになる。1765年にカリーム・ハーン・ザンド率いるザンド朝が一時期イランを再統一したのも束の間、1779年に成立したカージャール朝が対立これを滅ぼした。そして混乱の中ペルシア各地の勢力は再び自立し始めることになる。アゼリー人はバクーを中心にアゼルバイジャンの国家を打ち立て、アフガン人も東方で勢力を回復した。クルド人も部族ごとに自治を行い、グルジア人はオスマン朝の保護の下で小王国を回復し、イランとの関わりを減少させた。アルメニア人達は大して変わらず国家と呼べるものはなかったが各地で商売を続けていた。ただしジョルファーの支配は失われたも同然で、総合的に商業圏を管轄する勢力はなく分裂傾向が進みつつあった。目端の利くアルメニア人はインドに拠点を移し、イギリス東インド会社と提携することとなった。結局イランの混乱状況を終息させたのはトルコ系遊牧民国家カージャール朝であったが、カージャール朝の創始者アーガー・モハンマド1世は実に暴力的独裁的な君主で、宦官であったと言われる。残虐さでも有名でアフシャール朝の最後の王シャールフに王朝の財宝の在処を吐かせるために、自ら沸騰した油を注ぐという拷問を行い、財宝の在処を吐かせた後は、じっくりと時間をかけてなぶり殺しにしたと言う。このような人物の元生まれたカージャール朝は遊牧的性格が色濃く、政治は分権的であった。

 オスマン朝もスレイマン大帝の時代にハンガリーを征服して以後、次第に衰退の兆しを見せ始めた。軍事的にはこれまで攻撃の主体であったシィパーヒーと呼ばれる封建騎兵の相対的地位の下落があった。オスマン軍は親衛隊イエニチェリなど銃兵や砲兵が有名であったが、征服時の主体は騎兵戦力であったのは過去のトルコ系の諸国家と変わらなかった。彼らが巧みに機動する事で布陣した銃兵の砲火に引き込み大打撃を与えるというのがオスマン軍の戦法であったのである。しかし火器の性能向上などヨーロッパの軍事技術力の優位と経済的成長に対抗すべく、戦時のみの収集でありコストの低い遊牧騎兵や封建騎士ではなく、多数の火器を主体と常に訓練された常備軍に移行せねばならなかったことが、軍事コストの大幅な上昇を招いた。さらに拡がりすぎた国土防衛のための補給線は伸びきっており辺境での戦いは苦しいものに成らざるを得なかった。トルコは基本的に農業国であり、近代的国民軍を維持することに、財政が耐えることは困難であった。さらにイスタンブールを中心とする東方交易もヨーロッパ人の新航路開発により次第に衰退し、交易による王室収入(親衛軍への支払いに使われていた)まで危機に陥った。加えて新大陸からのメキシコ銀の大量流入は世界的な大インフレを起こしたがオスマン朝も例外でなく貨幣経済に深刻な問題を突きつけ、帝国財政を崩壊させる原因の一つとなった。また有効性を失った騎兵達からは、財政の穴を埋めるべく封土が奪われ、騎兵達は没落し多くの不満を抱える勢力を生み出した。騎兵達の衰退は彼らを基盤としてきた地方統治体制(ティマール制)を揺るがし、帝国は徴税を地方豪族などに委託する請負制(イルティザーム制)に変更した。それはアーヤーンと呼ばれる在地有力者を生み出すことになり帝国分裂の兆しとなった。

 問題だらけの様ではあったが、中央支配が衰退したからと言って帝国全体の経済が沈滞した訳ではなかった。アナトリアでの軍人を主体とした大規模反乱(ジャーラリー諸反乱)が鎮圧されると、荒廃が進んでいたアナトリアやシリア、バルカンの再開発がアーヤーン達を主体に進み、交流が活発になったからである。ただ、スルタンの権威は落ちぶれるばかりであったが。

 軍事的な面では、宿敵オーストリアのハプスブルク家との戦いが続いていた。オスマン軍は有名なレパント沖の海戦で敗れて以後、海軍力が低下した(物的にではなく精神的、人材的に)がそれでも宿敵ヴェネツィアの拠点を1669年にクレタ島を陥落させ、ヴェネツィアの没落を決定的とし、陸上ではオーストリア軍に苦戦したが、それには外交手腕を駆使して、勢力の維持に成功していた。だが1689年に大宰相カラ・ムスタファ・パシャが主導したハプスブルグ帝国の首都ウィーンへの遠征が大敗北に終わると、それを奇貨としたオーストリア軍及びロシア、ポーランド軍との5年に及ぶ一大攻勢を呼び、遂に1699年のカルロヴィッツ条約によるハンガリーの喪失を招いた。これ以後対外的には帝国は外交と防御重視の姿勢へと転換せざるを得ず、一時期の軍事的優位はあったものの、反撃には至らず、帝国領は次第に蚕食され始めた。改革は特に旧態依然とした親衛軍イェニチェリの反抗により遅々と進まず、逆にスルタンが暗殺されるなど、権威の失墜が加速するばかりであった。そしてロシアの勢力南下に伴う戦争の頻発、軍事費の増大は帝国を苦しめることになり、同盟国であったはずのフランスのナポレオンによるエジプト遠征以後帝国は孤立し、「ヨーロッパの病人」と呼ばれる道を歩み始める。 

 アルメニアにとって政治的に重要な事件はロシアによる対トルコ、対イラン戦争の結果によるカフカスの浸食であった。ロシアは1787年にオスマン朝と1796年からはカージャール朝と戦争を断続的に行い勝利を収めた。特にオスマン朝に対しては1821年のギリシャ独立運動の発生を機に本格的な戦争状態に突入し、戦いの末1829年にかつてのオスマン朝の首都だったエディルネ(アドリアノープル)をロシア軍が占領した。首都イスタンブール目前まで攻め込まれたオスマン朝は敗北を認め講和した。アドリアノープル講和条約の結果、ギリシャは独立し、セルビアも自治国家となった。カフカスはロシアの勢力圏となり、カフカスに分立していたトルコ系の諸ハーン国は消え、グルジアもロシアの保護下に置かれた。クリミア戦争でロシアの南下は一旦押し戻されたが1875年にバルカンのスラヴ所属の反乱が起きるとロシアは再びオスマン朝軍と戦い、これに勝利を収めサン・ステファノ条約により、アルメニア高原の内、現アルメニア共和国の領域が1878年にはその影響下に入った。ルーマニア、セルビア、ブルガリア、モンテネグロが独立しバルカン半島の大部分がオスマン朝の支配下から離れていった。

 その間、アルメニア商人のネットワークでは大事件が発生していた。まずオスマン帝国、ペルシアでは西欧の圧力に屈して通商条約がヨーロッパ優位で次々に改正され、西欧資本の流入が活発になった。そのため黒海やカスピ海の西欧商船の航行が自由となり、これら海路を使った交易路が今までアルメニア人やギリシャ系の人々の用いていたルートより迅速さとコストの面で優位に立った。そのためアルメニア人は黒海沿岸のトラブゾンにコミュニティーを設立しこれに対応した。その終着点はイスタンブールであり、イスタンブールのアルメニア人は19世紀後半には10万人に迫った。しかしこの間1837年にイランの構造的とも言える不況が始まるとアルメニア商人の立場はさらに苦しくなり、同じく海上交易でアルメニア人と競合したギリシャ人達に押されるようになった。ギリシャ人の構築したルートが、ややアルメニア人のものより有利であった点も影響し始めた。だがなにより重大な事件は蚕の微粒子病の流行であった。この蚕特有の伝染病が1857年にはオスマン朝内で1864年にはイラン領土内で流行し蚕が全滅したのである。回復は遅々として進まず、ようやく復興が成されたのは欧米のパストゥール分別法が導入されて健全な蚕が飼育できるようになった1890年代であった。そして、そのイニシアティブを握ったのはアルメニア商人ではなく、ギリシャ商人であった。加えてペルシア制の生糸の品質が、この頃には欧米のものに劣っていることが忌諱されるようになり、交易形態が生糸輸入から、蚕の繭の輸入に変わっていった。タブリーズの生糸生産者との関わりが大きかったアルメニア人はこれにも対応できず、ギリシャ人に敗れ、アルメニア商人の衰退がここに決定的となったのである。やがて、日本、中国からの絹輸出が本格化すると、この方面の絹交易自体が衰退していく事になる。しかも、それ以上の大事件がアルメニア人を巻き込むことになる。

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