頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
 
 

 
 
 
   
ジョチウルス史9「大乱の時代」
 
 チンギス汗の長子ジュチの子らが築いた部族連合は、金帳汗国、ジュチウルス、キプチャク汗国等と呼ばれ、100年以上もの長きに亘り、中央ユーラシアの超大国として君臨しました。
 その中心地はヴォルガ河流域にあり、汗はサライ近郊の幕営に鎮座し、四方に覇を唱えました。
 しかし14世紀半ばには、さしもの強大なサライ政権も弱体化の傾向を示し始めます。
 それには、いくつかの要因がありました。

 一つ目は黒死病の流行による支配領域における人口減。
 1346年にはクリミア半島のカッファを包囲していた汗国軍中に流行したのが初めであったといいます。
 クリミヤ半島だけでも85000年人以上が死んだと言われており、さらに連年流行は続き、帝国全体の経済力や人民の疲弊は積み重なっていきました。
 ジャーニー・ベグ汗のアゼルバイジャーン侵攻戦が、緒戦で大勝し、敵将たるスルドゥス部の長マリク・アシュラーフを捕縛・殺害したにもかかわらず、撤退を余儀なくされたのも、本国での黒死病の蔓延が原因と言われています。
 最も黒死病渦は全世界的なものであったので、弱体化はジュチウルスのみに限った訳ではありませんでした。しかしながら、長期の疫病の蔓延はウルスの人材の枯渇を招き、その回復が遊牧国家故に遅れたことはあり得る話でしょう。
 
 二番目の理由は、各地に新たなる強敵が出現した事です。
 つまり西方にポーランドとリトアニア、南方にはクリミア半島に勢力を扶植してきたジュノヴァや宿敵たる同族のイル汗国、そして次第に力を増してきた近接する北西のモスクワ公国です。
 
 ピャスト朝ポーランドのカジミェシュ三世ヴィエルキは、ウクライナのハールィチ(ガーリチ)・ヴォルィーニ大公国に侵攻し1349年にはベルス、ブレスチョフ、ウラジミール・ボルインスク等を占領、サライ政権のロシア諸公への支配権を脅かしました。
 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はかつてはモンゴル支配に対抗する気概を見せた大国でしたが、大軍を派遣してきたモンゴルに軍事的に屈服し、さらに後継者が絶え、貴族による集団指導体制となっていました。しかし結局それもうまくいかず、諸外国からの侵略と分割支配を招くこととなったのです。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を巡っては、リトアニアも領土的野心を顕わにしてポーランドと対立していましたが、やがて二国は和解し、大公国を分割する事で合意するに至ります。
 
 イル汗国はガザン汗以降に強大となり、アゼルバイジャーンの支配権を巡って何度も軍勢が衝突していました。イル汗国軍は総兵力十数万程と推測されています。イル汗は、諸記録から一つの戦線に五万余りの騎馬兵力を戦場に送り込む事が出来たようです。この兵数が、汗が前線に自由に送り込むことができた数の限界であったと考えられています。一方のジュチウルスは総兵力は遙かに多い(推定では20万程)とされていますが、イル汗国ほど国内の統制はとれておらず、一度に戦場に投入できる騎馬の軍勢は多く見積もっても10万を越えたとは考えらません(傭兵や徴用された二線級の兵士は別です)。
 実際はイル汗国軍を圧倒できる兵力を投入することは不可能であったと思われます。
 アゼルバイジャンからの脅威に対抗するため、サライ政権は大兵力を常に動員できる体制を維持しなければなりませんでした。そのため他の地域に投入できる兵数は少なくなり、周辺諸国における汗の権威は低下していきました。

 また黒海に勢力を持っていたジェノヴァ共和国は、カッファを中心にクリミア半島の諸利権や海上交易の富を求めて活動していました。サライの汗とは時に協力し、時に敵対する関係でした。利害対立は次第に顕著となり、軍事衝突に発展することもしばしばであり、汗の意のままになる存在ではありませんでした。

 最大の脅威は西方の強国リトアニア大公国でした。
 この時代リトアニアは、汗国に対して正面から挑戦して圧迫を加え得る唯一の大国となっていました。リトアニア大公アルギルダスは、1362年にはモンゴル軍を撃退して(青川の戦い)、その勢力を南に後退させています。これはリトアニアの覇権の確立に大いに寄与しました。ロシアをモンゴルから救ったのは、実はアルギルダスであると評してもおかしくない功績でした。
 
 汗国衰退の三番目のそして最大の理由は、王国の激しい内紛にありました。
 ジャーニーベグ汗が部下に暗殺された後(1357年5月)の混乱で、25人以上の汗が乱立すると言う大乱の時代を迎えたのです。
 当然、汗の権威は大いに傷つきました。

 さらに王国凋落が決定的となったのは、有力アミールであったママイが反乱を起こし独立、ヴォルガ以西がサライの支配権を離れた事でした。加えてジュチ・ウルス東半でも、サライの汗の支配から自立して独自の汗が擁立され、ホラズムでも独立政権(スーフィー朝)が誕生していました。


  バトゥとその後継者が、ジョチ家の総領として一族内でも外部からも認められていた事は諸文献から確認できます。それはバトゥが紆余曲折はあったものの、征西の大成功を指導した事に依るでしょう。以後ベルケやノカイの介入はあったものの、ジュチ・ウルスはバトゥの末裔によって統率される事が共通の認識となったのです。

 さらにバトゥ・ウルスは、トクタ汗の時代にノガイ支配下となっていた右翼の、ウズベグ汗からジャニー・ベグ汗の時代にオルダの王統が絶えた左翼の支配権を吸収、ジュチ・ウルス全体の政治的統一を達成し、バトゥ家の皇子による分割支配体制を確立しました。

 最も、バトゥ家以外のジュチの子孫たちの地位が相対的に低下し、有力家系による地域支配が次第に顕著になっていくと言う弊害はありました。そしてバトゥ家の王統が絶えた時、ウルス全体を治めうる存在がいなくなってしまったのです。

 汗国最盛期の君主ウズベク汗が死亡した後、地位を継承したのはウズベク汗が生前に後継者としていたティーニー・ベク汗でした。ジュジャニーによれば、彼はウズベク汗が亡くなった時(1342年3月頃)、チャガタイ・ウルスへの遠征途中であったとされ、サライに残っていた弟のジャーニー・ベグとヒドル・ベグが共謀して軍中で即位し帰還したティーニー・ベク汗を捕らえて殺害したと言われています。
 兄を殺害して即位したジャーニー・ベグ汗はなかなかの名君でした。
 台頭してきた様々な脅威に、可能な限りの手を打ったと言えます。しかし強権的な手法が嫌われて部族間の対立や自立を進行させたとも言われています。彼はサライ政権の強化を達成する以前に、部下に暗殺されてしまいます。

 1357年に即位したジャーニー・ベグの子ベルティベグ汗は余り人望がなかったのか、その地位は安定しませんでした。
 そのため側近のトゥルバイの言を受けて、地位を脅かす一族を殺害し、政権の権威確立を短期間に達成しようと考えました。
 その際に多くの遊牧民は離散し、弟?クルパ汗に1359年(1360年または61年まで生きていたとする解釈もあるようです)に暗殺されてしまいます。
 彼を後援していたのは、側近トゥルバイだけであったようです。
 娘婿にあたるキヤト氏族のママイすらヴォルガ河西岸に逃亡し、自立のために勢力を固める動きにでました。
 
 一方同じキヤト氏のテンギス・ブカは、部族民やジョチ家の人々を無理やり連れて、シル河流域に退去し、旧オルダ・ウルスを支配下に置きます。
 テンギス・ブカはジョチ家の皇子たちに強制的に労働をさせ、その権威を奪い、自分の覇権を確立しようとしたと言われています。
 またベルティべグ汗を継いだのは、クルパ汗とナウルーズ汗でしたが、彼らも1年とたたず殺されてしまいます。

 ベルティベグ汗暗殺後の、サライ政権継承者達を解る範囲で並べてみると。

 ・クルパ汗(1358/59〜1359/60?)…おそらくジャニーベグ汗の子。兄ベルティベグ汗を暗殺?
 ・ナウルーズ汗(1358/59〜1359/60?)…おそらくジャーニーベグ汗の子。タイトグリが擁立あるいは結婚した?。クルパを追放・殺害して即位したのか。ヒズル汗が彼を殺害したと思われる。
 ・バザルチ汗(1359/60?)…ジュチの子タングトの末裔?ボアルの子孫であるとする説もある。タイトグリが擁立した。
 ・ケルティベグ汗(1360〜1362?)…ジャーニーベグ汗の養子?。ウズベグ汗の子?タイトクリが擁立?
 
 彼らはジュチのいずれかの子の末裔であると推測され、その擁立の背景にはウズベグ汗の妃であるタイトグリが関連していたと言われています。

 ナウルーズ汗の死後(死因は不明。ヒズルに謀殺されたとも)、タイトグリと同盟したシバン家のヒズル汗が登位しますが、タイトグリとの関係が悪化し追放されます。
 タイトグリはバトゥ裔ではないバザルチ汗を新たに擁立しますが、ヒズル汗はホラズムのコンギラト部のスーフィー朝の援助を得て復位し、バザルチ汗を殺害しました。
 タイトグリは、またケルティベグ汗を立てますが、その後彼女も捕まり、遂に処刑されよ言われています(史実ははっきりしませんが)。

 新たにサライ政権の長に収まったシバン家は、ベルティベグ時代のテンギス・ブカの強制連行を逃れ、本拠たるウラル河の牧地を夏営地として確保して独自の勢力を保持していました(冬営地はアラル海北岸)。その実力故に新たな汗として人々に迎えられたのでしょう。しかし彼ら自身の内部対立も深刻で、誰か一族を指導するかを巡ってすぐに内戦状態となったようです。

 ヒズル汗(1358〜1359/60?)…ジュチの子シバンの三男カダクの子トラ・ブカの子マングタイの子とされる。タイトグリの要請で、シバン家の勢力を代表してサライに入城し即位しました。
 テムル・ホージャ汗(1359/60?)…ヒズルの子。父殺し、顔の黒き汗と呼ばれたと。

 ヒズル汗は、どうやら息子テムル・ホージャ汗によって殺害されたようです。
 この混乱を見て、クリム地方に勢力を持ち、サライから逃亡してクリミア半島で力を蓄えていた実力者ママイによる蜂起が発生します。ママイはサライの汗テムル・ホージャと真っ向から対立する事を決意し、準備を整えるとサライに侵攻したのです。テムルは破れて殺害され、ママイはバトゥ裔と思われる傀儡汗アブド・アッラーフ(1361〜1369年)をサライの汗として擁立します。
 サライの汗の座を巡っては、他のジュチの子孫達も隙あらばサライを占領し覇を唱えようと虎視眈々と狙っていました。
 一方、サライのアミール達はテムルの子また兄弟であるムラートを汗とします。彼はアミール達の援助の下でサライを奪取し、ママイをヴォルガの西に退却させます。
 同じ頃シル河流域では左翼の実力者であったキヤト氏族の長テンギス・ブカがトカ・テムルの子孫らのクーデターによって殺害され、トカ・テムルの裔カラ・ノガイが汗に登位しました。三年の統治の後に弟のトグリ・テムルが継ぎ、さらに経緯は不明ですが一族のオロス汗(左翼汗1369〜1378年)が即位しました。その後、彼らトカ・テムルの末裔達は、サライ政権に介入するようになります。

ママイ蜂起以後のサライの汗で主な者を時代順に書いていくと…。

 ・オルド・メリク汗(1361)…ジョチの十三男トカ・テムル裔。トカ・テムルの子バヤンの孫イル・トタルの子。テムル・ホージャとママイの対立に介入?

 ・ムラート汗(1361〜1363?)…テムル・ホージャ汗の子または兄弟?サライの貴族達に擁立された?

 ・ハイル・プラト汗(1363年)…??

 ・アブド・アッラーフ汗…ママイによるサライ占領(1363年?)のため。

 ・アズィース(1364〜1367年)…シバン裔。シバンの子サイルカンの末裔。ママイからサライを奪還した?。

 ・アブド・アッラーフ汗…ママイによるサライ占領(1367年)

 ・プラド・テムル(1367年)…ブルガール地方の有力アミールであったと言われている。ママイの独立のほぼ同時気にサライ政権から離脱したと言う。
 ・ジャーニーベグ二世(1367年)…???
 ・ハサン(1369/70年?)…シバン裔。ミン・テムルの子ベクカンディーの子?。
 ・トゥールーンベグ・ハトゥン(1371/1372年)…???

 二年程の空白期。詳細???
 ママイによる占領?

 ・チェルケス汗(1374/75?)…ヴォルガ河河口域のハジ・タルハンの領主。ウズベグ汗の子?。ママイを破り、サライを占領する。左翼のオロス汗がこの隙を突いてハジ・タルハンに軍勢を送って包囲。オロス汗は都市の占領を企図したが、チェルケス汗は軍勢を送り込んで退却させたと言う。
 
 ・エルベグ(1374/75?)…シバン裔。ミン・テムルの子。ウラル河下流部東岸サライチュクの領主。チェルケス汗がオロス汗と戦っている時に、サライに侵入して、これを占領した。
 
 ・カーンベグ(1375/1376年?)…シバン裔。エルベグの子。オロス汗がサライに侵攻してきたため逃走。しかしサライチュクで戦力を集めて、再びサライに戻り、オロス汗を追放した。しかし、その後再びサライチュクに戻った?
 
 ・ジャーニーベグ三世(1375/1376年?)…???
 
 ・アラブ・シャー(1377年?)…シバン裔。ミンク・テムルの子プラドの子。カーンベグの後継者としてサライを統治?。1377年のオロス汗の再侵攻に破れ、ママイの元へ亡命?。ママイの領土を通り、ルーシに侵攻し略奪している。後にシバン家の下に帰還する。トクタミシュ汗と同盟して、後に左翼の支配を委ねられた。

 ・オロス汗(1369年〜1378年)…ジュチの子トカ・テムル裔。カーザーク(カザフ)の祖。ティムールと戦い戦死する。

 となります。抜けと混同があるかもしれませんが…。
 ともかく10年で25名(全員の名は分かりません)の汗の交代があったと言われ、サライ政権は混乱の渦に巻き込まれたのです。
 勢力としては、バトゥ家の傍流、シバン家、トカ・テムル家、ママイが擁立するバトゥ?の末裔がサライを巡って争い続けました。

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