頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
 
 
 

 
 

   
ジョチウルス史11 「リトアニアとモスクワ」
  リトアニア軍が去った後、準備を整える時間を与えられたモスクワ公ドミートリイは、再び軍勢を再建できました。
 アルギルダス大公がドイツ騎士修道会との戦争に手足を縛られている事を受け、ドミートリイ公は1370年に反モスクワを掲げていた諸都市を攻撃し、トヴェーリも包囲されました。
 トヴェーリ公のミハイル二世は、アルギルダスに支援を求めて亡命しますが、ドイツ騎士団との戦いが収まっていなかったアルギルダスは支援を行えませんでした。

 ドイツ騎士修道会は東方のスラブ諸族を略奪・虐殺・征服し、民族浄化を思わせる悪辣な植民活動で悪名高く、リトアニアが統一国家として団結できたのも騎士修道会の所業に対する危機感からでした。
 その騎士修道会もフランスによるテンプル騎士団の粛清などをみて危機感を募らせており、歴代で最も有能と言われた修道会総長ヴィンリッヒの下で安定した地域支配体制を築くべく奔走していました。
 修道会はその存続のために異教徒リトアニアへの軍事遠征を定期的に行い、その際の略奪品など実利を餌に西欧の諸王侯からなる軍隊を援軍として得ていました。ヴィンリッヒは軍事的にも諸改革を実施します。例えば地理的に重要な地点には新たに要塞を建設、また既存の城塞の改修を進め、リトアニア軍の迅速な展開を阻害しました。
 また偵察部隊や諜報組織を整備し、常にリトアニアの軍事・政治の動向を把握することに勤めました。
 しかし、これらは遠征におけ進軍と退却の成功率を容易にし、西欧の騎士たちの略奪行に対する魅力を高める事には繋がりましたが、リトアニアを征服し、領土に組み込むことを目的とはしていませんでした。
 リトアニアはそれが不可能なほどの大国となっていたからです。
 これら諸政策は、騎士団国家の維持目的にしており、同時にその限界を示したものでした。
 とは言え騎士修道会は、その高度な情報収集組織を使って、リトアニア軍の動きを常に把握し、リトアニア大公家の内部抗争には常に介入して、その力を削ぐ事に意を用いていました。
 騎士修道会の絶えざる介入、略奪によってアルギルダスは長期の包囲戦が必要となるモスクワ攻略を諦めざるを得なくなります。

 リトアニアが西方の敵に苦戦している事を受けて、トヴェーリ公ミハイルはママイの元に逃亡します。
 しかしママイも彼をウラジーミル大公に任命する勅許状を与えるだけで、兵力を提供することはありませんでした。
 ママイの使者サリ・ホージャとともにウラジーミルに入城しようとしたミハイルでしたが、モスクワ公の軍勢に行く手を阻まれてしまい、城門に達す事すらできませんでした。
 現実的な軍事力を必要とする事を痛感したミハイル公は、またしてもリトアニアに縋る決意をします。ミハイルは、同じくモスクワの攻撃を受けたスモレンスク公スヴァトスラフと共にアルギルダスの元に行きます。
 ドイツ騎士団を退却させていたアルギルダスは、援軍を了承しました。

 1370年年11月、情報封鎖を徹底していたリトアニア軍の行動をモスクワ側は全く掴むが出来ませんでした。アルギルダスが突如、大軍を引き連れ親征してくると、モスクワ側の野戦軍は戦闘にすらならず蹴散らされます。
 ドミートリイ公は再びクレムリンに籠城する事を選択しました。
 ただ今回の籠城は十分な準備を事前に整えていたこともあって、城塞の防衛体制は格段に強化されており、これを見たアルギルダスは早期に攻略を断念しました。さらに、またもリトアニア本国で反乱の陰謀が企てられたと言う情報が、在陣中のアルギルダスの元に届けられます。
 本国の情勢が依然不安定であることを見て取ったアルギルダスは、退却を決意します。
 大公は時間を稼ぐためリトアニア(とその同盟国)とモスクワとの長期の和議を提案しましたが、ドミートリイは拒否しました。アルギルダスは名目的な和平しか得られず、不穏な空気を残したまま撤退していきました。

 年も変わった1371年、モスクワとリトアニアの戦闘がモスクワ優位に進む気配を感じたママイが、再びルーシ政界に介入してきます。ママイの元に逃亡していたミハイルにウラジーミル大公位を与える勅令を再び交付し、サリ・ホージャとともにウラジーミルに入城するよう命じたのです。ミハイル二世は、これを背景にウラジーミルに入城しようとしますが、市民がこれを拒否してしまいます。モンゴル勢力の直接介入と徴税を恐れた市民が、モスクワ公に味方したためでしょう。この間にドミートリイ公はママイの元に自ら伺候して、サリ・ホージャとママイに莫大な賄賂を送り、ミハイルに出された勅令を撤回させることに成功します。

 モスクワはこれまでの経緯を反省し、さらに対策を立てる必要を感じたようです。
 まず国境の監視網を強化して、リトアニアの軍事行動を把握するように改革を加えます。またママイの介入阻止のためにサライとも接近しつつ、賄賂攻勢を強めました。宗教的にはコンスタンティノープル大主教府と連携し、リトアニアの正教への介入を阻止し、また和議をモスクワ優位に進めるよう企てました。

 1372年トヴェーリ側が、今度はモスクワに友好的な態度をとったノヴゴロドに攻撃を仕掛けました。ノヴゴロドの穀物交易センターでもあったトルジョクなど、トヴェーリに近い幾つかの都市や町に軍勢を送り、ノヴゴロド軍を敗走させ周辺地域を劫略しました。その後アルギルダスも軍勢を引き連れてトヴェーリに現れ、三度モスクワ攻撃に向かったのです。
 しかし今回は情報を把握していたモスクワ側が対抗できる軍隊をかき集めることに成功しました。1372年半ば頃、
モスクワ公ドミートリイ率いる軍勢はリトアニア・トヴェーリ連合軍をリュブツク近郊で補足、敗退させました。
 とは言えアルギルダスも軍組織が解体するような決定的な敗北を喫したわけでもなく、モスクワ側の被害も甚大でした。こうして両国間でまたも一時的に講和がなされ、両軍は兵を引きました。
 アルギルダスは強固な防衛体制をモスクワが、すでに築き上げたことを認めざるを得ませんでした。本格的な和平を模索していた両国は、1374年にビザンツ帝国の介入の元、新たな講和条約が結ぶ事になりました。
 アルギルダスは大幅な方針転換を決意し、ドイツ騎士団との決戦へと歩を進めることになります。
 トヴェーリも占領していた諸都市から撤退し、モスクワ公も捕虜となっていたトヴェーリ公の息子を解放して和議を結びました。
 勝利したモスクワはルーシ統一のため、さらなる攻勢に出る準備を整え始めます。またリトアニアとの会戦に勝利した直後からママイへの貢納を停止していました。
 
 ママイはモスクワが自立を決意したことを感知し、またもミハイル二世を擁立する挙にでます。トヴェーリ側が送ってきたモスクワからの亡命貴族の情報も、ママイの懸念を増すものでした。モスクワ公は自分の権力を拡大して、自領土内の有力者を圧迫していたからです。
 ママイはミハイルを使者にウラジーミル大公とする勅書と1000騎程の軍勢を与えて、スーズタリ公の拠点ニージニイ・ノヴゴロドに赴きました。スーズタリ公とモスクワ公の同盟を強制的に破棄させ、モスクワ勢力に楔打ち込むためです。しかし同市の市民は、入城したママイの使者と軍隊に襲いかかり、これを多数殺害する挙に出たのです。スーズタリ公は市内にいませんでしたが、この市民を行動をママイに謝罪することをせず、黙認しました。モスクワ公との同盟を維持する意思を表明したのです。
 ところがママイはこの暴挙にしばらく対応できませんでした。1372年初めから1374年頃までは、サライの主権者が判然としない時期でした。おそらくママイがサライを軍事制圧していたか、または占領を企図してシバン家と抗争をしていたと思われます。
 ところが1374年半ば頃からチェルケス汗が、その後エルベグ汗などシバン家の汗達がサライを支配していることが確認されるため、ママイは敗北して撤退していたと思われます。
 そのためママイはロシア介入する余裕を失っていたようです。

 一方ミハイル二世はリトアニアに滞在して、援軍を要請していました。和平がなったばかりにも関わらず、リトアニアはこれを了承していたようです。さらにサライ政権のカーンベグ汗とも接触し、援兵を嘆願していたようです。ママイとリトアニア、サライ政権の援軍を確保したと考えたミハイル二世は、1375年7月軍事行動を開始します。
 しかしリトアニアもママイも軍勢を送ることはしませんでした。リトアニアは和議を遵守する選択し、ママイはサライ政権との抗争で動くことができませんでした。カーンベグの政権も決して安定せず、東方に勃興したトカ・テムル家の攻勢に加えて、シバン家の内輪もめが足を引っ張っていたようです。
 さらにルーシ諸侯は悉くモスクワ側につき、万策尽きたトヴェーリは屈辱的な和議を結んで膝を屈しました。モスクワは宿敵トヴェーリを叩いて完全に屈服させることに成功し、この和議で実質上の属国としました。長きにわたる両国の抗争の歴史は、ここに終止符が打たれたのです。

 一方のリトアニアは決してロシアへの軍事拡大を諦めたわけではありませんでした。しかし西方問題が片づかなければ、単独ではモスクワを征服することは難しい事は明らかでした。アルギルダス死後、新たな大公となったヤガイラスは、モンゴルとの同盟に活路を見い出しました。
 当方問題を一段落させたママイが動き出したからです。

Copyright 1999-2009 by Gankoneko, All rights reserved.
inserted by FC2 system