頑固猫の小さな書斎

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アルメニア通史9

オスマンとサファヴィーのはざまで

 イル汗朝はグルジアとキリキア・アルメニア王国を属国としてイスラム勢力への攻撃に使っていたが、やがて自身がイスラム化し、同時に弱体化していった。そして後継者を失い破綻した後、キプチャク汗国の分裂もあってアナトリアとイラン、カフカスは無政府状態となった。

 14世紀半ば以降は、世界的な気候の低温下やそれに伴う人口過剰地帯での食糧危機と河川氾濫あるいは干ばつ、モンゴルの出現によって結ばれた交易路を通じての未知の疫病の蔓延など政治以外での要因もあり、世界的な秩序破壊が始まったときでもあった。中国ではモンゴルに変わり明帝国が生まれ、ユーラシアの中心にロシアが勃興し始め、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国による秩序は崩壊し、フランスとイギリスは100年戦争に突入した。

 アルメニアに隣接する東部アナトリアにはアクコンユル(白羊朝)と呼ばれるトルコ系遊牧勢力が14世紀にはいるとヴァン湖周辺に強力となり、クルド人なども半ば支配下に置いてカフカスの諸国家に掠奪を行うようになった。アゼルバイジャンの草原地帯では、ジャライル朝が誕生し、イル・ハン国の西方領土を奪った。ジャライル朝の南、ティグリス・ユーフラテス川上流部にはカラコンユル(黒羊朝)が自立的遊牧勢力を作り、ジャライル朝に服属し軍事力を提供した。東方ではモンゴルの後継国家の中からチャガタイ・ウルスを構成する一氏族バルラス家が勢力を増し、その首領ティムールが中央アジアのサマルカンドを中心に大帝国を築こうとしていた。アナトリアの中央部と西方部はルームセルジューク朝の崩壊以後、小勢力がいくつも分立していたが、西方部ではオスマン侯国が、中央部ではカラマン侯国がほぼ統一を達成し、二つの勢力の決戦の結果オスマン侯国がカラマン侯国を属国化させた。

 新たに生まれた、これらの勢力は互いに抗争しあい、多くの破壊をもたらしていった。

 14世紀末になって、ティムール朝が最も強大となり、アンカラの決戦でオスマン朝を解体させるとアナトリアとアゼルバイジャンもその勢力下になったが、この統一もティムールが1405年に死去したとたんに崩壊し、諸勢力は再び自立していった。

 こうした諸勢力の盛衰中でアルメニアは政治的中心になることなどなく、被支配者として堪え忍び続けることになった。

 簡単に推移を説明すれば、まずジャライル朝がカラコンユルに裏切られ、滅亡した。カラコンユルはアクコンユルに敗れて吸収された。ティムール朝は内乱の末ティム−ルの4男シャー・ルフが巧みにイランと中央アジアを掌握したが、アナトリアに進撃はせず、その死後はバトゥの末裔ウズベク族の攻撃を受けるようになった。

 こうした混沌とした情勢を安定させアゼルバイジャンとイランを結合させたのは、アゼルバイジャンに本拠を置く神秘主義教団サファヴィ−教団であった。しかしサファヴィー教団は、強大化とともに次第に世俗権力に警戒され、弾圧を受け始めた。そのためサファヴィー教団教主は殺され、生き残り逃亡したサファビー家の新たな若き教主イスマーイールはギーラーン地方に隠れ潜んだ。しかし逃亡五年後、1499年に決起したイスマーイールは(この時彼はたったの12才だった)アナトリアのトルコ系遊牧民達の支持を取り付け、彼らの軍事力とアクコンユルとの縁戚関係を背景に1501年には早くもアクコンユルの首都タブリーズを攻略しアゼルバイジャンを手に入れてしまった。サファヴィー朝ペルシア王国の誕生であった。さらに1510年には東方のウズベク族の英主シャイバーニー汗をメルヴの戦いで撃破して戦死させイラン東部をも征服した。シャイバーニー汗は用心深く優れた軍事指導者でティムール朝を滅ぼし、ティムール朝の王族で、インドのムガール帝国の創始者バーブルが手も足も出なかった戦争の天才であったが、若年のイスマーイールを侮ったためか、敗走を装ったサファビー朝軍の誘因策に引っかかり、待ち伏せされ大敗してしまったのである。イスマーイールは紀元前からユーラシア遊牧民の間に伝わる勝利を祝う作法に則り、シャイバニー汗の髑髏に黄金を張り、これを酒杯にして祝杯を挙げたという。 これらの戦勝でイスマイールは自らをイマーム(指導者の意味。シーア派イスラムでは救世主と同意語)であると確信し、シーア派イスラムによるイスラム圏統一を意図し始めていた。そしてイスラム伝統のスルタンではなく、ペルシア古来のシャーという王号を名乗った。配下のアナトリアのトルコ系遊牧民(赤き頭、キジルバシと呼ばれた)も不敗の教主を熱狂的に支持した。だがその西方のアナトリアではティムールにより滅亡に危機に瀕したオスマン朝がムラト2世、メフメット2世の時代に勢力を盛り返し、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを奪うなど15世紀半ば以降はバルカンとアナトリアをほぼ掌握し、強大な存在へと変貌していた。有名な征服王メフメット2世は、征服時人口が減少していた新首都コンスタンティノープルの人口を補うためアルメニア人商人を多数移住させた事で知られる。トルコ人の新首都は半数がトルコ人でなかったが、アルメニア人はその中でも有力な存在になった。さて強大となった両王国が激突するにいたるのは自然の流れだった。オスマン朝下のアナトリアではトルコ系遊牧民はオスマン朝に支配された側であり、不満を抱いていた。また彼らは宗教的にイスラムであっても神秘主義的、シャーマニズム的な伝統が濃く、オスマン朝が指導するスンナ派の教条主義に反発感を持っていた。そして、それにつけ込んだイスマイールの激烈で熱狂的な詩を盛り込んだ反乱の誘いが功を奏し、ついに大反乱が発生した。反乱の指導者はシャー・クルと名乗った。シャー・クルとは「シャー(王)の奴隷」という意味である。あからさまに背後にイスマーイールが居ることを伺わせた。オスマン軍は討伐に向かった大宰相が率いる軍勢も敗北、大宰相自身も戦死するなどしたため王朝支配層は動揺した。会戦でシャー・クルも戦死したため反乱は終息し、その軍勢はイランに亡命したが、解体はしておらず危機は継続していた。こうした中、サファヴィー朝との和平を模索するなど外交・軍事的に弱腰で冷静さを失っていたオスマン朝のスルタン、バヤジット2世に対する親衛軍イェニチェリなど軍内での不満が発生した。

 ここにいたり、バヤジットの王子の一人セリムが親衛隊を巻き込んでクーデターを起こし、バヤジットを退位させ(後に暗殺させた)自らがスルタンとなった。セリムは軍隊を送って、不満を持つアナトリアのシーア派系の住民を4万人以上も大虐殺し国内を恐怖で引き締めると、自らアナトリアに出陣して、サファビー朝領内に進撃した。セリムとイスマーイールはチャルディラーンの野で決戦し、サファヴィー朝は火器を多数装備したオスマン軍に敗れ、イスマーイールの不敗の神話は崩れた。サファヴィー朝はアナトリアへの影響力を失い、イランとメソポタミアをなんとか維持するのが精一杯となった。逆にオスマン朝はシリアとエジプトを支配していたマムルーク朝を占領し、直轄地とした。オスマン朝は、かつてのビザンツ帝国の領土をほぼ支配下に治め、ヨーロッパ征服へと進むことになる。 

 その後も両帝国は争いあったが、サファヴィー朝とオスマン朝の戦争は一進一退と言ったところであった。16世紀中はオスマン朝が圧倒的に優勢であったが、それでも敗戦に自暴自棄となり政務を放棄した上、若くして死亡したイスマーイールに変わりサファヴィー朝の第2代シャーとなったタフマースプ1世は粘り強く抵抗し、アルメニアやアゼルバイジャンのかなりの領土を奪われたものの和平を実現して、オスマン朝の進出を押さえることに成功した。逆に17世紀になるとサファヴィー朝の反撃が始まり、オスマン朝に奪われた領土を奪回し始めた。

 アルメニアは両大国の狭間にあった。主戦場の一つであった。

 サファヴィー朝の反撃が可能になったのは、有名なアッバース1世による改革のためであった。オスマン軍に対抗できる王直属の軍勢の確立(財源の確保も含む)がその最も重要な成果であったが、「王の奴隷」と呼ばれた、その軍勢には多数のグルジア人、アルメニア人が含まれていた。彼らは火縄銃を主兵器とした歩兵部隊であった。

 だがそれ以上にアルメニア人とサファヴィー朝の関係を深めたのが、ジョルファー市の破棄とその住民の強制移民である。反抗を開始したサファヴィー朝がアルメニアを占領した際、ジョルファー市周辺の住民をあわせて、アルメニア地方から30万人以上の人々が強制的に首都イスファハーンやカスピ海の沿岸地方、さらにはホラサーンなどイラン内陸部まで連行されたのである。セルジューク朝によるものに継ぐ、第2の大量離散(ディアスポラ)であった。アルメニア人連行の理由はサファヴィー朝領土内の辺境に位置するにも関わらず、当時交易により人口が増え、高い生産性を持つ地方の大都市に成長していたジョルファーがオスマン軍に占領された場合、ここを補給基地として利用されると防衛上大変な不利となるためであった。人口の空白地帯を国境に作りオスマン軍の侵攻を防ぎ、かつアルメニア人の商業ネットワークを国家が(正確には王自身が)管理しインドからヨーロッパに至る大陸を横断する交易網を再編して、辺境にではなく首都近郊やイラン本土に富が集めることで国家財政を安定させる意図がシャー・アッバース1世にはあったと思われる。事実その後、シャーはアルメニア人に交易上の特権・・・免税特権、資金の優先供与などを行い商業活動を保護した。またシャーはポルトガル勢力をイギリスの東インド会社と同盟してペルシア湾から駆逐すると、港湾都市バンダル・アッバースを整備し、インドとの地中海を結ぶ海上交易にも力を注ぐなどした。首都イスファハーンは繁栄し、50万もの人口を抱えるようになったが、その経済的基盤をアルメニア人が支えていたと言って良い。だがアルメニア人にははた迷惑な話でこの強制移民の途中で半数以上・・20万人近くが死亡したとも伝えられている。こうした移民で出来た首都の新地区は新ジョルファー(ノル・ジョルファー)と呼ばれ、イスファハーン最大の商業地区となって、アルメニア人交易網の拠点となった。

 アルメニア人の交易網は17世紀前半から、まさに世界中に張り巡らされ、主な拠点を列挙すればアジアではマニラ、バタヴィア、インドのカルカッタ、マドラス、カトマンズ。チベットのラサ、中国の西寧。ロシアではウクライナのリヴォフ、トルコ内ではイスタンブール、イズミル、アドリアノーブル、ブルサ、アレッポ。ヨーロッパではアムステルダムである。

 まさに商業都市と言われる港湾には必ずアルメニア人が存在して居たと言っていい。そしてこれらの拠点を結ぶネットワークの一環として多様な輸送手段の確保、低利の送金制度の確立などが形成された。17世紀はアルメニア商人の黄金時代であった。

 アルメニア商人はロシアとのキャビア交易など様々な商品を取り扱ったが、最大の取り扱い品目は絹であった。中国からの絹の西方への輸入は大元ウルスの崩壊とともに途絶え、以後イランのカスピ海南岸産とオスマン領土のブルサ産の生糸が流通するようになっていた。アルメニア人(正確には旧ジョルファーの大商人層)は16世紀後半から17世紀前半のサファビー朝とオスマン朝の戦争の中混乱していた両国間の生糸交易を再建し他の商人グループを出し抜いて、自身が構築したルートに乗せることに成功した。新ジョルファーへのアルメニア人の強制移住も確証はないがジョルファーの富裕な商人層がアッバース1世にそそのかして行わせた疑いがある。イランの生糸はアルメニア人が特権的に独占して輸出する商品となり、インドのグジャラート商人と連結して扱った東方産の綿織物と並んで新ジョルファーのアルメニア商人が全世界の商業拠点を統括する形で西方に流通させた。そのルートは養蚕の拠点であるギーラーンなどカスピ海沿岸を出てイスファハーンで生糸に加工し、バグダット経由でシリアのアレッポに至るルートとカスピ海からアゼルバイジャンのダブリーズで加工して、エルズルム、そしてアナトリアを横断してイズミルに至るルートがあった。前者は17世紀の後者が18世紀に栄えた。18世紀に入ってアナトリア西端のイズミルが最大市場となった理由はヨーロッパ市場の再編(主な需要先がイタリアからフランスのリヨンに移った)のためであったが、アルメニア人は抜け目なく対応したわけである。オスマン朝と西欧の交易上の接点となったアルメニア人は文化も伝え、パリにコーヒーハウスを造ったのはアルメニア人であったといわれる。またノル・ジョルファーでは商人のための養成学校まであり、為替計算から、商取引の慣行、地理、言語などが学ばれた。

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