頑固猫の小さな書斎

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ジョチウルス史12 「クリコヴォの戦い」
 モスクワがリトアニアとトヴェーリによる挟撃を恐れたように、ママイもモスクワとサライ政権による挟撃を恐れていました。
 貢納を停止したモスクワに対して、既述のようにママイはすぐさま単独で討伐軍を送る状況ではありませんでした。
 またモンゴル軍を参考にしたと思われる軍事組織を持つリトアニアと実戦を繰り返していたモスクワの軍事組織・防衛システムは、ママイ旗下の軍勢に対抗する際にも有効に働くほど成長していました。

 独力でモスクワを征伐する準備が整っていなかったママイは、ジョチの子トカ・テムルの子孫オロス汗との抗争に敗れたシバン家と手を結んだようです。
 1377年、ママイの使者を殺害したスズータリ・ニージニイ・ノヴゴロド公国に対する懲罰部隊が送られました。
 その軍勢を率いていたのは一時期サライを支配していたと思われるシバン家のアラブ・シャー汗でした。
 スーズタリ公はモスクワに援兵を要請し、モスクワ・スーズタリ連合軍はピヤナ湖畔の会戦はモスクワ側の大敗に終わり、指揮官であったスーズタリ公の子息イヴァーンが戦死しました。ニージニイ・ノブゴロドは占領され、略奪を受けた後アラブ・シャーは本拠地サライチュクに帰還したようですが、翌年にはママイ自身が派遣した軍勢がスーズタリ公国を荒らし廻り、地域を荒廃させました。

 しかし凱歌をあげたママイもトカ・テムル家の脅威が差し迫ってきたこともあって、苦しい選択を迫られることになります。
 
 サライ政権は長く分裂・抗争を繰り返していましたが、トカ・テムルの三男ウルン・テムルの長男アジキの子孫オロス汗が現れた時期から情勢が変化していきます。
 オロス汗はシバン家とママイ、その他有力アミールを駆逐し、サライと旧オルダ・ウルスに覇権を確立しました。 彼自身はティムールとの戦争に敗れて戦死しますが、その後もその子供達が政権を継承して大きな勢力を維持していました。
 ママイは現状の戦力ではトカ・テムル家に対抗できないと考え、外交を活発に展開し準備を始めたのです。
 一方中央アジアの覇者ティムールの元には同じトカ・テムルの子孫トクタミシュが亡命しており、権力奪取の機会を虎視眈々とねらっていました。
 トクタミシュ(ロシア語でトクタムィシ)の父トイ・ホージャはカスピ海東岸マンギシュラクの有力なアミールでしたが、オロス汗と対立して殺害されたとされています。 トイ・ホージャはトカ・テムルの四男サリチの子孫であり、オロス汗とは近しい関係ではありませんでした。
 トイ・ホージャ殺害の際にトクタミシュは年少であったため処刑を免れ、後に逃亡してティムールを頼ったのです。
 トクタミシュは本拠地である旧オルダ・ウルスの支配権を奪取すると、サライを占拠していたオロス汗の子ティムール・メリク汗と何度か交戦した後、カラタルの戦いで、これを遂に破ります。
 1380年、サライを占領し、シバン家とも同盟を結び、トクタミシュはヴォルガ以東のジョチ・ウルスの地を久方ぶりに統一したのです。
 トクタミシュの成功の背景には、当時中央アジアに大帝国を築きつつあったティムールの援助がありました。
 この偉大な人物の援助で、強力な勢力となったトクタミシュ汗が、ジョチ・ウルスの再統合を目指してヴォルガ河を越えてくるのは時間の問題でした。
 その様な時期にあって、モスクワを中心にルーシ諸公が団結し、ママイに反抗的な勢力として存在する事は、ママイにとって許容できないことでした。
 ママイはモスクワを完全に屈服させ、西方の状況を完全にコントロールすることを優先させることとし、将軍ベギチの指揮の元、モスクワに懲罰軍を送ります。
 ところが前年の敗北を受けて、ドミートリイ公は準備を整えていました。
 優勢な軍勢を召集できたドミートリイはイヴォジャ河湖畔に戦いに勝利します。
 これは実は正面からの会戦で、ロシア諸侯がモンゴル破った初めての戦いでした。
 十分な戦争準備があればリトアニアとモンゴルにロシア勢力は対抗できることを示したのです。
 おそらく驚愕したママイは、兵力拡充に奔走し始めます。
 精強で名高く、しばしばジョチ家と対立していたジェノヴァの弓歩兵を傭兵として雇い、チェルケスやヤス人など山岳部族からも兵を募りました。
 またリトアニア大公ヤガイラス、リャザン公オレーグなどと連絡を取り、モスクワを一挙に滅ぼす策を巡らせたのです。
 リトアニアとモスクワの和平は、アルギルダス死去後の混乱に乗じて、モスクワ側がリトアニア領に侵入したことで破綻していました。
 リャザン公は微妙な立場でした。優勢なママイ側に付くことを選択しつつ、密かにモスクワとの和平も模索していました。
 しかし、ママイ自身が率いる大軍が召集されたことで、ママイに同調せざるを得なくなりした。
 ママイはモスクワ公に最後通牒を送りましたが、すでにどのような回答を与えてもママイが軍勢を送るつもりであることをドミートリイは確信し、対決を選択します。
 モスクワ側は全兵力を動員し、諸公に8月15日までにコロームナの地に集結するように呼び掛けました。ほぼロシア諸侯全てが集結し、モスクワ公国史上最大の軍勢が編成されました。
 そしてリトアニア軍とリャザン公軍がママイと合流する前に決戦を挑むべく、ママイの勢力圏に逆に侵入する事を命じたのです。

 1380年9月7日、モスクワ軍はドン河の対岸に敵軍勢が布陣している事を確認すると、夕方に敵前徒河を敢行し、その支流ネオウリャドヴァ河の右岸クリコヴォ平原に布陣して、ママイ軍を待ちかまえました。
 ママイも敢えて、徒河を傍観した節があります。
 決戦によって、ロシア諸侯の兵力を徹底的に弱体化させるつもりだったのでしょう。
 ドミトーリイが後方に河川を背負ったのは、背水の陣を選択して、不退転の決意を示したというよりも、背後に対するモンゴル騎兵による迂回奇襲を防ぐ意味合いがあったと思われます。
 また側面は森林地帯となっており、騎兵の野戦機動には不向きで、これもドミートリイの作戦構想に組み込まれていました。
 モスクワ公の軍隊は、言い伝えでは40万に達したと言われていますが、これは過大な数であったと思われます。後のリトアニアと騎士修道会との決戦であるタンネンベルグ会戦の状況なども考え合わせると、10万人を越えたとは考えられず、総数で3万ほどであった可能性すらあります。
 召集された兵士達は、左右中軍に分けられ、中央軍は前衛の騎兵部隊。槍兵、主力騎兵の三段構えの布陣をとり、左右の軍はそれぞれ騎兵からなり、軽装歩兵が補助していました。
 現れたママイの軍勢も同様の布陣で対しました。
 ただ左右の騎兵部隊はより数が多く、右翼に特に精鋭が集中されていました。
 これはモンゴル軍の伝統的戦術でした。
 騎馬弓兵は射撃の際に左側面を敵にさらして矢を放ちます。そのため軍隊は次第に右側に旋回するため、右翼に兵力が集中してしまうのです。
 この様な理由で、遊牧騎馬軍団の会戦では、主攻勢は右翼と言う場合が多かったのです。
 さらにママイ軍は中央に前衛騎兵、ジェノヴァ歩兵を配して守りを固め、その背後には騎兵部隊を配置し、右翼による攻撃で、敵の左翼が後退した際に、中央の主力騎兵を生まれた間隙に投入する戦法を選択しました。
 その数は3万から40万と諸説ありますが、おそらく総数で10万弱。おおよそでしか推測できません。モスクワ側よりもやや多かったとすべきでしょうか。東方のトクタミシュに対応するため全兵力を集める事はしなかったと考えられます。
 その不足を傭兵で補った訳ですが、これが後にママイ軍の統制を乱す事になります。

 クリコヴォの戦いと呼ばれる本会戦は、最低の数字をとったとしても中世では稀にみる大会戦でした。

 さて戦闘は、当初からママイ側の優勢で進んでいきました。
 兵備、軍勢の数、相互の連携など兵士たちの技量、各部隊指揮官の練度。全てがママイ側が優れていたわけで、いわば当然のあたり前の情勢でした。
 モスクワ側の左翼はママイの騎兵部隊の猛攻を受けて、ずるずると後退していきました。 右翼側は攻勢にでていましたが、ママイの部隊を突き崩す事はできませんでした。
 ママイは左翼が崩れる様子はなく、中央部隊もママイ側が少しずつモスクワ勢を圧迫していくのを確認すると、中央の主力騎兵から精鋭を分派し、右翼の増援に回しました。
 ママイ側右翼とモスクワ左翼では、騎兵同士の激しい戦闘が繰り広げられました。しかし遂に増援を期にモスクワ左翼は後退して、半ば潰走し始めたのです。
 ママイ軍右翼は、潰走した左翼を追撃すると同時に、敵中央軍の背後に機動しようとしました。

 このまま中央軍がママイ軍右翼騎兵に背後に回られ包囲が完成すれば、勝敗は決するかと思われました。
 ところが中央に向かっていたママイ右翼騎兵は、突如背後から新手の部隊の攻撃を受けたのです。ドミートリイが秘策としてモスクワ勢左翼の側面の森林地帯に、前もって伏せておいた最精鋭の騎兵部隊の奇襲を受けたのです。
 伏兵を率いるドミートリイの兄弟であるウラジーミル勇敢候は、奇襲によって壊乱したママイ軍右翼騎兵を攻め続け潰走させました。

 右翼部隊の潰走は、ママイ軍が戦闘に勝利する機会を失った事を意味していました。
 ママイは部隊を何とか退却させ、痛み分けの結果に終わらせるための戦闘指揮を続けますが、ママイ軍右翼を敗走させ、敵中央部隊への反撃を開始した事で戦局は決定的になりました。
 ウラジーミル勇敢候の騎兵部隊にガラ空きとなった側面を衝かれたジェノヴァ傭兵部隊が中央の戦列を維持できなくなり、逃走を始めたのです。
 主力歩兵が戦場を放棄した事で、ママイ軍は温存すべきモンゴル騎兵が退却する時間を確保する事ができませんでした。
 やがてママイ軍は全軍が敗走状態に陥り、モスクワ側右翼騎兵が追撃を開始します。
 多数の損害を出したママイはクリミア半島に逃亡します。
 軍隊は多数の死傷者を出しましたが、全滅した訳では勿論ありませんでした。
 再起は十分可能でした。
 しかしママイに残された時間はわずかでしかありませんでした。

 一方ロシア諸侯軍の大勝利は、モンゴル不敗神話を完全に過去のものとし、ロシアが「タタールのくびき」から脱け出すための大いなる一歩となったのです。
 この戦いの勝利によってモスクワ公ドミートリイ・イヴァノビッチは、ドミートリイ・ドンスコイ(ドン河のドミトーリイ)の呼び名で歴史上知られるようになり、アレクサンドル・ネフスキーと並ぶモスクワ支配体制の確立者として、不滅の英雄となったのです。
 しかし英雄は、その栄光を長続きさせる事はできませんでした。
 彼に残された時間も決して多くはなかったのです。

 両者にとって死神たるジョチ・ウルス最期の英主トクタミシュとティムールの脅威が、迫っていたからです。

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