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テルモピュライの戦い

 「テルモピュライの戦い」は、古代ペルシア帝国(ハカマーニシュ朝)と古代ギリシャの都市国家スパルタ(ラケダイモン)との間で行われた有名な戦闘です。

 スパルタ側はたった300名、ペルシャ軍は数万と言われる戦力差があり、スパルタ軍は全滅して戦いは幕を閉じます。古来西欧軍事史において、幻想と共に語られることの多い、この戦争をフランク・ミラーの劇画を元に映画化したのが「300(スリーハンドレッド)」で、アメリカでは、なかなかの興行収益を上げたようです。内容的には、英雄的なスパルタ兵との対比の関係で、ペルシア側が、残忍と野蛮さ、正々堂々とした戦い方をしない卑怯な存在として、描いているようで、その点を不快に思ったイランなどは非難声明を出していました。

 この戦いは、人気のあるテーマで、古くは「スパルタ総攻撃」なる日本語タイトルで公開されたハリウッド史劇がありました(なかなか良い出来の作品のようです)。
 また、このテーマを扱った小説「炎の門」を元に、ブルース・ウィルス主演で映画化されるという話しもありましたが、これは中止になったようです。

 とかく問題になるのは、古代ペルシア人に対する西欧の偏見で、ペルシア人は臆病で卑怯であるとか、専制的で自由がないという評価です。
 これは現代のイランに対する評価とほとんど変わっていない点に注意が必要です。
 ペルシア帝国がギリシャ征服に失敗した背景には、説明が難しい問題が残っており、現代の研究家はなぜ彼らが勝利したか、逆に言えば、何故ペルシアが敗北したか答えを出せないでいます。

 当時のペルシア軍は、戦術的な柔軟性とバランスのとれた構成を取っており、士気も決して低くありませんでした。
 有力な騎兵戦力を駆使すれば、単純な密集戦法しか出来なかったギリシャ歩兵に敗北する要素がありません。
 おそらく敗因はギリシャ側にあったのではなく、ペルシア側内部に何らかの事情が発生したためであろうとしか推測できないようです。
 決戦であったプラタイアの戦いは、史料を基に再構成してみると不自然なことばかりです(ペルシア側30万とも言われる兵力自体が疑わしい)。
 
 後代にアレクサンドロスが、ペルシア征服を成し遂げたのは大幅な軍事革新が、大王の父マケドニア王フィリッポスの元で行われたからです(旧来のギリシャ軍はマケドニア軍に手も足も出ませんでした)。

 その後の歴史を見れば明らかなように、ギリシャ人はペルシアに勝てたことで、自分たちの優秀性を過大に評価するようになりました。つまり勘違いをしてしまったようなのです。
 現代西欧人にも悪影響を与えている軍事的な幻想を持ち、愚かにも他者を公平に受け入れる余地をなくしてしまったのです。自信過剰であったのは、結局数世紀も経たずに、ずっと文化的に劣っていたマケドニアに征服されてしまったり、その後のガリア人の急襲に、右往左往したりしたことでも明らかでした。

 現代の軍隊は、特に西欧の軍隊は「正義」「高い士気」「正々堂々」と言ったキーワードで、飾られています。
 こうしたタームは、1980年代に、アメリカの軍事史家ヴィクター・ハンセンによって提言された「思想、技術、哲学、宗教的優位に基づく西欧的な軍事的優位、精神的高貴さ」を説く、「戦争の西欧的流儀」のイメージによって広められました。
 西欧優位主義の過去の集大成とも言うべき理論です。
 批判も勿論されており、私も実に唾棄すべき代物であると思いますが、21世紀の現代でも生命を保っているやっかいな代物なのです。
 いくつかのハリウッド映画はそれを体現していると批判されるのは、致し方ないでしょう。

 さて歴史上のテルモピュライ(英語ではBattle of Thermopylae、テルモピレーかな)は、紀元前480年の古代ギリシャで発生した戦いです。
 東方の大帝国であり、先進国であったハカマーニシュ朝ペルシア帝国の侵略を受けたギリシャ諸都市が、これに抵抗して勝利を収めた一連のペルシア戦争の一場面でした。

 「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモン人らに。ここに掟を守りて、我ら倒れ伏せし事を」

 これは「テルモピュライの戦い」を悼んで作られたシモニデスが草案し、碑文に刻まれた有名な文章です。

 強大なペルシア王クセルクセス(クシャヤールシャ)の軍勢(ヘロドトスの記述を信じれば戦闘員だけで200万を超えてしまう)を迎え撃つのは、決死の覚悟のスパルタ兵300名。
 アテナイ市を要するアッティカ地方への入り口であり、つまり要衝の地であるテルモピュライ(熱の門の意味。温泉が出るのである)を守り玉砕した彼らの事績は、何度も文章化、映像化されてきた。
 しかし、なぜこんな少数しか兵士がいなかったのでしょうか?
 
 それは、ペルシアの来襲が、ラケダイモン人の休戦の時期であるカルネイア祭と重なっていたためとされています。
 カルネイアの祭りの最中に軍勢を動かすと、カルネイ神(アポロンと同一視された土着の神)の呪いにより、その軍は壊滅の憂き目を見ると言われていたのです(実際壊滅するわけですが、この符号は後世の意図的なものかもしれません)。

 そのためスパルタ(ラケダイモン)人は普段、この時期に大軍を動かすことはないのです。
 またギリシャ全土でも、自然休戦の時期であるオリュンピアの大祭(オリンピックの事である)に重なっていたことの影響していました。

 おかげでアテナイなどギリシャ各国も大軍を動かそうとしなかったのです。

 ただ唯一スパルタ王レオニダスが決死の覚悟を決め、王直属の300名の兵士を伴って出陣ましした。王レオニダス自身が率いての、この行動を見て他の都市も従ってくれるだろうと期待してのことでした。

 王の果敢な行動のおかげで、幾つかの都市もようやく重い腰を上げて、テルモピュライに軍隊を派遣し始めました。
 しかし狭い峡谷であるテルモピュライなら、少数の軍でも大軍を支えられると楽観したギリシャ諸国は、全軍併せて5000名程度でしか派遣しなかったのです。
 しかし、この峡谷には地元民しか知らない裏道がありました。
 そのため、これを知ったペルシア軍に包囲され、諸軍は逃走するか降伏し、スパルタ王直属の軍隊のみが果敢に抵抗し、壊滅したのです。
 
 さらなる戦いの詳しい過程はウィキペディアを参考にして下さい。

 さてクシャルーシャサ王はペルシア戦争に敗退したあげく、後に暗殺されたため、愚王の如くギリシャ側の後の史料では描写されることが多いのですが、実際は帝国内部の混乱を治め、ペルシア帝国を発展させた名君と言っていい人物です。
 ギリシャはペルシアから見れば田舎であり、辺境の敵対的な勢力の一つでしかありませんでした。
 つまりペルシア戦争も辺境の一紛争でしかなかったのです。

 何百万も派遣したと言うのは勿論虚構で、実際には帝国全軍を投入した戦いではなかったと思われます。
 戦役全体では、両者の実戦力は、ほぼ互角か、総動員をしていたギリシャ側の方が上回っていた可能性が高いのです。
 当時ペルシア帝国最大の敵は北方の遊牧民であるスキタイ諸族であり、遠距離戦闘を重視した帝国の防衛組織も、彼らを考慮したものであったようです。
 ギリシャは自分たちの自負とは裏腹に、戦争好きの野蛮な困った人々とペルシア帝国支配層には思われていた事でしょう。
 
 ペルシア戦争は、いわば危険な辺境住民、蛮族に対する防衛的な戦争であったのです。

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