頑固猫の小さな書斎

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五胡十六国・南北朝時代 「北斉の恩倖2」

(3)高阿那肱(こうあなこう)

 善無の人。前者二人の父と違い、高阿那肱の父市貴は正史に独立した伝が立てられている。高阿那肱自身の伝を語る前に、まず彼の出世に大きく影響したと思われる、この父高市貴の略歴を書き連ねてみることにする。

 高市貴は親従と称される神武帝時代の功臣群の一人であった。北斉書高市貴伝によると、市貴は北魏末に爾朱栄の孝荘帝擁立に関与した武将として歴史に姿を表す。武奉元年(528年)のことである。それ以前の考昌年間初め、恒州において勅勒部の民衆が劉崙らに率いられ蜂起した際に、おそらく北族系の土豪であった高市貴は、自身の衆民を率いてこれを破り魏の宮廷から官職を授けられていたが、この際の名声が爾朱栄の目に留まったものであろうか。あるいは爾朱氏と同じ契胡種出身であったのかもしれない。市貴は爾朱栄の推挙によって衛将軍・光禄大夫・秀容大都督・領民第一酋長に除せられ、上洛県伯に封じられた。秀容は爾朱栄の本拠地であり、市貴がその大都督に任じられたことは、その信任が並大抵でなかったことを示すものであろう。以後も高市貴は軍人として活躍し続ける。斉帝を名乗り鄴を包囲していた葛栄の大軍を爾朱栄が、その背後をついて寡兵を持って敗走させ捕らえたときにも、市貴は前鋒都督に任ぜられ功績があり、葛栄の乱平定後に汾州刺史に除せられ、しばらくして晋州刺史になっている。

 このように爾朱氏配下の武将として順調な出世を見せていた高市貴の人生の転機となったのは、主君たる爾朱栄が孝荘帝によって謀殺され安定しかけていた政局が再び大混乱に陥ったときであった。孝荘帝の栄殺害に関与していた紇頭陵歩藩が晋陽を目指し并州に侵攻した際に、爾朱氏側によって、これを迎え撃つべく軍勢が派遣された。高市貴もこの軍に参画したが、これを率いていた総大将が後の神武帝高歓であったのである。高歓は紇頭陵歩藩を撃破し、高市貴もこの戦いで功績があり驃騎大将軍、儀同三伺に除せら常山郡公となっている。これ以後おそらく高市貴は実質的に高歓配下の武将として、その幕下に収まったものと思われる。

 高市貴は樊子鵠が反乱を起こしたときには大都督婁昭に従いこれを破り、この功績により高歓政権の下で今度は西兗州刺史となる。東西魏国の対立が激化し始める天平年間に晋州刺史に再び除せられると、要衝である洪洞の地に鎮して、これを守備した。天平四年に沙苑で東魏軍が大敗を喫したときには、混乱した情勢の中で謀反を起こした柴覧を破り、柴壁の地まで追撃してこれを切っている。また同じく動揺していた東雍州、南汾州で柴覧に同調して発生した賊も市貴が柴覧を平定したことで散逸し、平静を取り戻したと言う。さらにはかつて治めていた秀容の地で山胡が反乱したときにこれを鎮め、元象年間に起こった邙山の戦いでは、高歓に従って、宇文泰を敗北させるのに大いに功があったと言う。その最後は懐州の潘集の乱を平定するため出征した時で、道中で発病し、陣没した。戦塵の中で生き、戦塵の中で死んだ武人らしい生涯であった。并汾懐建東雍五州軍事、太尉公、朔州刺史を追贈された。

 なんとも立派な父親である。武勲数知れず、高歓の部下・・・と言うより同僚に近い。
 このような父を持った高阿那肱もまた武人として朝野に知られるようになった人物であった。

 高阿那肱は、若いころから父に名に恥じず近衛の庫典(あるいは庫直)として軍務に服し武勇を知られていた。そして文宣帝が即位し北斉朝が始まると庫直都督に任命され親軍の部隊長の一人になるまで出世していた。特に天保四年に文宣帝親率による契丹、柔然への遠征が行われた時に際立った活躍している。資治通鑑によると梁元帝承聖三年の記事に

「夏四月、柔然が斉の肆州へ入寇した。斉主自ら晋州から出撃し、恒州において柔然を敗走させた。帝は帰還すべく軍を返した。そして帝自身が二千余騎で殿軍となり、黄瓜堆に宿営した。すると、(機会を窺っていた)柔然の(菴羅辰可汗率いる)別部数万騎が襲撃してきた。帝は横になり休んでいたところであったが何事もなかったかのように起き上がると、顔色ひとつ変えず自若として形勢を見て軍に指図し、軍勢は奮い立って柔然軍を蹴散らして包囲網を瓦解させた。斉軍は、敗走した柔然を二十余里にわたって追討、可汗の妻子ら三万余を捕縛した。帝は、更に柔然に打撃を与えるべく、都督で善無の人高阿那肱へ数千騎を統率させ、敵の退路を塞ぐよう命じた。しかし柔然軍が勢力を立て直しているのを見て、高阿那肱は兵力不足を感じて、増援を請うた。だが斉帝は、逆にそれを半減させた。高阿那肱は死地へ陥ったが、故に奮戦し、柔然を大破した。菴羅辰可汗は、険しい峡谷を越え、一騎のみとなって逃亡した。六月、柔然は遠地へと去った」
 とある。
 
 高阿那肱はこの功績によって武名があがり、武成帝が即位したときに儀同三司、武衛将軍に除せられたのである。
しかし高阿那肱は武人としての才能以外にも、人の顔色を伺い、言葉巧みに取り入り好感を与えるすべにも長けていた。武成帝期に有力な側近となってきた和士開と交誼を深め、和士開の後押しもあって武成帝にもその言辞行動を目に留められ、厚遇を受けるようになっていった。ただし、その人に取り入る才能や文治政治の識見は和士開の下であるとの評価であった。また高阿那肱は将来の布石として、当時皇太子であった後主の元にも通い、寵遇を得るにいたった。河清年間には軍勢を率いて漠北に突厥を破り、武事に関して帝の信頼を得て、その功績によって宜君県伯に封じられた。また商売にも熱心で、隋書の記述によると県城の人通り盛んな場所の土地を搾取して、その土地に建物を作って商人に店貸して食邑千戸にも匹敵する富を得たと言う(ローマの富豪クラッススみたいやな・・・)。

 後主が即位すると、淮陰郡王に封じられ、和士開が殺された後には後主の最も信頼する武臣となり宰輔となっている。だが高阿那肱は皇帝の信頼を裏切ることになる。

 武帝率いる北周軍が北斉に侵攻し、各地の諸都市が陥落すると後主は前線から逃亡した。その時侍衛は散逃し皇帝の身辺も数十騎に減っており、高阿那肱もその中にいた。皇帝は高阿那肱に残兵を集めて周軍の偵察を命じた。数千騎を率いた高阿那肱は、そのまま周の尉遅廻将軍に投降した。この際、後主の情報を周軍に密告したがために、陳に亡命しようとしていた後主はとうとう捕まってしまったという。周に寝返った高阿那肱は武帝によって大将軍、隆州刺史に任じられた。しかし後に王謙の乱に同調したとして処刑された。

 人々は、昔文宣帝が常々「我が国を終に破るのは(当時強盛であった)蠕蠕(柔然)の阿那壊可汗であろうか」と憂れいて、毎年柔然を攻撃していた事を思い返し、後々斉を滅ぼしたのは「壊」ではなく「肱」であったと嘆いたのであった。

(4)韓鳳
 字は長鸞。昌黎の人。父の名前は永興と言い青州刺史にまで昇ったという。韓鳳は若いころから明察で、体格が良く騎射など武芸に通じており、そのために領軍府の都督に任じられた。この辺り若いころの履歴は高阿那肱とほぼ同じである。と言うのも彼も父親もまた親従として神武帝以来の功臣で高市貴とほぼ同じ立場の人間であったからである。韓鳳の父永興は諱を裔といい永興は字であるらしい。正史に列伝はなく、墓誌によって履歴が分かるのみである。それによると韓裔は昌黎郡賓屠の出身で、祖父は冠軍将軍、父は大司空にまで立身した武門の出であった。

 大司空となった韓裔の父とは高市貴と同じ巻に伝のある韓賢であるという。韓賢はもともと爾朱栄配下の将帥で神武帝高歓と爾朱氏との抗争のときに秘密裏に高歓と通じて功績があったといわれている人物である。北斉書の記述によると韓賢は字を普賢といい、広寧石門の人であると言う。初め葛栄に仕え、栄が破れると爾朱栄に見出されて、近侍するようになった。爾朱栄が殺された後は爾朱世隆の軍将の一人となり、建明年間(530~531年)の魏の長広王元曄(廃帝曄)の擁立と廃立、節閔帝の即位の謀議に関わったとされ、鎮遠将軍、屯騎校尉に除せられている。またこの間、爾朱世隆が建州と石城を攻めたときに世隆に従って軍功があったとされている。韓賢はその後爾朱度立の帳内都督となり、汾陽県伯に封じられ、食邑四百戸を与えられ、普泰初年(531年)に広州刺史となった。この広州刺史であったとき信都で神武帝高歓が爾朱氏に反旗を翻した。この際、度立は韓賢が寝返るのを恐れて彼を召しだすために使者を送ったが、主君の不信を感じ取ったのか、情勢不利と見て取ったのかこれに応じず、逆に高歓と誼を通じた。そのため爾朱氏が敗亡した後も韓賢はその官職を全て保った。その後、中軍将軍になるなど累進を重ね、天平元年(534年)には洛州刺史となった。そして韓賢が刺史として赴任してすぐ、彼の運命を決した州民韓木蘭の反乱が起こるのである。乱自体は容易く打ち破った韓賢であったが、その戦場跡を視察していたとき、こともあろうに死体になりすまして隠れていた名も知れぬ敵兵に不意を衝かれ、首を切られ絶命してしまうのである。韓賢は武将ではあったが穏健な性格で、貪欲とは遠い性格で、特に善政があったわけではないが、民衆を苦しませるような刺史ではなかったという。それなのにこのような悲運をたどったのは、韓賢が昔、漢の明帝の仏教伝説に由来する古刹である白馬寺を破壊したことがあり、それ故の仏罰であったと人は噂したと言う。侍中、持節定営安平四州諸軍事、中軍大将軍、尚書令、司空公、定州刺史を追贈された。汾陽県伯は息子韓裔が継いだ。・・・以上が韓賢列伝の概略である。

 韓裔はこの父の指示で(あるいは人質として)高歓に仕え、死力を尽くして働き、ついに冠軍将軍、中散大夫、帳中領民正都督、秦州武陽県伯に任じられた。北斉受禅後も高氏の武将として活躍し、天保(550年~559年)の頃に驃騎将軍、建州刺史となって、当時は山賊、水賊の横行していたらしい建州の統治を見事にこなして治安を安定させ、その功績によって高密郡開国公に封じられている。天統元年には驃騎大将軍・青州刺史に累進して、任地青州で天統三年(567年)の正月に死去したと言う。

 韓鳳は武成帝が後主の侍衛として二十人の勇士を集めた際に選ばれたことが、その出世の糸口であったが、単に武芸に優れていたから選ばれたわけではないと言うことであろう。

 その後の韓鳳は和士開や高阿那肱らと誼を通じ、後主政権の下で、特に和士開が死去した際に皇帝の使節として君臣間の取次の仕事を手際よくこなし、皇帝にとって便利な家臣として重用されるようになった。ただ韓鳳は北族武人の家柄からか、漢人官僚を極度に嫌い、逆に武人に対しては礼節をわきまえた行動を取ったという。父が同僚であったに違いない高阿那肱辺りとは特に仲がよかったのかもしれない。和士開死後は高阿那肱、穆提婆と「三貴」と称され、権勢並びなき存在として宮廷に君臨し、また利殖に際限がなかったということである。内宮の警備や密事を総攬し、息子と公主とを結婚させ、皇室の一員となるとますます勢威を増した。また晋陽に皇帝が出かけ不在のときに告発を受けて穆提婆とともに失脚することもあったが、皇帝が戻るとすぐに復権して地位は元通りになったという。北斉滅亡の後には周、隋に仕え、隴州刺史で終わった。

 こうしてみると恩倖として皇帝の近臣として内宮に出入りする者は神武帝以来の功臣あるいは寵臣で独自の軍事力はそれほど持たない自立性の薄い非漢人の中堅の武将や文臣の師弟から選ばれていたように思われる。この辺り鮮卑的色彩の濃くなった東魏~北斉朝の特徴があるように思える。前線の兵士を掌握する勲貴や地方との縁故の強い門閥漢人貴族のように機会があれば皇帝権力から離反する事を狙うような人々や、能力主義による登用システムが未完成で人材の汲み上げが不安定で層が薄くなり政治力が弱体になりやすい寒門士族。こうした周囲の人々を見渡したとき皇帝にとっては信頼に足る人々は彼らしかいなかったのであろうか。

 北斉末期に恩倖、宦官がはびこり出したのも、皇帝の孤立の現れであろう。

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