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五胡十六国・南北朝時代 「北斉の恩倖」

「北斉王国の恩倖」 文責 頑固猫<

 中国南北朝時代の末期に華北東部に政権を樹立した北斉王朝(550~577)は短期間に乱脈かつ暴虐な君主が続いて現れ、腐敗した政治が展開された時代として知られている。

 前王朝たる東魏王朝より受禅立朝を行ったのが、創始者たる顕祖文宣帝高洋である。父の遺業を継ぎ若くして即位した彼は優れた知性の持ち主であり、天才的な戦闘指揮官でもあった。その統治前半は全盛といって良く、帝王として能力にいささかも問題がなかったのである。ところが統治後半に置いて、おそらく精神疾患を発病し、殺人嗜好を露にした暴君として歴史上有名な人物なってしまったのである。

 だが少なくとも血を好むとは言え、錯乱する以前の文宣皇帝は統治者としては責任感のある人物であったし、政治的見識もあった。彼の短い統治期間中に北斉の基礎が固められたといっても良い。実際彼とその幕僚によって企画構想されていた諸制度は、後々の武成帝の時代に実行に移され、それはさらに後の隋唐王朝の統治体制に大きな影響を与えている。

 文宣帝の死後、その息子廃帝高殷が即位した。しかし、その統治は長く続かず、文宣の弟高演がクーデターを起こして奪権、皇帝の座に就いた。即ち孝昭帝である。彼は兄と違い精神的に安定しており、兄の統治末に引き起こした混乱をまとめる才器の持ち主であったが落馬事故で惜しまれつつも早世してしまった。

 少なくともこの二人の時代までは北斉は政治的に安定した時代であったといえる。

 だが孝昭帝の死後、即位した武成帝高湛が、軍事的政治的に優れた才能を有しながら怠惰に流され、責任放棄ともいえるような態度をとり始めたことによって、急速に政権が瓦解し始めるのである。
 そして、この武成帝の時代以後に蠢動した政治勢力として知られるのが恩倖と通称される人々である。

 恩倖とは即ち君主の側近として活動する類の人々のことであり、いつの時代でも存在する。ただ北斉の後期は特にその害がはなはだしかったとされている。

 甘言を弄し、政治を壟断し、また富を貪る利己的な行動により非難されるような奸臣が恩倖である。彼らが怠惰な皇帝の周囲を固め、多大な勢力を持ってしまったのが北斉末期であり、王朝衰亡の原因となったとして非難される程である。
 
 さて正史北斉書にはその最後に恩倖伝が立てられている。その中でも独立した伝を立てられたのは郭秀、和士開、穆堤婆、高阿那肱、韓凰の5人である。郭秀を除き全て武成帝と後主の時代にのさばった奸臣達であり、皇帝権力に結びついて国政に影響力を持った人々であった。

 本稿の目的は、こうした武成帝~北斉末の和士開、穆提婆、高阿那肱、韓鳳の4人の恩倖について簡単な略歴を示し、分かり易くまとめて読者の参考とすることにある。

(1)和士開(かしかい、あるいは、わしかい)

 字は彦通。清都臨漳の人であると言う。しかし実際には本姓を素和氏と言い、本籍が中華の地ではなく西方の商胡・・・つまりイラン・ソグト系の西方人であったといわれている。彼が皇室に近づくことが出来たのは、その父安が、おそらく商人として魏の宮廷で活動し、それが神武帝高歓の信頼を得て、その官僚となったためである。
 父は息子と違い実直な性格であったようだ。実直な性格と言うのは商人してはあまり成功しそうにないが、つまり商売人としては計算高くても官僚としては利を求めるようなことはしなかったと言うことか。あるいは契約を守り、命令に忠実で、熱意ある態度で職務を遂行するタイプであったということであろう。かつて東魏孝静帝が朝野の賢才を集めて夜間空の星を見物していたとき、和安に北斗七星の柄にあたる部分を指し示すように命じた。その時、安は「臣は北斗を知らない(ので答えられない)」と正直に告白し、恥じる事もなかったが、傲慢な態度も、また追従するような言動もなかったと言う。それが高歓の耳に入り、飾らない性格であることを認められたと伝は記述する。
 この逸話の信憑性はともかく、安はその後儀州刺史に抜擢されるほど、高歓に信任された。この話で重要なのは安の実直な性格そのものより、胡人である安がすでに東魏の宮廷で賢才の一人として認められていたことであろう。
 南北朝時代を通じてペルシアの工芸品や文化は中華において大変珍重されていた。実際当時はサーサーン朝ペルシア帝国の最盛期であり、貴金属や製鋼、鍛鉄などの金属加工技術などは中国は遠くペルシアに及ばず、宗教哲学においても、軍事技術においても後塵を喫していた。北朝を代表する重装騎兵の楔陣形を用いた両翼または中央突破戦術はペルシア由来のものであった。北魏が洛陽に遷都して以後は特に交易が盛んになり、魏が東西に分裂して以後も衰えることはなく、胡人は商人や技術者として有力な社会集団を形成していたと考えられている。

 さて、そのような父安の縁故によって、息子士開の人生は順調な滑り出しを見せる。和士開は小さなころから頭がよく、父の後押しもあったと思われるが、その才を見込まれて国士学生となり、そこでも優れた成績を残した。そして天保元年(550年)あるいは二年に当時長広王であった後の武成帝高湛の開府行参軍(参謀みたいなものである)に抜擢される。これが士開と武成帝との縁の始まりである。しかし困ったことに士開は軍事的な功績とか、政治的な識見によって高湛に認められたのではなかった。彼は握槊(すごろく、現在のバックギャモン)遊びが得意であることによって同じ趣味を持つ高湛により召されて開府行参軍となったのである。また士開は舌に巧みで口がうまく、胡人伝来の琵琶の演奏にも秀でており、享楽に目がない長広王高湛はますます彼を気に入り、君臣の域を超えて親密となった。「殿下は天人にあらざるなり是天帝なり」と士開が誉めそやすと、高湛も「卿は世人にあらざるなり是世神なり」と答えたと言う。このような二人の関係は周囲からもあまり好ましく思われなかった。危惧した高湛の兄文宣帝高洋は長広王を咎めて、和士開を遠く長城の守備部隊に転属させ引き離したのである。

 しかし文宣帝の死後、婁太后の後押しを受けた常山王高演が孝昭帝として即位した時、是に関与して功績のあった高湛は兄皇帝よって畿内大都督となり、帝国の軍事力を委託され勢威を再び得た。彼はすぐさま和士開を京畿士曹参軍として召し寄せ、そばに置いたのである。
 さらに孝昭帝が死に高湛が武成帝がとして即位すると、和士開は侍中となり右僕射と言う高位に昇進した。和士開への皇帝の信頼と友愛の情は厚く、高湛は高氏の諸皇族ほとんど全て共通のアルコール中毒であったが、和士開のみがこれを諫めて一時的にせよ飲酒をやめさせることが出来たと言う。
 だが恩寵に奢り、武成帝に政務を大臣(つまり和士開)に任せ、また太上皇となって皇帝の責務を息子に譲り享楽に耽るのを薦めるなど、統治者の側近として全く不適切な助言を行い、顰蹙を買った。決して無能ではなかった武成帝を堕落させ、自らが国政を握るなど、その利己的かつ権力志向の行動は悪臣と呼ばれても弁護の余地がない。
 それでも武成帝の恩寵は止まる事を知らず、やがて帝は病に倒れた時、その手を握って後事を託したとされている。
 
 後主高緯の時代になっても和士開の勢力は衰えなかった。前皇帝の委託があったこともあるが、後主の母たる胡太后との親密な関係によるとも言う。後主が武成帝の生前に即位できたのは前述のように和士開らの策謀によるものだが、この時胡太后との間に密約でもあったのではないかと思われる。後主時代の北斉はその滅亡にいたるまで和士開を中心とした穆提婆、高阿那肱、韓鳳らの他の恩倖たちの政治派閥、漢族土豪層(山東門閥貴族集団)、北族武人貴族層(いわゆる勲貴)、寒門出身官僚層などと間での複雑な対立関係が形成され、半ば内乱状態と化していた。和士開自身は、彼を快く思わない皇族の趙郡王高叡らの弾劾を退け、武平元年に淮陽王に封じられ高位を極める絶頂を迎えるが、武平二年(572年)瑯邪王高儼と領軍大将軍厙狄伏連らが軍事クーデターを起こし、その旗下の兵士によって襲撃され、ついに殺害された。数え年で48歳であったと言う。後主はこれを嘆き悲しみ、瑯邪王高儼らは誅殺された。和士開には功臣としての名誉の印たる黄鉞が贈られ、十州諸軍事、左宰相などを追贈された。息子の道盛は侍中を継ぎ、弟の士休も朝廷の密議に参画したと言う。

(2)穆提婆(ぼくていば)

 本姓は駱氏。漢陽の人。父駱超は謀反の罪を持って罪人となり、母陸令萱は宮婢として掖庭(宮廷奴隷を管轄する場所)に送られた。提婆も同時に籍没され宮奴身分に転落した。駱超については伝もはっきりせず、どのような立場の人間で反乱事件がどのようなものか良く分からない。穆提婆は、4人の恩倖の中で最も出自が明確でない人物で、列伝の記述も短い。穆提婆が権力との結びつきを強めたのは、母陸令萱の力によるところがほとんどであったことにもよるであろう。その母、宮奴の身となった陸令萱は野心的な人物で如何なる理由によってか不明だが、後主高緯の乳母に成り仰せ、またあらゆる手段を用いて後主の生母である胡太后に取り入ることに成功した。驚嘆する力量であるが陸令萱が過大な優遇を受けた背景には、北魏以来の胡族の名族「八家」に名を連ねる陸氏の出であった可能性もあるのではないだろうか。とすれば駱超もそれなりの地位にあったと考える必要がある。各史書を精読すれば、駱超や陸令萱の記事もあり、理由を見出せるかもしれないが、ここではこのまま結論は保留としておこう。

 ともかく、こうして陸令萱は胡太后の側近とも言える地位を獲得し、奴隷身分から開放されると、今度は息子の提婆を売り込み天統年間の初め頃に後主の側に侍らせることに成功する。後主と駱提婆は気が合ったようで、腹を割って話し合える親密な仲となり、その寵愛を獲得した。後主が即位すると、提婆は遂には尚書右僕射領軍大将軍と言う要職に任じられるほどになり、城陽郡王にも封じられ国政を左右するようになる。また母陸令萱も依然帝の寵愛厚く、後主の実母胡太后がスキャンダルにまみれ、それを忌諱した後主との間に齟齬が生じると、乳母として実母以上に敬愛を受けていたと思われる陸令萱は実質的な太后と成りおおせていたのであろう。後宮政治においては先見の明のあった陸令萱は、後主の寵愛厚く、後に幼主高恒を生む穆昭儀にも諂い、彼女の父の夫であったと言う形を取って、これを養女とした。穆氏は皇帝の長子たる幼主高恒を生んだことで当時の皇后であった斛律氏の怨嗟を受けたが陸令萱はこれを庇って、幼主を養い、その立太子を後押しした。これによりさらに穆氏と後主の信頼を得た陸令萱は養女となった縁から穆氏の姓を賜り、太姫の称号を授けられ、息子の駱提婆も以後穆氏を名乗った。穆提婆、陸太姫は和士開ら他の恩倖とも友誼を結び、近臣達との協調によって権力の維持に努め、皇帝の恩寵は終始変わることはなかった。母子は売官、賄賂にも熱心で、これによって富をむさぼり、贅を尽くした。当然穆提婆は女色酒色に溺れ、歌曲に耽溺した。政務など見向きもしなかった。
しかし北斉の運命極まり、突厥と同盟した北周軍が晋州の北斉主力軍を壊滅させ後主が逃亡したとき、陸令萱は自殺し、穆提婆は周軍に投降した。北周の武帝は彼を柱国、宜州刺史の高位につけたが、これは罠であり高氏族滅の機会を与えるためにわざと武力を持たさせられたのであろう。高氏が彼を頼り接触してくることを期待して動向を監視させられていたようである。そして経緯は不明だが後主を擁立して謀反を起こそうとしたとして逮捕投獄され誅殺された。一族も老若男女問わず族滅、棄市され、再び穆氏は籍没されたのである。 

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