頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
 
後継者戦争その1

ディアドコイ戦争その1

 アレクサンドロス大王の早すぎる死は、元来素朴な(あるいは獰猛な)マケドニア人将軍達の野心と欲望を喚起し、帝国を統治不能な状態に陥れた。
 つまりマケドニア貴族や将帥、兵士達による血で血を洗う連年の戦役が続く、悪夢のような四半世紀を世界にもたらしたのである。
 所謂ディアドコイ戦争の時代である。

 大王臨終の地であり帝国の実質的首都であったバビロンでは後継者を決める合議がもたれ、当然のごとくそれは紛糾した(バビロン会議、紀元前323年)。
 混乱の原因はアンティパトロスやアンティゴノスら前代からの帝国の重鎮たちが不在であり、誰もが認めるまとめ役がいなかった事にある。
 アレクサンドロス大王から玉璽を預けられ側近中の筆頭とみられていたヘタイロイ騎兵隊長ペルディッカスが中心となって、それなりの合意が形造られていったのであるが、彼は大王と同世代でまだ若く諸将を納得させる事は難しかった。
 しかしペルディッカスは無能な人物ではなく、内戦状態を回避できる力量の持ち主でもあった。それでも権威を確立するまで、当面は諸勢力の落としどころを探る事とが必要であった。

 まず最初に解決さればならないのは空白となった玉座についてであった。

 当時マケドニア王家であるアルゲアデス家で王位継承権があると見做されたのは以下の三人であった。

 大王の異母弟アリダイオス。
 大王と正妃ロクサーネの胎内にいる子(後のアレクサンドロス4世)。
 そして大王と元メムノンの妻バルシネーとの庶子とされるヘラクレスである。

 庶子のヘラクレスはネアルコス以外は支持する者がほとんどおらず、アリダイオスは知的にやや低い(あるいは精神障害があった)事が問題となった。ロクサーネの子は未だ生まれておらず男児か不明であり、またプトレマイオスなどペルシア人の血を引く人物が王位を継ぐ事を嫌う貴族達が懸念を表明していた。

 会議に参加した貴族・将軍らは二派に分かれていた。
 バビロンに居た大王と同世代の貴族の内、最上席のペルディッカスを中心に帝国の政治的統一を維持しようとする派閥。主にペルディッカスの弟アルタケス、セレウコス、エウメネスら騎兵指揮官らの意見である。
 もう一方は各総督の実質的分権体制を維持し、マケドニア貴族による合議体制を主張する派閥。主に大王の側近、護衛官出身者が多くプトレマイオス(後のエジプト王)を中心にレオンナトスやペイトンらが支持していた。

 しかし会議の最中にマケドニア精鋭歩兵部隊ペゼタイロイの兵士の暴動が発生し、アリダイオス支持を叫び始めた。
 彼らの指揮官メレアグロスが扇動したものと思われる。
 バビロンにいたアリダイオスが急遽会議の場に呼び出され、ペゼタイロイ達に争いをやめるよう説得したため暴動は治まったが、ペルディッカスも歩兵達の意見を無視出来なくなった。そこに同じく騎兵隊長で大王の書記であったエウメネスがメレアグロスとの仲裁に入り、メレアグロスがペルディッカスとの共同摂政となる事で妥協が成立した。また玉座に関してはアリダイオス(フィリッポス3世に改名)の即位を認め、ロクサーネの子が男子だった場合は、その子を共同統治者とする体制で一応の同意を得た。諸将は基本的に現在在任中の総督の地位を認められる事で当面はペルディッカス主導の体制を是認した。
 ちなみにパルティアは北のヒュルカニアと合併され、プラタペルネスがそのまま在任する事となった。

 しかしペルディッカスは会議を台無しにしかけたメレアグロスを許すつもりはさらさらなかった。
 ペルディッカスは会議の終了した翌日に素早く行動した。暴動を起こした歩兵指揮官たち300名を儀礼中の不意を衝いて捕縛、処刑し彼らの政治的地位を奪い去ったのである。メレアグロスは逃亡したが、その後行方不明となった。捕らえられて幽閉されたとも、殺害されたとも言われている。

 会議に不参加であった大王の父以来の功臣でありマケドニア本国総督アンティパトロスは、主導権を奪われたことに不服であったがヨーロッパにおける支配権を与えられる事で一応は矛を収めた。
 さらに娘をクテアロスとペルディッカスに嫁がせて関係を強化し、その統治を認めたのである。
 また帝国軍人に絶大な信頼を受けていたクラテロスは大王崩御時はアンティパトロスとマケドニアの摂政位を交替するため多数の帰還兵と共に移動中でありバビロンに居なかった。バビロン会議で彼に与えられたのは帝国全体の「守護者」と言う曖昧な地位であった。
 この様に有力者すべてが参加した結果の合意ではなかったため、バビロン会議の合意内容には不満が渦巻きマケドニア人の帝国は依然として緊張に包まれていた。

 また諸将軍中、過去に粛正されたパルメニオンと並んでフィリッポス時代からの生え抜きの軍人としての力量が知られていたフリュギアのアンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)は、若いペルディッカスに従うことにアンティパトロス以上に不満であった。しかし王家には表だって逆らえず地位を安堵されることで妥協せざるを得なかった。彼は事態の推移を見守り、小アジアの地から全く動こうとしなかった。
 このようにフィリッポス2世時代の功臣はペルディッカスにより巧妙に権力中枢から排除されるか懐柔されていった。しかしペルディッカスに完全に服従した訳ではなかった。
 ペルディッカスの権力は薄氷の上の玉座に過ぎず、大王の死の直後の状況から偶然に主導権を手に入れ、王家を保護しているという点で優位があるだけであった。

 こうして出来上がったバビロン体制はペルディッカス、クラテロス、アンティパトロスの三頭政治体制であったと言える。 しかしながら、新体制はすぐに機能不全となってしまう。帝国の安定支配の道筋は見えてこなかった。
 まずマケドニア本国ではギリシャ諸都市の反乱(ラミア戦争)が勃発し、アンティパトロスはラミア市で包囲され帝国の支配どころか自分命も危ない状況に陥ってしまう。アンティパトロスは援軍の要望を各地に送らねばならなくなってマケドニア王国によるギリシャ支配は深刻な危機にを迎えた。
 またバクトリアでも大規模な反乱が起こり、ペルディッカスはこちらにも対応を迫られた。
 相次ぐ反乱や動向の読めない諸総督などに危機感を持ったペルディッカスは専権体制の必要性を痛感した。彼自身の保身と野心、そして理想が後継者戦争のきっかけとなるのである。

 摂政ペルディッカスはバビロン会議体制の枠組みを維持する一方で、帝国の統一を強化するため諸総督への締め付けを強化し影響力を維持する事を目論んだ。
 特に会議で敵対したプトレマイオスはエジプト太守と言う要職を与えたが、同時に前エジプト太守クレオメネスを副官として同行させて牽制させた。
 メディア総督ペイトンについても同様で、メディア地方は南北に分割され領域を削減された。北メディアはペルディッカスの義父に当たるアトロパテスに与えられ、南メディアがペイトンの管轄となった。またバクトリアでは大王の死直後から非マケドニア系のギリシャ人たち23000名が故国への帰還を拒否された事から反乱を起こしていた。総督フィリッポスは騒動を収めることが出来なかったようであり、在地豪族に見放されたようだ。ペルディッカスはこの鎮圧にペイトンを向かわせたのである。ペイトンは反乱を抑えることに成功したが、ペルディッカスが反乱者の皆殺しを命じたにもかかわらず、主要な反乱部隊3000名に止め、残りのギリシャ人たちに恩赦を与えた。これはペイトン自身の東方支配の布石とするためであった。
 アンティゴノスには、ヘレスポントス太守レオンナトスと共同で未征服地であった小アジア東方のパフラゴニアとカッパドキア征服の命令が下され、その地をペルディッカスの腹心エウメネスに引き渡すことが決定された。

 ディアドコイ前期の名将として名高いエウメネスは、マケドニア人ではなくカルディア市出身のギリシャ人であった。
 マケドニア人ではない彼がディアドコイの主要なプレイヤーの一人として活動できた背景は判然としてない。20歳頃にフィリッポス2世に見出されて書記官として仕え、なおかつ騎兵指揮官となったからには余程の軍事的功績があったに違いない。だが彼の事績について史料は沈黙を守っている。少なくともペルディッカスは彼の軍事的才能を相当高く買っていたと思われる。自身が率いる場合を除いて、ペルディッカス軍の総司令官的な立場に常にあったからである。軍事的な才能においては、確かにアレクサンドロス大王を除いてエウメネスに匹敵したのはアンティゴノスだけであったろう。

 ペルディッカスの下した命令はアンティゴノスを激怒させた。両地域をペルディッカスの腹心であるエウメネスが支配するようになれば、このエウメネスの新勢力によってアンティゴノスのフリュギアは東方との連絡線を絶たれることになる。つまりペルディッカスやエウメネスの機嫌を損ねれば、忽ち困窮してしまう立場となるのである。
 しかし、この地域は在地の豪族であったと思われるアリアラテスと言う人物が数万の兵力を抱えて割拠しており、アンティゴノスも単独では討伐など不可能であった。
 そこでペルディッカスはレオンナトスに2万余の兵力を与えて、この地の掃討を命じたのである。しかしレオンナトスは突如ヘレスポントスの所領に到着すると転進し、マケドニア本国にアンティパトロス救援に赴くことを告げ、エウメネスにも同行しないかと誘ったのである。この絶好の機会にレオンナトスは救援と言いながらエピロス王の未亡人で大王の妹であったクレオパトラと結婚し、アンティパトロスに取って代わりマケドニア王たらんとしていたのである。このレオンナトスの反逆行為は基盤となる軍事力を得るために大王の母オリュンピアスが使嗾したものであった。
 このレオンナトスの野心を看取したエウメネスは同行を拒否し、またアンティゴノスが全く動こうとせず命令無視の態度で臨んだため戦闘の継続は不可能と判断した。エウメネスはレオンナトスの変心とカッパドキア遠征が中断された事をバビロン政府に報告すべく帰還した。
 マケドニアに遠征したレオンナトスは包囲されていたアンティパトロスの救出には成功したが、テッサリアでの戦闘で敢え無く落命してしまい彼の野望は実現しなかった。残兵はアンティパトロスの軍に編入され、後継者に引き継がれていく。またクテアロスが増援を連れて参戦し、クランノンの戦いでアテナイのアンティフィロス率いるギリシャ軍を撃破したことでアンティパトロスの危機は回避されることとなった。
 アンティパトロスは外交手腕に優れている事で知られていたが、今回も反乱の主体となったアテナイと他ポリスとの分断を巧みに図り、ギリシャに新秩序を打ち立てることに成功した。クラテロスも義父アンティパトロスの顔を立て軍権を譲り、ギリシャ本土での内戦の危機は一旦は収束した。
 
 一方のペルディッカスは帝国の秩序より目先の利益を優先し、思いのままにならないマケドニア貴族や将軍たちに対する不信をさらに募らせていった。彼は他の総督達が危惧したように武力によって独裁権を確立する以外に帝国の未来はないと考えたようである。
 そこでまず自身兵を率いてカッパドキアに遠征を実施する。
 大軍によって一挙に豪族アリアラテス軍を撃破してこの地を制圧すると、1年程かけてバビロン政府の統治システムに組み入れ勢力を安定させた。そしてこの地に予定通り腹心のエウメネスを置き、アンティゴノスを滅ぼすつもりであった。
 遠征を成功させバビロンに帰還したペルディッカスはアンティゴノスの勢力を排除するべく、彼を帝都に召還した。
 もし軍事的な反抗を見せるようならば大軍を送り込み一挙に殲滅するつもりであったであろうし、出頭してくれば地位と兵士を奪ったことであろう。
 しかし結果はどちらにもならなかった。
 ペルディッカス側の失政によって事態が急転したからである。それは国王フィリッポス3世の結婚問題への対応の失敗であった。
 大王の異母姉キュナネは地位の保全の一環として娘のエウリュディケをフィリッポス3世の妻に迎えさせようと活動していた。しかし野心的なこの母娘の影響力を懸念したペルディッカスは、この結婚に反対し弟アルケタスを使者として送り思い止まるよう説得させた。こうしてアジア側に渡ってきたキュナネを出迎えたアルケタスは大失態を犯してしまう。話し合いが難航しキュナネとの口論にまで発展したあげく、激高したアルケタスは彼女を殺害してしまったのである。
 この大王の姉の殺害と言う大事件にマケドニアは震撼し、王族を単純に憧憬していた兵士達の怒りが爆発し反乱が発生した。事態はアルケタスには収拾できない状態に陥り、ペルディッカスに非難が集中した。
 兵士の信頼を失ったペルディッカスはエウリュディケとフィリッポス3世の結婚は認め、各地を奔走して鎮静化に努めた。しかし王家に責任を持つはずの摂政である彼が王族を害してしまった今回の結果は、摂政位の権威と正統性を大きく減じる事となった。
 そしてこれを契機として沈黙していたアンティゴノスが反撃に移るのである。

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