頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
 
 
 
「甘露の変」
 
 唐文宗皇帝、姓名は李昴、は唐帝国晩期の皇帝の一人で、政治的な実権を宦官(性器を喪失した宮廷奴隷)に握られた傀儡皇帝、宮廷内で鬱々と過ごした無気力な皇帝として語られる事が多い。
 文宗は809年に生まれ、826年に17歳で即位、840年に31歳と言う若さで病没している。つまり青年皇帝、いや少年皇帝であった訳である。
 一般には、その即位は有力な宦官であった王守澄によって後援された結果であると言われている。また当時の官僚達も貴族とも言うべき門閥が確固として存在しており、党派間抗争(所謂、牛李の党争)も激しい不安定な時代であった。宮殿の外に出れば、各地に軍閥が割拠しており、ウイグルやチベット方面では、首都長安に侵攻すべく外敵が虎視眈々と機会を伺っていた。少年皇帝は即位した時点から、有力者達の圧力の下で難しい政権運営を余儀なくされていたのである。
 特に宦官たちへの評価は厳しい。
 唐末は、東漢末、明末と並び宦官が跋扈した時代であった。文宗の前代においても激しい権力抗争が行われ、宦官劉克明が敬宗を謀殺するという事件が発生したのである。その後の絳王擁立を画策した際、梁守謙らと謀って劉克明を殺害、文宗を擁立したのが王守澄であった。しかし王守澄は旧唐書では唐中興の祖と言われた憲宗皇帝の暗殺と穆宗の擁立(元和十五年、820年)に陳弘慶(旧唐書では陳弘慶)とともに関わったと噂された人物でもある。複雑怪奇な当時の朝廷の暗闘が伺える。最もこの時期、王は宦官としては高位であったとは言えないため史実であったかどうかは議論の余地がある。暗殺の首謀者説、首謀者ではないが実行犯説、無関係であったとする説があるようだ。つまり後世の記録の改竄がなされた可能性があるのである。

 憲宗皇帝死後の唐王朝は有力宦官に擁立された穆宗、敬宗の二人の皇帝は、いずれも無気力で、宦官に政権を壟断させる結果となった。宦官に擁立されたとは言え、文宗は傀儡でいるつもりは全くなかった。若き皇帝は、この状況を改善し皇帝権力の絶対化を夢想したのである。その夢を実現させるべく文宗が立案した政策は、主に朝廷における政策立案、協議の場である朝議等のシステムに手を加えて監察体制を確立し、皇帝自身による積極的な政策立案への関与を再確立すると言うものであった。

 だが王守澄は文宗擁立後、驃騎大将軍、右神策軍中尉となり権勢を振い、文宗を悩ませた。文宗は宰相に抜擢した翰林学士、宋申錫に宦官排斥の密命を与えたが、事は露見し、宋は太和五年(833年)大逆罪で誣告されて開州司馬に左遷、宮廷を去った。この際に数百名にも及ぶ人々が連座して処刑されたと言われ、宋はそのため同年噴死したと言う。この事件は文宗の指導力、政治的な技量のなさを露呈した事件であった。
 宦官排斥のために権限を与えておきながら、太逆罪で誣告された時にこれを庇うことすらできず唯々諾々と宋申錫を見捨てているからである。しかし24歳の若すぎる皇帝にとって、これが限界であったのかもしれない。
 宋申錫死後、文宗は作戦を変えて宦官同士を競わせることでパワーバランスを保ち、皇帝権力を強化しようともくろんだ。その際に表舞台に躍り出てきたのが後の権臣となる仇士良である。文宗はまず王守澄の引きで立身し実力者にのし上がった李訓と鄭注を味方の引き込み、王排斥の協力者とすると、二人の進言で、文宗擁立の際の協力者でありながら才覚を警戒されて王守澄によって遠ざけられ日陰の身に甘んじていた仇士良(781~843)を用いる事にしたのである。
 文宗は、彼を左神策軍中尉兼左衛功徳使に抜擢、王を牽制させる事を決定した。
 仇士良は後の「甘露の変」の立役者となる人物であるため奸臣の権化の如く語られているが、決して無能な人物ではなかった事に留意する必要がある。彼は循州興寧(広東省興寧東北)の人で、字は匡美。順宗の時に東宮に入り、憲宗時代に内給事となり、その後平廬、風翔の監軍として赴任する。御史の元稹と宿舎の上席を争って元稹を傷つけると言う事件があったが、憲宗は逆に元稹に非があるとして排斥するなど皇帝の信任が厚かった。
 
 太和九年(835年)王守澄が仇士良との権力争いに敗れて失権、自殺する。
 それを受けて李訓は今度は仇士良以下の宦官勢力を一挙に排斥しようと陰謀を巡らすことになる。
 李訓は宮内にある一本の石榴の木に甘露が降りたという風聞を流し、それを仇士良に確かめるように皇帝から命令を出させ、現れた仇士良らを伏兵を持って暗殺する計画を建てた。仇士良はしかし石榴の木に近づくと一陣の風が舞い、その周辺に巡らされた幕の後ろに兵士たちがいる事に気付いた。危険を察知した彼はすぐさま逃亡、親衛軍の軍権を握る右神策軍中尉の魚弘志と大盈庫使の宋守義と合流すると文宗を拉致し、信頼のおける軍隊の下に逃亡した。
 これが有名な「甘露の変」である。
 危機を脱した仇士良は、徹底的な粛清を行う。李訓とその一党を反逆を企てたとして一族郎党含めて族滅し、官僚勢力は人員の半数を失ったという。また自身は右驍衛大将軍に、魚弘志は右衛上将軍兼中尉、宋守義は右領軍衛上将軍として側近を高位に昇らせ、地位を固めたのである。また李徳裕ら宦官と融和的な官僚と結び、政権運営における発言力はかつてない程大きくなった。
 さて文宗は事件後、発言力を大いに失い、以後鬱々として楽しまなくなったとされる。しかし実際には文宗は政治に意欲を失っておらず、宦官の抑制や皇帝権力の再確立に向けて、制度面での改革を実行していくことになる。彼の努力は後の武宗、宣宗時代に実を結び、皇帝権力の復権に繋がっていく。またそれは宋の時代に確立される統治制度へと発展し、中華皇帝の新たな姿を生みだすことになった。
 文宗は英雄肌の名君とは到底言い難い人物であった。
 制度改革に意欲的ではあったが、優柔不断な性格であり、人事や諸勢力の圧力に毅然とした態度を一貫してとる事が出来なかった。新たに考案された制度は優れたものであったが、皇帝個人への負担も増大し、それに対処する部分が未成熟であったために、武宗の様に決断力のある、または宣宗の様に人事に巧みな皇帝でなければ運用する事は難しかった。文宗は知性も教養もあり、真面目で勤勉であったが、押しに弱く公平な態度、判断をその場その場で執る事が出来なかったのである。
 文帝は無能な愚帝ではなかった。安史の乱以前で、あれば名君として名を残したかもしれない。
 しかし弱体化し、乱世の足音近づく王朝の運営者としては不適格であった。

Copyright 1999-2009 by Gankoneko, All rights reserved.
inserted by FC2 system