頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
 
 
 
ジョチウルス史5~オルダとバトゥの継承~

 

  ジョチの母、ボルテ・フジンはオンギラト族の出身であった。オンギラトはオイラトと並んで、モンゴル帝国内では、王族に対する婚家として栄え、大いに権勢を振るうことになるが、ジョチ家でもオンギラト家は外戚として常に政権の中枢にあった。有名なところでは一時バトゥ家を牛耳ったノガイ汗と対立したオンギラト家のサルジタイ・グルカン・キュルゲン(1301または1302年没)がよく知られている。彼の妻はトルイ汗の孫娘(第三子クトクトの娘カルミシュ・アガ)であり、自分の娘ウルジャイ・ハトゥンをキプチャク汗トクタに嫁がせ、政権内で権力を振るった。このようにオンギラトは、チンギス朝では外戚として特別な待遇と地位、権力を得ていたのである。ジョチの妻も、オンギラトの者がいる訳だが、その他の妻ともジョチは多数の子供たちをもうけた。その数40名と伝えられる。
 数多くいたと思われるジョチの妻で、名を知られたものは少ない。日本語で一般に読める資料(つまり研究論文以外)を読んでみた限り、本によって、かなり差違があって混乱しているようだ。
 
史書ムイッズ・アンサーブには正室としては、

 (1)ソルカク・ハトン。オンギラト部出身でジョチのハトンの最上位。長子オルダ、エセンの母。
 (2)同じオンギラト出身で、ボルテ・フジンの兄弟アルチ・ノヤン(ダルカ・グルカン)の娘であるウキ・フジン・ハトゥン。彼女が第二子バトゥの母である。
 (3)第3子ベルケやベルケチャル、ボラの母はスルターン・ハトゥン。出身はエミン部族。
 (4)集史でジョチの妻たちの中で筆頭の地位にあるとされるケレイト族出身のべクトミシュ・ハトゥン。
 彼女の父は、ケレイト王で、チンギス汗の主家筋でもあったオン汗の弟ケレイテイ(タングト語名はジャア・ガンボ)の娘であった。彼女の姉妹がチンギス汗に嫁いだアビカ・ベキ、トルイに嫁いだソルコクタニ・ベキ(モンケ、フレグ、クビライ、アリク・ブケの母)である。彼女がバトゥ(あるいはオルダ)の母親とする文献もある。ケレイト王族は、モンゴル高原で最も由緒ある高貴な家柄であると考えられていたため、彼女の地位は高く、後に大きな役割を果たすことになる。
 (5)カサル。シバンとチラウクンの母親。
 (6)クトクタイ・ハトン。ケレイト部出身でタングトの母親。
 (7)カダス。シンクルとセングムの母親。
 さらに側室として、ボアルの母カラチン・ハトン、トカ・テムルの母メルキト部のクイ・ハトン。そして名を知られない多数の妻達がいた。


 次にジョチの子として名を知られている子供達を集史に従って列挙すると・・・。
 長子オルダ・エジェン、次子サイン汗バトゥ、第三子ベルケ、第四子ベルケチェル、第五子シバン、第六子タングト、第七子ボアル、第八子チラウクン、第九子シンクル、第十子チンバイ、第十一子ムハンマド、第十二子ウドゥル、第十三子トカ・テムル、第十四子セングムとなる。さらに「ムイッズ・アルアンサーブ」には18子の名があがっており、エセン、ボラ、フゲチ、アルカンの名が見える。この四人の内ボラは集史におけるムハンマドと同一人物である。またフゲチは後代のバトゥ・ウルス当主モンケ・テムルの弟ウゲチの事であると言う説がある。

 さてジョチを継いだバトゥは主な史料で次男として記述している。ではなぜ彼が長子オルダを差し置いて、後継者となったのか?
 「チンギス・ナーメ」では同腹の兄弟(実際は異腹)であった二人は当初、後継者の座をめぐり緊張状態となったが、チンギス汗がバトゥを後継者に指名したため争うことなく問題は解決されたと記されている。また別の資料ではジョチが亡くなると、チンギスは弟のテムゲ・オッチギンを(イルテリシュ上流域の)ジョチの本営に送った。バトゥは一族を率いて出迎え、オッチギンの口からバトゥを後継者に指名したチンギス汗の言葉を伝えられたと言う。3日後に即位の式が行われ、大宴会(トイと呼ばれるもので、どちらかと言うと政治的な集会)が催された。何日も続く宴会の最中、チンギス汗の訃報が届いた。あるいは、ジョチの病死後、チンギスの命でバトゥ自身が、チンギス汗の元に赴き、そこでチンギスから後継者の使命を受けたとも言われる。

  「バトゥよ。汗の位を継ぎ、父ジョチの行こうとした場所へ、赴くがよい」

 この時、チンギス汗がバトゥに残したと伝えられる、この言葉を彼は実現していくことになる。

 長子オルダが、後継者に選ばればれなかったのは、彼が病弱で、あるいは戦傷などで軍指揮官として率先して行動できない理由があったと考える説もある。そうであればチンギスから疎んじられたことも納得できるし、バトゥが、ジョチ家代表としてクリルタイに出かけたのも、オルダの健康に不安があったと考えることが出来る。だが彼は父ジョチの本来の領域(ウルス)と牧民をほぼ受け継ぎ、その管理を滞りなく行っており、知的能力の問題とは考えられない。オルダはグユク選出のクりルタイにはジョチ家の代表として出席している。となると障害があったようにも思われない。結局のところ財産は相続したが、一族全体の総領としての地位は、軍事的な才能が勝っていると見なされたか、何らかの理由で帝国の有力者(オンギラト族などボルテの縁者の後援?)の支持をバトゥが得たか、あるいは単に所領の地理的関係からか、バトゥに任されたと思われる。モンゴル帝国においては、領土、領民は汗個人の所有物ではなく、一族全体で管理するものであると言う概念が、特に初期において顕著であったと言う。つまり視点を変えれば、オルダは別段バトゥに何も譲っていないとも考えられる。父の財産を、息子達が分割して相続するのはモンゴルにとって当たり前で、父の本拠を支配し、その軍隊の半数を得ているのであれば、彼が不当な扱いを受けたと考えること自体がおかしいのではないだろうか。バトゥが西征の指揮官を任されたからといって、ジョチ一族の独裁者となったわけではないし、そもそも西征が失敗する可能性も大いにあったはずで、そのリスクを考えてジョチ家の長老たるオルダが一歩下がった可能性もある。また西征が決定したクリルタイでは南宋に対する遠征も同時に企画実行されたが、この指揮官に選ばれたのは、ウゲデイ家の第三子たるクチュである。彼は有力な後継者候補ではあったが、あくまでウゲデイの息子の一人であった。この人事とバトゥの人事はシンクロする。クチュが南征に成功すれば、その名声はバトゥを上回ったであろうし、ウゲデイが期待したのもそれであったはずである。だがウゲデイが彼を正式に後継者として指名したわけではない。
 あるいはオルダは、実は長子ではなく第4(オルダの別名エジェンは第4子に多い名だと言う)、あるいは14子、末子であったとする説もある。モンゴルにおいては家財は、末子が継ぐものとされているからである。しかし、あくまでこれも仮説に過ぎない。

 さてジョチは父チンギスから4つの千戸、つまり四千名の部隊を受け取った。その後の征服活動の中で、多数の部民がジョチの軍隊に加えられたが、そうした部民達の中からジョチは生前に成年に達した息子達に、父チンギスに習って分民を行い独自の軍隊を整えてやったと思われる。「世界征服者の歴史」にオルダ、バトゥ、ベルケ、タングトなど年長の王子達は、すでに独立し自身の直属軍を持っていたと記述されている。ただしジョチ直属の四千名の部隊は、そのまま死の直前までジョチの元にあったようである。
 ジョチ直属の4つの千戸は、シジウト部(千戸長はモンケウル・ノヤン)とゲネゲト部(ゲネゲテイ・クタン・ノヤン)、フーシン部(フーシダイ)、同じくフーシン部のバイク(出身はアルラト部)である。
 この内、ジョチの死後バトゥがシジウト部とバイクのフーシン部を、オルダがゲネゲト部とフーシダイのフーシン部を継承した。

 その後バトゥは、1229年、チンギス汗死後の後継者をめぐる大会議(クリルタイ)に出席した。紛糾していた後継者問題は、この会議で、チンギスの第3子ウゲデイ罕の即位が決まり、一応の安定を見る。
 後継最有力のトルイではなく、ウゲデイが即位した背景にはチンギスの次子チャガタイや末弟テムゲ・オッチギンの策謀によるものであると考えられる。強力すぎる指導者を望まない親族らとの対決を、トルイは避けたのであろう。おそらく帝国の継続こそ重要と判断し兄に位を譲り、次の世代において自分自身、あるいは一族の覇権を得ようと考えたのかもしれない。あるいは何らかの密約があったのか。ただ史実では、次の世代のトルイ家は、もはや譲らないことになる訳であるから、決して納得のいく継承ではなかったのだろう。
 
 一方、この一連の帝位継承問題の場でのバトゥの発言力は、なきに等しかったと思われる。父ジョチが生きていれば、おそらくトルイを支持したか、あるいは自分自身の皇位継承を意図したかもしれないが、若輩のバトゥの政治的な影響力は微々たるものであった。まずはジョチ家の安定と、今後の発展こそ重要であった。
 ウゲデイ政権下のモンゴル帝国は、帝国維持のためにも、そして新政権の権威確立のためにも再び拡大のための軍事行動行うことが求められた。ウゲデイ(とチャガタイやオッチギンなど首脳部)はまず金帝国の覆滅併合を行うことに決めた。チンギス時代に敗れて、領土を失ったものの兵力から見て、まだ五分以上の戦いができる実力を金は持っていた。また広大かつ不安定な征服地を短期間に抱えたため、モンゴル軍は西征前のチンギス時代の様に全兵力を一箇所に集中できるような状況にはなかった。金攻略に差し向けられた軍勢はトルイに分与されたモンゴル軍を主力とした8万から多くても10万程度の兵力でしかなかった。

 作戦はウゲデイ自身がオトリとなって敵主力を引きつけ、右翼のトルイ軍が敵側面に回りこみ、オッチギン以下の左翼軍は開封方面に農民を追いやるようにするため東北地方を席巻し、難民を作りだした。また状況を見て投入される予備軍ともされた。モンゴル本土にはチャガタイが留守を預かり、もし仮にウゲデイが戦死した場合に、帝国をまとめ再編すべく待機していた。まともに戦うのはつまりトルイのみであった。トルイはチンギスの元、常に前線で戦いを指揮し、十分経験を積み優れた将軍となっていた。トルイ軍は実質の戦闘員は1万5千名ほどであったと言う。にもかかわらず10万近い金主力を遂に撃破、消滅させた。あふれる難民のため金は食料不足に陥り、兵士達もまた飢え、冬季の戦いに耐えられなくなったためであった。トルイ軍も困窮の度合いは、さして変わらなかったが、金軍よりもモンゴル兵は寒気に強く、また将軍として峻烈かつ公正なトルイは、軍の士気を保つことに成功していたのである。この時点で金は実質滅亡した。

 1234年、クリルタイを催したウゲデイは、その会議の中で、南宋と西方キプチャク草原への遠征計画を立ち上げた。
南宋を帝国全体の(つまりウゲデイ家の)家領とし、その経済基盤を確立するための遠征であり、キプチャク遠征は本土たるモンゴル高原西方の安全確保が主目的であった。つまりチンギス汗の悲願であった全草原、遊牧民の統一、言いかえれば同じ基盤に立ったライバル出現の根を絶つためであった。1235年に出立し、1236年に開始された南宋制圧戦は大失敗であった。拠点都市をいくつも失い、後の南宋制圧を20年以上遅らせる結果となった。原因は、主将クチュの急死であった。クチュはウゲデイの第3子で後継者と期待されていた人物であった。不自然なクチュの死の真相は全く不明である。暗殺と思われるが、証拠はない。その後の後継者争いを思えば、彼の死は帝国全体として、大きな損失であった。これに対して、同年に始められた西方遠征は大成功を納めたのである。



Copyright 1999-2009 by Gankoneko, All rights reserved.
inserted by FC2 system