頑固猫の小さな書斎

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ジョチウルス史1「〜賓客ジョチ〜悲劇の皇子〜」

 13世紀、モンゴル帝国の創始者チンギス汗の長子ジョチとその息子たちが、カザフ草原を中心に成立させた広大な王国を、現代は歴史用語で「ジョチ(またはジュチ)ウルス」と総称している。最近では「ウルス」がモンゴル語で「人の集まり」を意味することから、我々の知る「国家」にもっとも近い意味で用いられていたと解釈して、モンゴルの系譜を引く諸国の名称に用いられている。
 この「ジョチ一族所有の集団」はユーラシア国家と呼べるほどの領域を直接、間接に支配し、後のロシア帝国の実質的な下敷きとなった点で、非常に重要な存在であった。にもかかわらず、ロシア帝国、ソビエト連邦治下において否定的にしか評価されず、欧州優越主義的な歴史記述の歪曲、もともと少なかった資料の散逸、研究の遅れなどにより、よくわからない点や誤解は多い。以下はこの草原の帝国を通史的に記述し、全体像を理解する手助けとなるようにしたものである。
 チンギス汗の長子で、ウルスの総祖たるジョチ(ジュチ)は、父同様生年がはっきりしない(チンギス汗の生年は1155年説、1161年説、1162年説、1167年説とあり定かでない。実はすべて信憑性に乏しい)。様々な文献の内容を総合すると、おそらくジョチは1180年前後に生まれたと思われる(1177年や1184年とするものもある)。チンギスの妻ボルテがメルキトに攫われ、後に解放された時期をいつにするかによるのであろう。また亡くなった時も定かでない。ある15世紀に書かれた資料によると1227年2月に、つまりチンギス・カンの亡くなる6ケ月前に亡くなったとする。これが一般的な説であるが、1226年春とするものもある。基礎資料であるラシードの「集史」には記述がない。集史はチンギス汗の生前に若くしてで病死(暗殺?)したことだけを伝えている。
 その人物像も全く霧の中に包まれている。ただ、いくつかの逸話が示すように後世の人々は、彼を悲劇的な人物として描いている。
 彼に係わる数ある史話のうち最も有名なのは次のものであろう。即ちジョチは確かにチンギス汗の大后(イェケ・ハトゥン) 第一の位にあったオンギラト部族のボルテ・フジンの生んだ第1子であった。しかしボルテ・フジンがジョチを懐妊しているとき、彼女自身はチンギス汗(当時はテムジン)と敵対していたメルキト族に連れ去られ、しばらくの間抑留されていた。そのためボルテ・フジン帰還後に生まれたジョチは、正夫人の長子であるにも係わらず、チンギス汗を含む人々に出生に関して疑問をもたれ、メルキトの種であるという噂を流された。名前も「客人」、「賓客」を意味するジョチと命名され、暗黙のうちにチンギス汗の後継者から外されたのである・・・というものである。
 この話はチンギス・カンが本当にジョチの出生を疑っていたかどうかが、問題になる。しかし彼がチンギスの子でないかどうか出生の日を逆算すれば分かることである。加えてボルテが解放された帰還途中に思いもかけず生まれたため、賜りもの、賓客という名を与えられたとする以下の記述もある。
 集史ジャライル部族誌とメルキト部族誌よると・・・メルキト族が好機を捕らえてチンギス汗のオルドを略奪した時、ジョチを身ごもっていた彼の妻(ボルテ・フジン)を奪った。その頃メルキトとオン汗(当時最も歴史が古く、有力だったケレイト部の族長トオリル汗のこと。チンギスは彼に仕えた将軍の一人であった)との間は関係が良好であったので、メルキト族はその妻をオン汗の元に送った。オン汗はチンギス汗の父と友誼のある関係であったことから、チンギス汗を我が子と呼んでいたので、彼の妻を自分の嫁として扱い、自制ある態度と憐憫の情をもって彼女を見守った。(オン汗配下の)アミール達は、彼女を納めるべきだと言ったが、オン汗は「我が家の嫁である。不実の目で見てはいけない」と答えた。チンギス汗は知らせを受けると、サルタク(集史の書かれた時代、ガザン汗治下のフレグ・ウルスの武将)の祖父ジャライル部族のサバを妻を引き取るために派遣した。オン汗は(サバを)丁重にもてなし、チンギス汗の妻を彼に渡した。一行はチンギス汗の元への帰途についた。途中でジョチが生まれた。道中は危険であり、泊まる場所とてなく、ゆりかごの準備もなかったので、(麦の)粉で柔らかい練り物を作り、それで(ジョチを)くるみ、自分の裾に包んで手足が傷つかないように大事に運んだ。思いもかけず生まれたので(チンギスは)彼を(「賜り物」の意味を持つ)ジョチと名づけた。
 これに対して元朝秘史では、メルキト部族のチルゲル・ボコと言う人物がボルテを妻としていたが、オン汗の援軍を得たチンギスがメルキト族を襲撃し、力で奪い返したことになっている。このあたり元朝秘史の方がジョチの出生をぼかした書き方をしていると言えよう。物語的な脚色の多い秘史よりも集史の記事のほうが一般に信用がおけることを考えると、ジョチの出生に関する秘密など実際はなかったと考えるほうが妥当であると思われる。しかし悪意ある噂が流されたのもまた事実であると考えられる。総合するとジョチへのチンギス汗への待遇に特に隔意があったとは思えないことから、結局、この伝承はジョチを後継者にすまいとする人々(チャガタイ汗周辺の人脈?)の流した中傷であり、チンギス汗は出生に疑義を持っていなかったと言う意見が最も納得のいくものとなる。ただしジョチ自身や周囲の人々がどう思っていたかは別問題であり、彼を後継者とする雰囲気がモンゴル・ウルス内にはなかった様にも思われる。
 とするとこの噂には、やはりチンギスが係わっていたのではないかと思えなくもない。チンギス汗はよく知られている事であるが、血縁者、親類の類は極力重職に付けなかった。彼は出身氏族たるキヤト氏族など身内を信用しなかったのである。彼が軍隊の指揮官としたのは「臣下」として能力と忠誠を示した他の部族出身者ばかりであった。いわゆるノコル達である。父イェスゲイの死後の若い日々、この辛酸を舐めた時期に、財産を奪われるなど親族の冷たい仕打ちを受けたためと思われる。実際キヤト氏族の十三翼の軍勢の指導者達は、チンギスを裏切るものが後を絶たなかった。彼らは自分達の権力を制肘する強力な君主を忌み嫌っていたのである。モンゴル統一以前で、親族の中で独立した一軍を任されたのは弟のジョチ・カサルのみである。しかもジョチ・カサルは、成人後は兄の元を離れ、自立した勢力を持っていたとも言われ、チンギスとの合流後もモンゴル部族の長の座を窺い得る存在として、警戒されていたと思われる。実際、チンギスは即位後、息子や他の弟達に部隊を与えたが、息子達が各々4000人であるのに対して、1000人の部隊しか与えられていない。従来の部下達がいたためとも考えられるが、やはり猜疑の目で見られていたのであろう。ジョチ・カサルは金国侵攻作戦中の1213年に戦没しているが、カモフラージュされた暗殺であった可能性も高い。
  ジョチはチンギス汗の息子たちの中で、最も独立志向が強かったと伝えられている。若くして一軍を任せられ軍事的見識、経験もあった彼としては、中央で実現性の薄い後継者の座をめぐって争うよりも、独自の勢力を保ち距離をおいたほうが安全だと思ったのかもしれない。と言うより、父の生前にすでに自立していたと考えたほうが自然であろう。
 ジョチは主にムスリムの著述家によって、父や他の兄弟に比べ、激高することがなく、冷静沈着で寛大な人物として記録されている。彼の息子ベルケ汗がモンゴル王族で最も早くイスラームに改宗した事もあると思われるが、その記述は、総じて好意的である。また、すぐ下の弟チャガタイとは犬猿の仲であったとも伝えられるが、基本的に血族内での争いは回避する傾向にあり、父の王国全体を考えて行動し、時には殺伐が過ぎると父や兄弟たちの戦いぶりに批判的であったという。チャガタイとの言い争いにおいても、先に引き下がるのは彼のほうであったと伝えられている。また晩年、新たに自分の領民となったキプチャクの人々を保護し、またイスラームに理解を示して、息子のベルケがイスラームに帰依することを許したともいう。
 これらはイスラームの史家によって後世に作られたイメージであって、実際のジョチの性格や思想を伝えているわけではない。ジョチがイスラームに強い関心があったとも思えない。またモンゴル族全体のことを思って、自重したとも思えない。どちらかというと父の命令を無視する傾向にあったように思える。略奪や破壊を抑える傾向にあったのも自立した際に、自身の経済基盤になる領域の保全のためであろう。それゆえに結果として軍事における行動は、無理な攻勢を行わず、交渉も重視し、自軍や攻撃対象たる都市の施設、住民の被害を最小にとどめるよう考慮していたのであろう。もちろん、それは他のモンゴル将師に比べてみてということではあるが、彼が交渉力に優れた政治家であった一面を物語っている。

 

 さてジョチの人生は、記録に表れる範囲において、基本的に父とともに戦いに明け暮れる生涯であったと言える。
  1206年、前年ナイマン族を破り全モンゴルの君主として即位しチンギス汗と称したテムジンは、宿敵であったメルキト族とナイマン族の生き残りである王子クチュルクらを追って、イリティリュ河流域に侵攻した。イリティシュ河上流域にはアルタイ山脈が鎮座し、その周辺がナイマン族の本拠地であったからである。チンギス汗率いる軍団は、その途上にある諸民族を次々と傘下に入れていくことになる。
 元朝秘史によると1207年、チンギス汗はジョチを司令官として右の手(右翼)の軍勢を差し向け、「森の民」を討伐したとされる。この「森の民」はセレンゲ川の北(バルグジン・トクム)に居住していたバルグト諸族やバルグト族の一派でやや西側のアンガラ河流域に住むトマト族、イェニセイ河流域に住むキルギス族、イェニセイ河上流(八河地方、セキズ・ムレン)に居住するオイラト族などを指す。これらユーラシア北方民族の討伐戦は前記のナイマン討伐途上で行われたもので、最も有力なオイラト部族の長クトカ・ベキが帰順したことで特に大きな困難なく、チンギス汗の勢力に吸収された。クトカ・ベキはナイマンとの戦いにも貢献し、ナイマン王子クチュルクはカラ・キタイに逃走、メルキトの残党はキプチャク草原に消えていった。かくてイリティシュ河流域はチンギス汗のものとなり、オイラトのクトカ・ベキは以後モンゴル帝国において準王族的な扱いを受けることになった。クトカ・ベキの息子トレルチはチンギスの娘チチガンの夫となり、その諸子はチンギスの息子たちと縁戚を結んだのである。ジョチ家との関連でいえば、ジョチがこの戦役の褒章として森の民の大部分を自らの族民として与えられる関係であろうか、自分の娘クルイ・エゲチをクトカ・ベキの息子イナルチに嫁がせている。またトレルチの娘がジョチの孫、バトゥの次子トガンに嫁いでいる。 
 こうして後方の憂いを取り除いたチンギス汗は1208年にタングト族の国である西夏討伐を行った。西夏軍は激しく抵抗したが、1209年に西夏の防衛の要であった中興府が水攻めにあい陥落、夏王李安全は屈服した。また同じ年、西方のホラムズ・シャー軍に敗れ、勢威を失いつつあった宗主カラ・キタイを見限った天山ウイグル王国が、モンゴルに服属を申し出た。
 1211年初頭、チンギス旗下の猛将クビライ率いる軍がナイマン、メルキトの残党を追ってカラ・キタイ領土内イシック・クル湖周辺に姿をあらわす。その周辺で遊牧していた天山カルルク王国のアルスラン汗は、カラキタイの総督を殺害してモンゴルに服属を申し入れ、またイリ河周辺の有力者でアルマリクを支配していたブザルも降伏した。ブザルの息子スクナーク・テギンにはジョチの娘を妻として与えられた。
 クビライ軍は、そのまま西方には赴かず、チンギスの金王朝攻略に随行するために東に帰った。
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