頑固猫の小さな書斎

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ジョチウルス史4~チンギスの西征とジョチの死~

 ホラズム・シャー・ムハンマドは決して無能な人物ではなかった。父テキシュ死後、諸部族の対立を抑え、外征を積極的に行うことで結束を図ろうと考え、それにある程度成功していた。カンクリ族と古くからのトゥルクマーン諸部族との対立、トゥルクマーン諸部族間の対立など政権を支える軍事力は不安要素が多く、いつクーデター、内戦の危機を迎えてもおかしくない状況で、ムハンマドは常に微妙な舵取りを強いられつつ政権を何とか維持していたのである。このように自身の権力を強化したいムハンマドに対して、テキシュの時代に特権的地位を授けられていたカンクリ族のアミール達は、母后テルケン・ハトゥンの元に集まり、ムハンマドの政権運営を製肘しつづけた。ムハンマドは、腹背に常に敵を抱えていた。結局、自分の地位を確固とするためには征服戦争を行い、富を集め、時間をかけ、自分に忠実な軍勢を育成するしかなかった。だがカンクリ族の人脈は、すでに完全にホラズム軍の主要部を握り、対立する勢力も決してムハンマドに絶対の忠誠を誓っていなかった。ムハンマドもカンクリの血を引いていたからである。ある意味、カンクリ族に譲歩しすぎた父テキシュの失政でもあった。
 ムハンマドの治世は、攻め寄せてきたグール朝を迎え撃つことに始まった。1205年、アンドホドの会戦でグール軍を打ち破ったムハンマドは、グール朝領に逆に侵攻した。グール朝は最後の王シハーヴ・アッディーン・ムハンマドが1206年に後継者を残さず死亡したため、各地のアミールが割拠する状態となっていた。1206年、バルフとヘラートを占領し、その後も断続的に侵攻を繰り返し、最終的にそのアフガニスタンの領土をすべて奪取することになった。またグール朝に亡命していた兄アリー・シャーをグール朝の王座に就けると偽って、使者を近づけさせ暗殺に成功するなど謀略も駆使し、ムハンマドは政治家としては、精力的で知謀に富んでいたとも言える。
 カスピ海周辺の遊牧民へ遠征を行い、これに圧力をかけて後方の不安を取り除くと、ムハンマドの目は東に向かった。かつての宗主国であったカラ・キタイの領土である。ムハンマドは、カラ・キタイの束縛を逃れたいと考えていたサマルカンドのスルターンでカラ・ハン朝の血を引くスルターン・オスマンの援助要請を受けていたのである。ムハンマドは娘カン・スルターンをオスマーンに与え、援助を約束した。1208年に遂にカラ・キタイへ軍を進めたムハンマドであったが、緒戦は大敗を喫し、不覚にもカラ・キタイ軍の捕虜となったと言われる。しかし、幸運にもカラキタイの軍兵は、ムハンマドとは気づかず、部下の機転で隙を見て脱出することができた。再起を期したムハンマドは、ナイマン族のクチュルク汗と同盟を結んで、1210年に再び軍を侵攻させ、この時はタラスの戦いでカラ・キタイ将軍ターヤンクーを戦死させるなど大勝利を得た。オトラルを占領し、サマルカンドなど主要都市に代官を置くと、ムハンマドはホラズムに帰還した。しかしサマルカンドのスルターン・オスマンは、結局ホラズムの代官にも不満を持ち、反乱を企て市内のホラズム軍を虐殺した。激怒したムハンマドは直ちに討伐軍を送り、オスマーン・スルタンを捕らえて殺害した(1212年)。当初は、これを生かすつもりであったムハンマドであった。オスマーンの妻となっていた王女カン・スルターンが夫に侮辱的な扱いを受けていたため、これを殺害するよう父に求めたのである。この未亡人カン・スルターンは後にジョチの妻の一人に加えら子を何人かなしたと言われる。
 征服したサマルカンドを含むスィフィーン河とジャイフーン河に挟まれた地域、いわゆるマーワラーアンナフルを、ムハンマドは以後直轄地とし、首都をグルガンジュからサマルカンドに移した。1215年には、ムハンマドはガズナ地方に侵攻し、アフガニスタンのグール朝を完全に滅ぼした(生き残ったグール朝のアミール達は、拠点をインド・パンジャーブ地方ラーホール、後にデリーに移した。これを奴隷王朝またはデリー・サルタナットと言う)。この時、ガズナの王城の書庫から、バグダットのハリーファ・ナースィルからの書簡が発見されたと言う。それはグール朝とバグダット政権との同盟と、グール軍によるホラズム・シャー攻撃を促すものであった。ハリーファは、衰亡し、イラク南部のみをかろうじて勢力圏とするまでに落ちぶれたアッバース朝の復権を夢見ていた。諸国家を争わせ、漁夫の利を得て、少しでも勢力を増そうと常に画策していたのである。イスラームの正統を継ぐものとしてアッバース家の宗教的権威は、まだムスリムに影響力を持っていた。これを利用した外交とわずかな手兵のみが彼の武器なのであった。
 これに対して、かつてのセルジューク朝のように、ハリーファの名の元に全ムスリムに号令することがホラズム・シャーの野望であった。ホラズムの代官が運営する施政府をバクダットに置こうとする、ムハンマドの要求に対して、ハリーファは自分を傀儡にしようとする、その要求を拒否した。グール朝への煽動と、今回の態度にムハンマドは方針の変更を決意した。大軍を率いてバグダットを攻め落とし、アッバース朝を滅ぼし、シーア派のサイイドを新たに傀儡ハリーファとして、直接バグダットに、つまり全イスラームに君臨する準備をし始めたのである。準備を整え、1217年にムハンマドはバグダット遠征を実行した。ところが豪雪に阻まれて大きな被害(3万以上が未帰還と推測される)を受け撤退するという失態を演じてしまう。おそらくムハンマドに最も忠実だったと思われる、この軍勢を失ったことはホラズム・シャー朝にとって計り知れない打撃を与えたと思われる。人々はハリーファをないがしろにした天罰だと噂したと言う。ムハンマドの威信は大きく傷ついたが、遠征を通じてファールスのサルグル朝を屈服させ、イル・ドゥグゥズ朝のウズベグ旗下の軍を大破して、これらを属国とすることには成功し、勢力を拡大させた。
 しかし、ムハンマドの幸運はここまでであった。さして強国のいなかった、これまでの状況は変わりつつあった。強大な武力を持つ、東方の新興国モンゴル帝国の存在をムハンマドは意識せざるを得なくなったからである。

 

 この時点でムハンマドは、すでにチンギス汗に使者を送っていた。使節団の長バハー・アッディーン・ラーズィーは1215年、モンゴルの占領下にあった中都の惨状を観察し、チンギス汗とも会見した。会見自体は通商上の取り決めを行い、友好関係を形式上確認しただけであったが、使節団の面々は、おそらく攻城戦にも長け、規律に優れたモンゴル軍の実力を目の当たりにしたものと思われる。さらに1216年に、キプチャク族に対する攻撃に出陣したムハンマドの軍勢は、メルキト族の残党を追撃してきたモンゴル軍と遭遇した。ホラズム軍は、生き残っていたメルキトの兵士から近くに、モンゴル軍が滞在していることを知ったようである。情報を集め、モンゴル軍はそれほど大規模ではなく、数的に優勢である(ホラズム軍は歩騎合わせて6万余にもなったと言う。モンゴル軍は2万を超えたとは思われない)ことを確認したムハンマドは、これを追って会戦する決意を固めた。このモンゴル軍はジョチとスベエデイ率いる軍勢であった。逃亡するメルキトのクルトガン王子らを打破、捕獲し、帰還しようとしていた矢先のことであった。ホラズム軍の接近を知ったジョチは、まず使者を派遣し、戦利品の一部を贈り、平和裏に撤退することとした。しかし自己の今までの成功に対する自信と自軍の現在の優勢を確信していたムハンマドは、この提案を拒否して戦列を整え始めたのであった。ジョチは、仕方なく戦闘を決断した。会戦は日没まで続いた。緒戦は、モンゴル軍がホラズム軍の左翼を突き崩し、ムハンマド自身が包囲されかけ、速い段階で決着がつくかに見えた。しかし右翼を指揮していたホラズム王子ジャラールの奮戦と援護で持ちなおし、その日は決着はつかなかった。ジョチは自軍が少なく、損害が多くなれば、いずれ敗北につながること。主目的であったメルキト討滅の任務はすでに果たしたこと。この事件がきっかけになって、ホラズムと本格的な戦争に発展するような事態は、この段階では時期尚早であると判断したこと・・・などから撤退を決意した。モンゴル軍は野営の火を残したまま、夜間に戦場を去っていった。明朝からの再戦の準備をしていたホラズム軍が、モンゴル軍の撤退に気付いたときには、二日以上の行程を離されており、追撃は不可能であった。数的な劣勢をものともせず、ホラズム軍を同等以上か圧倒しかけたことや困難な夜間の撤退をなんなく実行したことなど、ムハンマドはモンゴル軍が高い戦闘能力を持った組織であることを知ることとなった。歴史家バルトリドは、この事件が、後々のモンゴル軍に対するムハンマドの消極的な作戦・・・野戦を回避し、篭城策を取った・・・につながったのではと推測している。1218年に、今度はチンギス汗からの外交使節がブハラ市に到着した。これと会見したムハンマドは、チンギス汗に父に対する礼を求められたのであった。つまり臣属せよとの通告であった。無論、ムハンマドはこれを拒否したが、モンゴルの動静により注意を払う必要を認めたのであった。諸将の意見を求め、戦闘の準備をムハンマドは命令した。こうした中、オトラル事件は発生したのである。チンギス汗の送って来た詰問の使者を、ムハンマドは殺害、あるいは髭を剃り落とすなどの侮辱を与えて帰した。ホラズム・シャーは宣戦布告を行ったのである。

 

 モンゴルの軍事行動は1219年9月に開始された。その西征軍は、カルルクやウイグルの援軍を含めて総数およそ12~15万。最初の目標は事件のあった都市オトラル。この町はマーワラーアンナフルの東からの入り口に鎮する非常に重要な都市であった。ホラズム軍は、野戦を挑む様子もなく、たやすくモンゴル軍はオトラル郊外に、軍勢を進める事ができた。オトラルを包囲し、チンギス汗は、その軍団を4つに分けた。オトラル包囲攻撃のために、チャガタイ、オゴデイ両王子の率いる部隊を残し、シルダリヤ(スィフーン)上流部にもう一軍を差し向け、自身は王子トルイとともに、一部の商人にしか知られていなかった通商路を進撃して古都ブハラへの奇襲攻撃に向かった。そしてジョチは、シルダリア下流の諸都市攻略のために一軍を与えられた。
 ムハンマドが消極策を取った理由は、大軍を集めると、その軍中で権力に固執する母の命で反乱が起きることを警戒したという説、戦利品を得られない防衛戦争にカンクリ族を含め、遊牧諸将が軍勢を出すことを拒否したという説、モンゴル軍の恒久支配はなく、あくまで略奪戦争であると判断し、軍兵を温存したと言う説などがある。軍議でジャラール王子が主張した通り、どう見ても全軍を持っての野戦での決着が最良であるのに、それをしなかったのは、やはり何らかの不安要因があったのは、間違いない。それは後に、大軍を集めても、すぐに内輪揉めを起こして解体してしまうホラズム軍の団結力のなさがムハンマドには見えていたことに起因するのだろう。同じ部族を集めた、数万規模の軍団が単独で拠点を防御する以外に、戦術的選択肢なかったのではないか。大軍を集めても、内部での対立で敵に寝返るものが続出する光景が、ムハンマドの脳裏に浮かんだのではないかと思われる。

 

 敵に襲撃される心配のないジョチ率いる軍団は、スィフーン(シルダリア)河に沿って進軍し、まずサウランの街を降伏させると、スィグナーク城攻略を目指した。この軍中にジョチの参謀として付き従った人物にハサン・ハーッジーと呼ばれる人物がいた。元朝秘史ではアサン・サルタクタイと呼ばれている人物と同一人物とも言われる。ちなみにサルタクタイはサンスクリット語で隊商を意味するサールタを語源とする言葉で、商人を意味していた。ジュワイニーに拠れば、彼はいわゆるバルジュト(オン汗との戦いで敗れたテムジンを見捨てず付き従った人々。バルジュナ湖畔の功臣)の一人であったと言う。オングト部族との交易を行っていたイラン系ムスリム商人で、そうした活動を通じてテムジンと知遇を得たと思われる。バルジュナに敗走したテムジンを救援すべく資財を持ってオングトの地から駆けつけたともいわれる。あるいはオングト部族のチンギス汗への服属にも関係していたのかもしれない。つまりはチンギス汗の初期からの側近の一人であった。ジョチは、スィグナーク攻撃前に降伏勧告の使者として、このハサンを派遣した。おそらくスィグナーク支配層の中に予め、内応工作がなされていたと思われる。しかしハサンは聖戦を叫ぶ人々に無残にも殺害され、無血開城は実現しなかった。都市の下層民が、スーフィー指導者などに煽動され、反抗を決意したからであろうか。抵抗は1週間続くが、反抗に立ち上がった市民はともかく、おそらく軍人たちの士気が低かったためだろう、昼夜交替で激しく攻めたてる中、遂に隙をついて城壁に取り付いたジョチ配下の部隊が突入に成功し、スィグナークは陥落した。反抗した市民が多数殺害され、市内は略奪され、ジョチはハサンの子息をスィグナークの代官とした。その後、バルキリグゲント、ウズゲントなどが無血開城し、それらの都市の略奪は行われなかった。だが抵抗を受けたアシェナスは徹底的に破壊され、多くの血を見ることになった。部隊の再編と休養の後、ジョチはさらに下流の街ジェンドを目指した。しかしジェンドのホラムズの指揮官クトゥルグ汗は、すでにグルガンジュへ逃亡していたため、街を守る兵士も撤退した後であった。ジョチは使者を派遣した。使者に選ばれたオングト部のチーン・ティムールは街の無血開城を約束したが、一部の市民がこれを非難し、ティムールを追い返した。しかしジョチの使者は、スィグナークの例を出して何とか市民を説得して、抵抗が無意味であることを納得させた。チーン・ティムールを信じて、降伏はするが、軍勢を近づけないよう約束をした市民は油断していた。ジャンド近郊にモンゴル軍は姿をあらわし、城門は開かれなかったものの、防御する兵士もまばらな城壁を、モンゴル兵は抵抗を受けることなくよじ登り、市内に降り立った。街は占領された。市民側は開城の条件として、市民の命の保証と、モンゴル軍の大軍を駐留させないことを約束していたではないかとなじったが、後の祭りであった。しかしジョチは以外にも約束を守った。彼は城外に市民を追いだすと、後の徴税のため、その数を確認し、9日間放置し、その間、無人の市内の略奪を部下に許したが、その後はモンゴル軍は市内から出て、市民の帰還を許したのである。モンゴル軍は一部の有力者以外は人々を殺さず、「市内」には駐留はしなかった。城外に天幕を張り軍を駐留させたのである。そして次の軍事行動の準備を行い、やがて去っていった。またジョチは1000騎を、アラル海方面に派遣し、ヤンギカントの街を占領させた。ヤンギカントはスィグナークの運命をすでに知っていたため、抵抗することなくモンゴルの代官を受け入れた。ジョチ軍はこうして初期の任務であるシルダリア上流域の諸都市の制圧を完了した。そして他の軍団と合流するべくシィグナーク総督としてムスリムのアリー・ホージャを任命すると、ホラムズの首都サマルカンドに向けて、軍を転回させた。チンギス汗以下の全軍の集結が予定されていた攻略戦のためである。1220年春頃のことと思われる。
 モンゴル軍すべてが集結したサマルカンドは、4日と言う誰もが驚くほど短期間で陥落した。モンゴル軍には占領した各地から徴発して、多数の歩兵に仕立てあげたホラムズの人々がいた。彼らは武装もほとんどなく戦力としては無力であったが、モンゴル軍によって整然と整列させられた彼らは、城内からは大歩兵部隊に見えたのである。予想の数倍に達するモンゴル軍にサマルカンド軍は動揺し、戦意はみるみる低下した。後にわかることだが、ここで指揮をとっていると思われていた国王スルタン・ムハンマド・シャーはとっくに逃亡していた。それも彼らの防衛に対する混乱に拍車をかけた。3日目に行われた城側の反撃もモンゴル軍の偽装退却に誘いこまれて覆滅され、これが戦局を決定的とした。4日目に城門が開かれると、城壁などの防衛施設を破壊、市民は城から追いだされ、職人、技術者は徴発され、残りが税を取るために記録された。無人の市内が徹底的に略奪された後、徴発を逃れた市民はやっと戻ることを許された。ホラズムの兵士達は武装解除された後に殺され、こうしてサマルカンドは無力化されたのである。しかし国王を始めホラズム首脳部を捕らえ損ねたチンギスは、猛将ジェベとスベエテイ指揮する2~3万の軍隊を裂いて、ホラズム王追撃に派遣した。この部隊は、ロシア奥深くまで進撃し、西方に衝撃を与えることになる。また残る王国のもう一つの首都ウルゲンチ(グルガンジュ)には、ジョチとチャガタイ軍とをともに送り込んだ。ジョチは、アムダリアに沿って北上し、諸都市を攻略しつつテルケン・ハトゥンが篭るウルゲンチを目指した。ウルゲンチは6カ月にも及んだ。緒戦、前衛部隊はサマルカンドと同じように少数の部隊を送り込んで退却すると見せかけて、城内の部隊をおびき寄せることに成功した。伏兵戦術によって1000騎ほど討ち取り、退却する敵を追って、城内に突入することにも成功した。しかし、このときは前衛部隊のみで兵力が少なく、また城内の激しい抵抗もあって陥落させるにいたらず、部隊の損害を鑑みてジョチは一旦退却した。本隊到着後は包囲戦に移行したが、城兵も慎重になって、早期陥落は難しくなった。また時に城内部からカンクリ族騎兵の奇襲を受けることになったが、モンゴルの伏兵に包囲されるような深追いは避けるようになった。モンゴル側にも無視できない被害が出始めたのである。長期化の原因や損害の拡大は指揮官たるジョチとチャガタイの不和によると言うが、定かではない。やがてオゴデイ軍の援軍を得たジョチとチャガタイ軍は激しい力攻めを行い、7日間の激戦の末、ようやくこれを陥落させることができた。陥落後、市民を追い出したジョチは、河川の水を街に流入させ、隠れ潜む市民、兵士を溺死させると、徹底的な略奪と軍事施設の破壊を行った。ウルゲンチは廃墟と化し、都市は復興されなかった。後代のウルゲンチは、その近隣に新たに作られた別の城市である。その後、チャガタイ、オゴデイ軍は南下し、ヒヴァ市攻略に向かったが、ジョチはウルゲンチに滞在して戦後処理に当たった。
 さて勝利を得て、サマルカンド南方に駐留したチンギスであったが、あまりに早期の首都サマルカンド陥落、国王の逃亡と統治放棄による王国の完全崩壊は全くの予想外であった。王子ジェラール・ウッディーンを追って行われた、ホラサン、アフガニスタン制圧作戦は事前の調略が不十分であったため順調とは行かず、攻略に手間取り、時に敗戦することもあった。チンギス自身が出向いて、ジェラールの勢力を取りあえず追放することのできたモンゴル軍は、これ以上の戦線の拡大を望まず、戦後処理を行いつつ、ゆっくりと部隊の撤退を決定した。ジェラールの頼った奴隷王朝は、モンゴルの介入を避けるためジェラールに冷淡だったため、彼は当面は脅威とはみなされなくなった。
 戦争も収束に向かいつつあるこの時期、東方からチンギス汗を訪ね、はるばるとやってきた人物がいた。長春眞人である。彼は道教を極めた人物と言う触れこみであったが、無論仙人などではなく、あくまで宗教家であった。つまり教団の経営者であり、現実的な利益を求める俗物の集団の長なのである。彼の目的は無論、教団の布教活動に対するお墨付きをチンギス汗から得ることであった。彼の教団の組織は徴税を請け負う末端組織として、以後モンゴル帝国に組み込まれることなるわけだが、おそらくチンギス汗が彼を優遇したのはまさにそのためであった。中国支配のための道具となると見たのであろう。もちろん、そうチンギスに進言したのは耶律阿海らキタイ系の幕僚達であった。金朝瓦解でがたがたになった華北の下僚組織の補填の意味もあった。道教の教えなど、チンギスは理解を示さなかった。不老不死の話題に興味を持った程度であったが、それも執着とは程遠く、あくまで話の種でしかなかった。おそらく長春眞人もチンギスも死期を悟り、故に親しげに話したのかもしれない。長春眞人は晩年の盛事として、チンギスは死を臨んでの心構えを思案する一助として。二人の老人は数年後にともに没するのである。だがもう一人、自身の死に付いて思いをめぐらさねばならなくなった人物がいた。即ち、父よりも早く没することになるジョチである。しかし死に到るまでにジョチが何を思い行動したか、我々に知る手段、記録は残されていない。
 1223年、サマルカンド周辺で冬営を終えたチンギス汗は、シルダリア沿岸のステップ地帯で春の狩猟を催した。チンギス汗の命令を受けた、ジョチはキプチャク草原一帯で、クラーン(野驢馬)の追い込みを行い、多数の獲物を父の元に送った。またサイラム市近郊で父と会見したジョチは、貢ぎ物として2万頭余の白馬を贈ったという。そしてチンギス汗と四王子(ジョチは参加していなかったとも言われる)は狩りを楽しみ、麾下の軍隊も休養をとった。クリルタイが催され、夏を休養と内政に時を費やしたモンゴル軍は、秋から冬にかけて、侵攻時とは打って変わって、ゆっくりとした行程で東に向かい、1224年にイルティシュ川まで軍を引いた。西方から帰還したジェベ・スベエデイ軍とも合流し、モンゴル高原への帰還が話し合われた。ジョチを除くすべての王子もモンゴル高原に戻ることになった。しかしジョチは自分の本拠地として父に与えられたイルティシュ川に残り、西方攻略の準備を進めることになった。だが以後のジョチの動静、行動は、はっきりしないものとなるのである。
 ジョチ(とその子孫)に関連してより重要なのは、ホラムズ王追討に向かったジェベとスベエデイの率いる部隊が得た情報である。ホラズム・シャーたるスルタン・ムハンマドはアーバスクーンの対岸にあるカスピ海上の小島アシュル・アダで1220年12月に見守る者も少ない中、病死していた。ジェベ・スベエデイ軍はそれに気づくことなく、イラン、アゼルバイジャン、コーカサスと進軍し続けて行く。そしてロシア奥深くまで進運し、西方に関する貴重な情報の収集に成功するのである。8万人にものぼったと言うキプチャク・ロシア連合軍をカルカ河畔で打ち破ったジェベ・スベエデイ軍はカスピ海、クリミア半島まで足を伸ばし、各地を略奪、偵察した後に帰還した。別の項で、この二人の将軍の軌跡は記述したい。

 

 1225年にモンゴル高原に帰還したチンギスのもとには不穏な噂が舞い込んだと「世界征服者の歴史」は伝える。
 「ジョチ汗は、父はキプチャクの人々を略奪と破壊を繰り返し、滅ぼそうとしている、と側近に何度ももらすようになった。やがてジョチはクラーンの狩猟の際、父の暗殺を決意した。だがその計画は漏れた。チャガタイを通じて、その計画を知ったチンギスは逆に暗殺者を送り込み、ジョチを毒殺するように命じた。やがてジョチは病死した」。
 ジョチの死は人々の想像力をかきたてたようである。確かに暗殺の可能性もない訳ではない。モンゴルの歴史上、不可解で暗殺の疑いのある死は、多い。汗、諸将、王子達・・・。チンギスの弟ジョチ・カサル、テムゲ・オッチギン、王子トルイやチャガタイの死も暗殺の可能性はある。だが、一般にはジョチの行動に精彩がなくなってから、その死が伝えられる期間の長さや、後継者問題が比較的波乱なくバトゥの宗主権への移行が行われたことから、病に臥せっていたと考えるのが自然のように思われる。「集史」では、より有名な逸話が記されている。西方からの帰還の際にチンギス汗はジョチにキプチャク大草原を含め、西方の諸部族の征服を一任した。しかしジョチが一向に動こうとせず、やがてそれに怒ったチンギス汗は息子に召還命令を出した。しかしジョチは現れなかった。重病のため、モンゴル高原に戻ることができないと、ジョチの使者は告げた。しかしマングト部族の民でジョチが、病であるどころか、その頃狩猟に耽っていたところを目撃したと、チンギスに告げるものがあった。チンギスは息子の懲罰を決意し、チャガタイ、オゴタイに命じて軍隊を派遣させ、自身も出陣しようとした。しかし出発直前、ジョチの死の知らせが飛び込んできた。病は真実であった。偽りを告げた(反ジョチ派の陰謀に荷担したと思われる)マングトの民は、姿を消しており、遂に見つからなかった。
 チンギスはジョチの死に驚き嘆き、「愛児を失ったクラーンのように。群れが四散して、はぐれた雁のように」別れがチンギスを悲しませたと伝えられる。
 真実はどのようなものであったのか知る術は我々にはない。ジョチは父に先立って死んだのである。一般には1227年の2月とされる。遺骸は彼の本営とされたイルティシュ河の上流部、テルス・ケンデルリク渓流のどこかに葬られたと言う。現在ジョチ廟とされる建物には、その遺骸はない。父と同じく、彼の墓は知られていないのである。世界征服者の長子は敵多き故郷に別れを告げ、イルティシュ河の新たな土地を自らの子孫達の故郷とすべく、その地の土に還った。

 

 若くして眠りについた父の跡を受け、ジョチ家を継いだのは、次子サイン汗バトゥ。ジョチ・ウルスの実質的創始者である。

 

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