頑固猫の小さな書斎

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ジョチウルス史2~イェケ・モンゴル・ウルスの発展~

 1211年、春。チンギスは事前の計画にしたがって全モンゴル軍をケルレン河畔に集結させた。天災や内乱が続き疲弊していた華北の金王朝に対して、総攻撃が開始されたのである。三次にわたって続く金侵略戦争である。ジョチをはじめとする諸王子もチンギスとともに、これに加わり、草原に残ったモンゴル兵は2000騎に過ぎなかったといわれる。
 初年の戦いの目的は金王朝の辺境部の略取であった。
 陰山方面に軍を進めた8万から10万余りのモンゴル軍は、その地で遊牧し、長城を守り、国境を警備していたオングト(白達達)部族を戦うことなく吸収した。事前の調略の結果であった。オングト部族の長アラクシュ・テギンにも金の衰運が見えていたのであろう。吸収したオングト部族を再編、自軍加えたモンゴル軍は、陰山北麓で夏を過ごして、畜獣、軍馬を肥育した後、7月に内モンゴルへ進撃を再開した。
 まず撫州(現在の興和)を守護していた定薛将軍率いる部隊を撃破すると、灤河(エケ・ノール)上流域を制圧、8月にはジェベ将軍率いるモンゴル軍が金が張家口の北に築いた要塞烏沙堡を占領した。秋になってジャライル部のムカリの率いる軍隊が恒州、昌州、撫州を攻略し、軍事行動の妨げとなる長城以北の大小の要塞を攻略、あるいは破壊した。首都防衛の拠点である大同府の総督、金の西京留守紇石烈胡沙虎は得勝口の北方、野狐嶺(クネゲン・ダバン)近辺に布陣した。有利な地形でモンゴル軍を待ちかまえ、後続の援軍(平章知事完顔胡沙の部隊)と共に反撃する計画であった。チンギス汗もまた、これを撃破すべく軍勢を集結させ、進発した。
 胡沙虎は将軍石抹明安を偵察に派遣したが、明安は部下ごとチンギスに寝返り、金軍の情勢を詳細にチンギスに伝えた。チンギスは敵が援軍と合流する前に急襲すべきだと判断し、明安を先導させた。山岳によって守りを固めていた胡沙虎の軍勢であったが、明安の裏切りもあって情報が不足していた。そのためモンゴル軍の動向を掴めず、その常套手段である少数の部隊を囮にする誘引戦術に乗ってしまい、結果平原での野戦を選択しまう。待ちかまえていたモンゴル軍は貛児觜(野狐嶺のやや北)の戦いで、進撃してきたおよそ7万の金軍主力を包囲し打ち破った。胡沙虎は敗戦の責任を問われ、翌年4月に職を罷免されることになる。さて敗走する金軍を追って野狐嶺を越えたモンゴル軍に対して、金の後続軍を率いる完顔胡沙は、会戦を避けるように退却を試みたが、逃れきれず、10月には会河川の近郊の城塞堡に到る追撃戦に敗れ、軍勢は潰走、離散した。
 敵主力を蹴散らしたモンゴル軍はここで部隊を分け、各地に派遣した。ジョチ、チャガタイ、オゴデイらの王子らは各部隊を率いて山西地方の長城北の城塞や諸州を制圧した。ジェベ将軍率いる部隊は、中都に到る狭道に築かれた要塞居庸関まで達したが、この重要拠点を守る金軍は任務を放棄して退却したため、ジェベは容易くこれを占拠する事が出来た。しかし居庸関を抜け中都の城壁まで偵察にでた部隊は攻城の準備などない少数の騎兵部隊のみであり、ジェベ将軍以下のモンゴル軍は冬営のため長城の北に去っていった。また耶律阿海率いる亡命キタイ人を主力とした部隊は金の管理していた馬群を奪取するためドロンノール地方に軍を進めた。牧地を管理していたのもキタイ族であったため、阿海の行った誘降工作でキタイ諸将は次々と寝返り、加えて辺境軍の一角を占めていた漢族の将軍、有力者も部下もろとも離反した。これ以降、金軍は大規模な騎兵戦力を編成することが出来なくなった。こうしてモンゴル高原全領域から金の勢力を払拭し、金の馬群と牧地、そして多くのキタイ族、漢族がチンギスの支配下となった。
 年が変わって1212年初頭、遼東でキタイ族の金将である耶律留哥が反乱を起こした。耶律留哥に対してチンギス汗は、妻ボルテの兄、アルチ・ノヤンを使者として送り、これと結び臣属させた。そしてジェベ将軍に軍兵を与えて、これを援護させた。モンゴル軍は翌年1月に遼陽市を陥落し、遼東全域を制圧し終えると、耶律留哥を遼王に封じて、遼東を統括させた。
 この間、チンギス汗の本軍に大きな動きはなく、次の攻勢の準備や内政に勤めていたと思われる。
 このモンゴルが動きを止めていた期間に、金の首都中都ではクーデターが発生していた。1213年8月の事である。罷免されていた紇石烈胡沙虎は、6月に右副元帥職に復帰していたが、任務に熱心でないと金皇帝永済(衛紹王)の不評を買い、君主に含むところがあるようになった。そして遂に9月、首都に部下を入城させ制圧、衛紹王を弑逆したのである。監国都元帥と称して金の実権を握った胡沙虎は河南の地にいた先々代の章宗の兄、完顔吾賭補を、傀儡皇帝として即位させた。即ち宣宗である。
 金王朝が内部分裂を起こしている間に、遂にモンゴル軍が1213年の初秋、動き出した。前年までの戦いで長城以北はほぼ無力化しており、モンゴル軍を押しとどめる者はいなかった。徳興府を容易く陥し、迎撃に出た朮虎高琪将軍の部隊を蹴散らすと中都防衛の要、居庸関に迫ったのである。居庸関は一時期モンゴル軍が占拠していたが、草原に退いている間に再び金軍が占拠しており、金の大軍が防備を固めていた。居庸関の北口要塞(八達嶺)の突破は不可能であると見たチンギスは、小数の部隊を残して、全軍を西に100キロ以上迂回させ、8月防備の薄い紫荆関を奇襲し、占拠突破した。
 直ぐさま、チンギス汗は中都西方の諸都市を攻略して足場を固めると遼東から帰還していたジェベ将軍に部隊を与え、居庸関の南口を占拠させ、北口の守将オロブルも要塞を献じて、降伏、居庸関を無力化した。北方の監視部隊を率いていたケエデイ将軍は、ジェベ軍より、増援を受けて中都に向かい、この金の首都を監視する役目を帯びた。1213年末、チンギスの本軍は易州で軍を三つに分け、各地の諸都市を攻撃、劫略させた。実弟ジョチ・カサルが遼東・遼西方面に、ジョチ、チャガタイ、ウゲデイ率いる諸子軍は山西方面を担当した。そしてチンギス汗の本隊は、末子トルイを連れ、河北と山東地方を進撃していった。部下の牧民を満足させるための略奪行であると同時に、通過した地域にモンゴル軍の勢威をまざまざと見せつけ、今後服属させることになるだろう金の臣民に抵抗する意欲を損なわせるための一種の恐怖戦略、プロパガンダでもあった。そして中都の金王朝政府の無力を示し、周辺地域の実効支配を失わせ、孤立させる意図もあった。ところが、こうして絶望的な状況にあるにも拘わらず、金の調停では再びクーデターが発生したのであった。
 モンゴル軍が華北全土で活動している間、中都ではケエデイ軍5千から1万弱の監視部隊が、城外に迫っていた。勿論この数、装備で中都を攻略できるはずもない。あくまで首都と地方を分断し、金軍の自由な軍事行動を制するための監視部隊である。監国都元帥紇石烈胡沙虎は、この中都封鎖を解くべく、陣頭指揮を執る事を決断し、出撃した。
 緒戦、胡沙虎はモンゴルの分遣隊を敗走させる事に成功するが、足を負傷し指揮を執ることが出来なくなってしまった。敗戦の翌日に、すぐに体勢を立て直してきたモンゴル軍に対して、胡沙虎はキタイ、奚族、タングト族の騎兵部隊(糺軍と称された)を掌握していた朮虎高琪に迎撃を命じた。ところが朮虎高琪は、胡沙虎の命令に従わず、サボタージュをし、会敵しようとしなかった。胡沙虎は激怒して朮虎高琪を軍法に従って処刑しようとしたが、宣宗が取りなして、処刑を止めさせた。胡沙虎は朮虎高琪に再度出撃を命じて、もし敗北すれば今度こそ処刑すると脅した。しかしモンゴル軍との戦いで、朮虎高琪は奮闘むなしく破れ、城内に退却せざるを得なくなった。このまま戻れば処刑を免れぬと考えた朮虎高琪は帰城後、休む間もなく少数の信頼する部下を率いて胡沙虎の邸宅を襲撃し、これを殺害した。胡沙虎の首を携えて、宣宗に謁見した朮虎高琪は赦されて、右副都元帥となり金軍を統帥することとなった。1213年10月15日のことである。この一連の事件は偶発的なものではなく、宣宗らが仕組んだカウンタークーデターであったと推測される。国土を蹂躙されているというのに、団結できない金の朝廷はまさに末期的状態であった。
 1214年4月、モンゴル軍の各軍は、3ケ月間、予定地域を巡った後に中都の北方シラ・ケエルの平原にある大口要塞周辺に集結していた。予定の行動であったと思われる。チンギス汗はジャバル・ホージャ将軍を使者として、中都に送り込み、降伏勧告を行った。モンゴル軍に包囲された中都は、風前の灯火であった。しかし、この頃になると、半年近い遠征で、モンゴル軍も疲弊していた。そのため朮虎高琪は全軍で出撃して、決戦を行うべきだと主張したが、徒単克寧以下の慎重論が結局勝利し、講和が成立したのであった。衛紹王の娘岐国公主を人質に差し出し、大量の金帛を今後、毎年歳幣として貢ぐ事になった。モンゴル軍は撤収し、モンゴル高原で牧民達を休息させるべく、華北を去っていった。チンギス汗は以後、金から送られる歳幣を資金源に、西方の乾燥地帯、草原地帯を攻略、統一し、ユーラシア全遊牧民の統一を果たすつもりであったと思われる。だが宣宗が臣下の反対にも拘わらず、中都を太子に預けて、南の開封に遷都を実行したことで(貞祐の南遷)、予定が大きく狂うこととなったのである。
 金の朝廷はモンゴル高原より遠く、南方に去ることで安全を図るつもりであったが、しかし敵は外部にばかりいるわけではなかった。金王朝は、女真族以外を信用できなくなり、まだ自軍内部に多数いる漢族やキタン族を過度に警戒するようになっていた。朝廷が中都市民を見捨て、南に遷ろうと王侯、軍隊共々去っていく中、付き従うことになった糺軍が反乱を起こしたのも、その朝廷の猜疑に耐えられなくなったためであった。外国人部隊と言うことで警戒され、武装解除されていた糺軍の身の安全に対する不安が、やがて不満となり、怒りが爆発したのである。
 糺軍は将軍チョダに率いられ中都に引き返し、迎え撃った留守役の完顔福興の軍勢を敗退させると、この旧都を包囲したのであった。チャガン・ノール湖で夏営に入る予定であったチンギス汗は、チョダの使節が現れ、糺軍の帰服を申し出た事に、困惑した。予定以上の成果はこの慎重な政治家の好むところではなかったからである。しかし耶律阿海以下、キタン系諸将はこの機に、黄河以北の地を完全な支配下におくことを望んだ。チンギスは結局、耶律阿海らの強硬論に対して、モンゴル本軍は高原に残し、キタン族を中心として部隊を編成することで妥協し、中都に彼らを援軍として送り込んだのである。サムカ・バアトルを主将とし、耶律阿海、耶律禿花、石抹明安ら、キタン族将軍に補佐されたモンゴル軍は再び黄土高原に足を踏み入れ、中都を再包囲したのであった。さらにチンギス汗は、金の別働隊に苦戦を強いられるようになった遼東、遼西の遼王耶律留哥の元に、ジャライル族のムカリを一軍を与えて送り込んだ。
 中都は十か月の包囲に耐えたが、食糧の不足、士気の低下、援軍の不在など、やがて城内は絶望感に覆われるようになった。完顔福興は降伏を遂に決意し、自らは毒を仰いだ。1215年5月2日のことである。中都が陥落したことで、チンギス汗の金帝国侵略は、実質的に集結した。サムカ・バアトルは開封を脅かすべく、さらに南下したが、撞関の要塞を落とすには準備が不足していると判断し、迂回策を取った。しかし金軍の必死の反撃で、部隊の一部が敗北すると、サムカは無理をせず、黄河に向け退却した。
 一方、ムカリは遼東の拠点、遼陽市が耶律留哥の手から離れ、金軍が占領していたため、これを石抹也先の提言した謀略を用いて無血開城させた。ムカリは史天祥、石抹也先、ウヤルら将軍を率いて、北京大定府の金の守将銀青を破り大定府を開城させ、翌年モンゴルに服属しながら、再び反旗を翻した錦州の張鯨、張致兄弟を殺害して遼東、遼西の再平定を果たした。
 また耶律留哥討伐のために遼東宣撫使として派遣されていた金の将軍蒲鮮萬奴は、1215年、金王朝の衰退を目の当たりにして自立を決意した。咸平府を拠点として、天王を称し、国号を大真国、年号を天泰と定めたのである。キタン族に圧迫され始めていた、現地の女真族を糾合し、耶律留哥の偽遼国と攻防を繰り返すとともに、反逆者として金王朝からの討伐軍とも戦いを繰り広げた。しかし上京府の攻略失敗を機に、蒲鮮萬奴は完全自立を諦め、本拠を朝鮮半島東北部に移し、開元城を居城としモンゴルに帰順することになった。1218年のことである。蒲鮮萬奴は息子の帖哥を人質として、宮廷に送り込み現状の維持を確保したのである。帖哥はモンゴル軍の一員として、各地に戦闘に参加した。また1218年12月、高麗国にキタン族の侵入があったときには、真国は援兵を送り込んでいる。大真国は、モンゴルからは東真国と呼ばれ、1233年に反抗を示した蒲鮮萬奴はオゴデイが討伐軍として派遣した長子グユクによって捕らえられるまで存続した。しかし、1233年以後も、一族の者によって東北部の女真軍団を統率する藩国として存続した可能性もある。

 

 こうして東方作戦を一段落させたチンギス汗は、自身の軍団を二つに分け、金を含む東方の占領統治をムカリに任せることとした。自身はモンゴル高原に帰還し、1217年に召還したムカリに太師国王の称号を与え、太行山脈以南の地を裁量するよう命じた。形式を整えた後、東方問題からチンギス汗は完全に手を引き、以後王子らとともに西方作戦に専念することになる。
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