頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
 
 
 
ジョチウルス史3~ジャイフーンの恵みを受けて、ホラズム帝国の勃興~

 西方に目を転じたチンギス汗は、華北からモンゴル高原に戻った1216年に、メルキト王族の生き残りであるトクトア汗の第2子チラウン、第三子(あるいは第六子)クルトガン・メルゲンとトクトア汗の弟クドが中心となって、アルタイ山脈山中にメルキトの残党を集めているとの情報を受けた。そこでチンギス汗は、ジョチに将軍スベエデイ、女婿のトクチャル・クルゲンを補佐に付け派遣した。翌年ジャム河近辺で会戦が行われ、チラウン、クドは戦死し、クルトガンは捕らえられた。クルトガンは弓の達人と知られ、勇武を好むジョチはその技を見て感嘆し、父に助命を願ったが、仇敵メルキトの王族は生かしてはおけないとのチンギス汗の返事であった。仕方なくジョチはクルトガンを処刑した。
 1217年(あるいは1218年)、集史によれば族長タイトウル・ソカルに率いられた森の民トマト族が反乱を起こしたと言う。これに対してチンギスは重臣の一人ボロクルらを派遣するが、戦闘には勝利したものの彼自身は戦死してしまう。ボロクルはムカリやボオルチュなどと並び称される、いわゆる四狗四駿の一人で、チンギスの義兄弟であったという説話が生まれるほど、信を置いていた武将であった。激怒したチンギスは長子ジョチを主将とした軍隊を送り、キルギス族を含めて広がっていた反乱を徹底的に鎮圧させた。しかしこの事件は集史の誤記で、秘史にある1207年のものと同一の事件と思われ、秘史の記述年代が正しいと現在では考えられている。ただし記事の内容には集史の方が整然とかつ具体的に記されているため、この事件の史実を探ることは難しいともされる。
 1218年にはジェベ将軍率いる2万のモンゴル軍が、ナイマン王子クチュルクにより奪われ、国家の体をすでになしていなかった西遼(カラ・キタイ)に侵入して、これを占領した。
 ナイマン王子クチュルクは、チンギス汗に敗れた後、1208年にカラ・キタイの第三代グル汗チュルクの元に亡命していた。その後、彼はチュルク王に気に入られ、その女婿となっていた。しかしクチュルクは、グル汗の恩を仇で返した。チュルクが政治に関して無気力で、後にウイグルやカルルク族などが反旗を翻すなど、国内を束ね切っていないことに目を付けたクチュルクは、王朝を倒し自立する事を決意した。ビシュバリク地方やバルバシ湖周辺に漂白していたナイマン族をカラキタイの為に集めたいとチュルクに許可を求め許されると、クチュルクは宮廷を抜け出し、ナイマン残党にメルキト族残党も加えた新たな軍隊を組織する事に成功した。加えて、秘密裏に西方のホラズム・シャー王朝と同盟を結びカラ・キタイ領土の分割を約したのであった。
 1210年、カラ・キタイから離脱し、ホラズム・シャー王朝に臣属していたサマルカンドのカラ・ハン王朝(ハーカーン朝、イレグハン朝など・・・当時の人々がなんと呼んだかは不明)の末裔スルターン・オスマンに対して、カラ・キタイ軍が差し向けられた。この機会にクチュルクは蜂起し、ウーズケンドにあったカラ・キタイ王朝の宝庫を略奪し、首都ベラサグンに侵攻した。サマルカンド包囲軍は、和平を結びすぐさま引き返したが、救援には間に合わなかった。グル汗チュルクは、決死の覚悟を決めた小数の部隊を率いて、クチュルク旗下のナイマン軍とチンブジュ河畔(あるいはチヌケ河畔または山麓)で会戦した。敵が少数であることに油断したのかクチュルクは、惨敗を喫し、奪った財宝も取り返され、逃走した。
 クチュルクの野望は潰えた様に思えた。しかし幸運の女神はまだ彼の元を去らなかった。まずサマルカンドに来劫したホラズム軍が、カラ・キタイ軍主力を大破し、ベラサグン市民はこれを見て、グル汗を見捨て、ホラズム・シャーに帰属する事を決めた。しかしホラズム・シャーはカラ・キタイ領土を荒らしたのみで帰還し、ベラサグンはチュクルの軍勢に攻め落とされ、懲罰として虐殺が行われた。このような状況が続いて、グル汗の権威はさらに失墜したのであった。しかもグル汗は財政に窮したため、クチュルクに奪われ、その後奪い返しカラキタイの兵士達の手に渡っていた財宝を、彼らに差し出すように命令した。激高した兵士達は、次々と逃亡し、軍隊組織は瓦解してしまった。
 クチュルクは、情報を得ると、急遽ナイマン軍を再編成してベラサグンに帰還し、兵なき王を易々と虜とし、カラ・キタイの王に収まったのである。1212年のことであった。その後、モンゴル服属していたアルマリクに軍事を差し向け、首長オザルを殺害し、またホータン市、カシュガル市を武力で征服した。しかしクチュルクはカラ・キタイの貴族、武将達の信望を得るため、彼らの宗教たる仏教を過剰に保護、またナイマン族の宗教であるネストリウス派キリスト教の強制布教も図った。ホータン市で宗教指導者を殺害するなどイスラームやマニ教徒を弾圧し始め、オアシス都市の住民達の失望と反感を買うことになってしまう。カラ・キタイ朝は、すでにこの時点で瓦解していた。モンゴル軍が侵入したとき、クチュルクはカシュガル市でモンゴル軍を迎え撃とうとしたが、モンゴル軍の将軍でサイイド(預言者ムハンマドの子孫のこと)のジャバル(ジャアファル)・ホージャ将軍が信仰の自由を宣言した事で、このオアシス都市市民の協力を得られず、兵士は市民に虐殺され、ナイマン軍はろくに戦うこともできず壊滅した。ジェベとジャバル・ホージャ両将軍は抵抗を受けることなく諸都市を接収し、バタフシャーンの山中でクチュルクを捕らえると、この首を切り各都市を周り、市民の歓迎を受け、モンゴルの支配権を認めさせた。
 同じ1218年、東方では、再び西夏王国がモンゴルに不服従の態度を見せたことで、討伐軍が差し向けられ夏王を屈服させた。また高麗王朝が、臣属を申し出て、朝貢を行うこととなった。これは金王朝の支配下にあったキタイ族部隊の中で、モンゴルに従わず平安南道の江東地方で自立して軍閥化していた勢力、黒契丹の首領六哥が高麗に侵攻して来たことに由来する。高麗の要請を受けたモンゴル軍は、哈真(カジギ)、札刺(ジャラ)両将軍を送り込み、東真国の援軍を率いる完顔子淵や高麗軍と共同で黒契丹を撃滅し、高麗は名目上モンゴルに帰属することになったのである。
 さらに同年、有名なオトラル事件が発生する。西方の大国、ホラズム・シャー王朝に、チンギス汗の派遣した通商使節団が、オトラル市の大守ガイル汗イナルチュクに虐殺され、財貨は奪われた事件である。これに激怒したチンギス汗は、ホラムズへ即座に宣戦を布告したとされる。現在は多くの著述家が、これを偶発的な事件ではなく、チンギスの予定の範囲内のものであり、オトラルで使節団が殺されようが、使命を果たそうがホラズムとの戦争は不可避であったと見ている。すでに金からの帰国後、カラ・キタイを制圧する以前に、遠征準備を整えていたチンギス汗の行動は素早く、かつ整然としていたからである。またホラズム軍部にいくつか派閥が存在し、モンゴル軍の三倍以上の兵力を持ちながら統一した行動は不可能であろうことも把握していた。ホラズム王ムハンマドが後継者問題に絡んでホラムズ最強のカンクリ遊牧民出身で、実質的に王国を二分していた母后テルケン・ハトゥンと対立していることなど、ホラムズの政情は、チンギスが事前に派遣したイスラム、ウイグル商人やスパイを通じてモンゴル側に筒抜けであった。加えてチンギスは精鋭の騎兵からなる偵察部隊を進撃予定路に派遣しており、水源や牧草地など補給や軍勢の行軍に適した地域を確認しており、事件がなくとも侵略開始は秒読み状態であった。ちなみにホラムズ大守イナルチュクはカンクリ族出身で、テルケン・ハトゥンの血族であった。ムハンマドの意向はどうであれ、イナルチュクの行為を罰する力はムハンマドにはなかった。

 

 ジャイフーン河(アム・ダリアの呼び名が一般的になるのはモンゴル帝国成立以後だと言う)は、その源流をパミール高原に発し、アラル海に注ぐ中央アジア最大の河川である。ジャイフーンは「沸き立つ」を意味するアラブ語であり、流れが複雑かつ急で、船乗り達は水路を定める事ができず、常に浅瀬に乗り上げる危険の中で航行するのだと言う。古くはゾロアスター教の重要な女神(豊穣の女神にして戦女神)アルドヴィスラ・アナーヒターそのものと考えられたこの河川は、中央アジアの人々にとっては、まさに母親なのであった。
 そのジャイフーン河の下流域がホラズム(フワーリズム)と呼ばれる地方である。西方ロシアのヴォルガ川流域とホラサーン地方、中央アジアを結ぶ交易の中継地であり、ジャイフーン河の恵みを受けた農耕地帯でもある。主な住人はイラン系であるが、支配者はその時々の有力王朝の影響化にある人物が総督として、時に自立した小王朝の王として、ホラズム・シャーを称してきた。モンゴルに滅ぼされた、ホラズム・シャー王朝もその流れを組んだ王国である。
 11世紀にホラズムを支配していたのは、10世紀のシーア派諸政権の支配下で長らく混乱していたイスラームを統一した大セルジューク(現代トルコ語でセルチュク)王朝であった。セルジューク朝の指導者は、ダイラム人王朝ブワイフ朝に習ってシャーハンシャーを名乗り、アッバース朝を名目上戴きつつ独自の王権を打ちたて、広大な帝国を支配した。ホラズム・シャー王朝の初代にあたる人物アヌーシュ・テギン・ガルチャ(在位1077年~97年)はセルジューク朝に仕えたトルコ系奴隷軍人(マムルーク)であった。アヌーシュ・テギンは出世を重ねスルタン、マリク・シャーにホラズムを封土として与えられたのである。
 セルジューク朝では王朝の軍事力の主体であるトゥルクマーン遊牧民のアミール達を抑えるため、こうした奴隷出身者を地方の総督として、地位と徴税権を与えて優遇していた。軍閥化の要因ともなる、このような政策を取らざるを得ないほどトゥルクマーン遊牧民のアミールは、スルタンにとって扱い辛い存在だったのである。アヌーシュテギンの死後(1097/98年)も息子クトュブ・アッディーン・ムハンマドは、ホラズム総督に任命され、30年にわたって支配を維持した。彼はセルジューク朝に忠実で、特に反抗を企てることはなかった。この間に大セルジューク王朝はマリク・シャーの死後、内乱が頻発し、その勢力は急速に衰えていった。
 マリク・シャーを継いだのは、まだ4才であったマフムード王子であった。当然実権はなく、マリク・シャーの妻でカラ・ハン朝の王女だった母后テルケン・ハトゥンが実権を掌握した。マリクシャーの長子バルキヤールク(ベルキヤルク)も、マリク・シャーの宰相として名高いニザーム・アルクルクが築いた人脈を頼りに対立即位したが、マフムードを追い落とす事はできなかった。1094年にマフムードが病死すると、ようやくバルキヤールクが単独支配者となるが、今度は叔父達、兄弟達の挑戦が続き、王朝は弱体化したのである。結局、1104年の和約で王国はバルキヤールクの兄弟達の間で分割されることになった。バルキヤールク自身はイラン高原を、異母弟ムハンマド・タパルがアゼルバイジャン、アルメニア、イラクを、もう一人の異母弟アフマド・サンジャルがホラサーンを統治することとなった。またアナトリアはかつてアルプ・アルスラーンに対抗して敗れたクタルムシュの子スレイマーンと、その子孫が支配するルーム・セルジューク朝が成立し、安定した政権を築くことになり、ケルマーン地方やシリアにも王族が小王朝を築き、大セルジューク朝のスルタンを宗主権を認めることで存続することになった。
 大セルジューク朝スルタンのバルキヤールクはこうした内紛に疲れ果てたかのように、和約のなった1104年12月に25歳と言う若さで没し、ムハンマド・タバルがスルタンの位を継いだ。ムハンマド・タパルとサンジャルは母を同じする兄弟であったため仲は良く、合い争うことはなかったと伝えられる。二人は帝国を東西に分割し、西はムハンマド・タパルが、東はサンジャルが統治することになった。ムハンマドは暗殺者教団(マラーヒダ)として名高いニザール派を弾圧するなど、国内の秩序回復に勤めた。1118年にムハンマド・タパルは死去し、息子のマフムードが即位したが、サンジャルは軍勢を派遣して、マフムードを捕らえ、自身は大スルターンに即位し、自分の宗主権をマフムードに認めさせた。サンジャルはマフムードに自分の娘を与えて、後継者とし、以後もムハンマド・タパルの子孫がスルタン位を継承するが、サンジャルの生存中は彼が実質的な全セルジューク朝のスルタンであった。
 サンジャルは有能な戦闘指揮官だった。兄弟間の争いがあった1101年に、東方カラ・ハン朝のジブリールの侵略を撃退することで軍隊の支持を確固たるものとし、また1117年には後継者問題で乱れたカズナ朝を攻撃し、首都ガズナを占領した。カズナ朝にはサンジャルの傀儡のムバーラク・シャーを擁立し、カズナ朝もセルジューク朝の支配国となった。そして1121年にはアフガニスタンのグール(ゴール)朝を、1130年にはサマルカンドを占領しカラハン朝の王位に自分の甥にあたるマフムード・ハンを即位させ服属させた。 このようにサンジャルは各地に軍事遠征を行い、セルジューク朝の支配領域を主に東方に伸ばし、「世界の主人」と称えられた。
 一方、1128年にホラズム総督クトゥブ・アッディーン・ムハンマドは死去し、息子のアトスィズが地位を受け継いだ。彼は、父と違いセルジューク朝と対立し、ホラズム朝の独立を目指した。原因は、サンジャルが1135~36年に反旗を翻したガズナ朝のムバーラク・シャーに対して遠征を行い、再びカズナを占領した作戦中、従軍していたアトスィズがサンジャルとの間に、なんらかの不和があったことに起因すると思われる。ホラズム軍は勝手に帰還し、不服従の態度を示したのである。アトスィズはホラズム・シャーを名乗り、果敢にも独立を宣言したが、1138年サンジャル率いる軍勢がホラズムに侵攻し、迎え撃ったホラズム軍は敵しえず敗北した。さらに悲惨な敗走の中、アトスィズの長子アトルグは捕らえられ、サンジャルに処刑された。窮地に陥ったアトスィズは、再びサンジャルに朝貢し、しばらくホラズムに逼塞せざるを得なくなった。
 ところがサンジャルのホラズム遠征のあった前年、1137年に、耶律大石(タイシ)に率いられたカラキタイ軍が中央アジアに現れ、ホジャント近郊の会戦でカラ・ハン朝軍を打ち破り、その東半の領土を占領すると言う事件が起きた。カラ・ハン朝のマフムードの救援要請受けて、サンジャルは軍を進めたが、1141年9月9日、カトヴァーン平原(サマルカンド近郊)の戦いで大敗を喫し、カラ・キタイが中央アジアの覇権を以後握るようになった。耶律大石の侵攻を受けたアトスィズは、カラ・キタイを宗主として仰ぐことにすると、ホラサーンに侵入し、サンジャルの本拠地だったメルヴ(マルヴ)周辺を荒らして、長子の恨みを晴らした。
 しかし体勢を整えたサンジャルは1144年にはホラズム軍を打ち破り、1147年にグルカンジュを包囲する。アトスィズはサンジャルに降伏し、再びその属国となったのである。耶律大石は1143年に死去していたため、カラ・キタイの軍事行動が停滞していたこともあり、ホラズム朝には単独でサンジャルに対抗することは不可能であった。サンジャルは、カラ・キタイとの敗戦で、声望を失っていたが、それを取り戻そうと以後も自ら活発に軍事活動を行っていた。1152年には再びグール朝を破って、その王を虜とするなど、実力は衰えていないかに見えた。だが1153年にカラ・キタイに牧地を追われてホラサンに逃れてきていたオグズ部のトュルクマーンが、避難先となったバルフ近郊で紛争を起こすと、サンジャルはこの討伐に出陣するが、敗北してしまう。油断して捕虜となったサンジャルは幽閉され、オグズ部族長達の嘲笑の対象として、昼間は王座に座らされ、夜は牢に押し込められたと言う。サンジャルの部下達は、アトスィズに救援を依頼したが、無論このような好機をアトスィズは逃すはずもなく、救援要請を無視して、再び独立を宣言したのであった。
 サンジャルは1156年に、何とか脱出に成功するが、本拠マルヴに戻ったものの、長期の幽閉生活で、もはや気力、体力ともに尽き、翌年72歳で病没した。サンジャルは一代の英傑であったが、その最後は悲劇的なものとなり、以後王朝は没落の一途を辿った。彼の死をもって実質的に大セルジューク朝は滅亡したと言っても過言ではなかった。息子を残さなかったサンジャルの後継者となったのは、ベラサグンをカラ・キタイに追われた甥のマフムード・ハンであった。しかしホラサンの玉座は1162年、サンジャルのマムルークであったムアイヤド・アイアパによって奪われ、マフムード・ハンは一族ともども虐殺された。
 ホラズム・シャー、アトスィズはサンジャルとセルジューク朝の没落を見届けると、主君であり仇敵であったサンジャルの死の直前、1156年に世を去り、後事を息子のイル・アルスラーンに委ねていた。しかしイル・アルスラーン治世中は芳しい成果をあげれず、ホラサーン併合を目指したものの、その一部を占領するにとどまった。1165年にイル・アルスラーンは死去し、その子スルターンシャーがホラズム・シャーの位を継いだ。しかし、彼の兄であるテキシュは、これに異を唱え、カラ・キタイの女王、普速完に援助を仰ぎ、弟に対抗して1172年ホラズム・シャーを名乗った。しかしスルタン・シャーはムアイヤド・アイアパを頼って、玉座をよく守り一進一退の状況となった。テキシュは戦況の打開を図るべく、新たに同盟者を求めた。
 そして、その相手として選んだのが、キプチャク草原のトルコ系遊牧民カンクリ族であった。テキシュはカンクリ族キーマーク部族の分派であるバヤウト部族長ジンクシと結び、部族民のホラズムへの移住を促し、同盟の証として、その娘テルケン・ハトゥンを妻に迎えたのである。バヤウト部や他のカンクリ諸族長が旗下の牧民とともにテキシュ軍に加わると、彼はスルターンシャーを圧倒したばかりでなく、スルタン・シャーの庇護者であったムアイアド・アイアパを1174年に敗死させ、ホラサンを奪った。スルタン・シャーは逃れ、グール朝に頼ることになったが、結局兄に抗しきれないと判断し1189年に和平を結び、テキシュの宗主権を認めた。この年、テキシュはスルタン位を名乗り、セルジューク朝と対等の地位を主張することになった。
 一方西方では大セルジューク朝のスルタンは、アゼルバイジャンに本拠地を置くアタベグ政権のイル・ドゥグゥズ朝による傀儡政権と化していた。またイラン南部ファールス側も、同じアタベグ政権であるサルグル朝が政権を確立し、独立していた。シリア北部には後に対十字軍戦争に重要な働きをするザンギー朝が成立していた。アタベグ政権とは、アター(「父」の意味)ベグ(指揮官、将軍)と呼ばれたスルタンを後見する主にマムルーク出身の実力者たちが、各地で独立した政権である。分裂したセルジューク朝はもはや、ホラズム軍の敵ではなくなっていた。1192年、テキシュは自ら大軍を率いて、イラン征服の戦いを開始する。そして1194年3月、政権を壟断するイル・ドゥグゥズ朝のクトュルグと対立していたセルジューク朝スルタン、トゥグリル二世をレイ近郊の戦い敗死させたのである。大セルジューク朝は、ここに滅亡し、ホラズム朝はイラン高原の大部分を手にいれ、イスラム世界最大の勢力に成長を遂げたのである。
 そして1200年、テキシュは死去し、アラー・アッディーン・ムハンマド2世サンジャルの時代を迎えることになる。

 

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