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正統ハリーファ伝12:「ヤルムークの戦いその2」

ジャービヤ=ヤルムークの決戦その2

 最終的な決戦は636年8月15日に始まったとされる。
 なお以下の大まかな流れは私の推定がかなり入っており、実際の戦闘の流れを正確に書けているかは保証しかねる事を御了承願いたい。

 まず対峙した両軍をハーリドもヴァーハーンも歩兵の戦列を4隊に分けて並べ、各々の後方に騎兵を配置して援護させた。両翼の部隊を機動させて間隙を作り、そこから戦列を突破させようと一進一退の戦いを繰り広げたと思われる。

 初日は、小競り合い程度であったと思われる。ハーリドは部隊を少しづつ後退させて攻勢を誘ったが、ビザンツ軍は敢えて強襲をする事はなかった。
 戦闘は日が暮れると終結し、ハーリドは夜の内に陣形を再検討した。彼は敵の主攻勢は中央にあると考えて歩兵を強化し、両翼は予備騎兵によって対処する方針を固めた。

 2日目。中央の歩兵同士の戦いは膠着状態であったのに対して、両翼はビザンツ側の優勢で戦いが進んだ。イスラーム側の部隊の一部が後方陣地に逃亡する有様であった。
 しかし、アラブ側の両翼の歩兵は後退したものの、中央部は踏み止まったために、ビザンツ側の両翼と中央の間に間隙が生まれた。ハーリドはこの間隙に予備の騎兵を投入して、まず自軍の右翼を立て直した。予備騎兵がビザンツ左翼歩兵の右側面に入って挟撃して、これを後退させたのである。右翼を立て直すと、ハーリドは予備騎兵を呼び戻して、左翼へ同様に送り込んだ。左翼の反攻はより成功を収め、ビザンツ指揮官は戦死した。
 しかし瓦解するまでには至らず、両軍は日が暮れると共に戦闘を中断した。

 3日目は、イスラーム側の右翼は偽装退却して誘い込み、戦列が乱れた所にハーリドは予備騎兵を投入して、ビザンツ側に損害を与えた。この頃からビザンツ左翼は士気が下がり、特にキリスト教徒アラブ兵の動揺と逃亡が著しかったと推定される。訓練不足で指揮官のコントロールが行き届かず、敵の陽動に簡単に乗って損害を増したのであろう。

 4日目も同様に戦術が取られ、またもビザンツ軍左翼が突出して、イスラーム側の反撃を受ける事になった。十分にビザンツ側に損害を与えたと考えたハーリドが、さらに戦果を拡大しようとした時、ビザンツ側は予備の弓騎兵による側面援護射撃を行って反撃を頓挫させ、イスラーム側に甚大な被害を与える事に成功した。この被害が予想以上であったため、作戦変更と決戦をハーリドは決意したと考えられる。

 5日目になると、ヴァーハーンは再びイスラーム側と交渉を持った。ハーリドは拒否をするつもりであったが、作戦準備のため回答を保留した。夜間にハーリドは少数の騎兵を秘密裏に右翼から抽出して、後方に回り込ませた。ビザンツ側の後方連絡線を断つためである。また残りの騎兵も大部分を右翼後方に配備した。

 6日目の戦闘が開始された時、ヴァーハーンは、敵の騎兵戦力の集中と配置の変更に気付き、自軍左翼と中央の騎兵を再編成して迎撃させる必要が生じた。
 イスラームの迂回部隊はダマスカスに至る退却路でもあるルッカド河の橋を制圧しており、ビザンツ軍は後方の陣地と分断される形となった。
 ハーリドが準備を整えて戦闘に入ったのに対して、ビザンツ側の重装甲騎兵部隊は編成にもたついていた。この間にイスラーム騎兵部隊が猛攻を開始し、右翼側面から回り込む事に成功した。ビザンツ帝国の左翼歩兵部隊は騎兵部隊と分断されて孤立し、ハーリドはこの歩兵部隊を集中的に攻撃した。ビザンツ側も自軍右翼の騎兵部隊を左翼の援護に向かわせたが間に合わず、ビザンツ騎兵は壊乱し、左翼歩兵部隊は壊滅した。
 ビザンツ軍は全面後退の混乱に陥った。
 イスラーム左翼も、ビザンツ軍を包囲すべく機動し、両翼包囲の形を採った。
 橋を奪われたビザンツ軍は退路を確保できず、そのまま包囲された。
 陣形も整えられず、組織的な退却戦を行う事もままならず、追い立てられて行ったのである。
 多数の兵士と騎馬が、河川に追い落とされ戦死した。
 ただ全体で数万の死傷者が出たとも言われるが、実際は全軍壊滅とまでは行かなかったようである。
 しかしながら太古のカンナエの戦いに匹敵する完敗であった事は間違いない。
 ビザンツ東方軍団は、事実上消滅したのである。

 ビザンツの将軍ヴァーハーンの敗因は、戦果が挙がってもこれを拡大させる事が出来ず、交渉を常に伺っていた事にある。
 これは彼の責任と言うよりも、皇帝の意向であったために仕方がない所である。
 通常は長期戦となれば防衛側が優位となるのは自明の様であるが、今回のアラブの侵攻戦に限ってはそうはならなかった。
 シリア民衆の帝国との乖離もあるであろうし、アラブ軍の結束力や戦略がビザンツ側のそれを上回った事もある。
 また多民族が生活する諸地域から集められたビザンツ帝国軍団兵や指揮官には協調性がなく、個々に勝手な判断で突出したり後退したりするなど、総指揮官の意向を守らない上級指揮官がいた事も敗因である。
 これはビザンツ帝国の弱点として後世でも同様の事態、失態を招く事があり、帝国軍のアキレス腱であり続けた。
 前線でヘラクレイオス皇帝自身が戦って情勢を目の当たりにしていれば、結果は違っていたであろうが。

 また周辺に関する情報が不十分で、後方に少数ながら敵部隊の浸透を許してしまった事もある。戦場となったこの地域はアラブのホームグランドであり、ガッサーン朝崩壊後はビザンツ帝国にとって半ば敵地に近い状況であった。そのため戦闘は常にアラブ側が情報戦では優位となった。後に戦場が帝国中枢部に近くなると逆の状況が発生し、侵攻したアラブ軍は小アジア防衛のビザンツ軍の急襲や奇襲に翻弄されることになる。
 
 装備・戦術の点から考えると、ハーリドの様に予備の騎兵、歩兵部隊を旨く運用出来なかった事も問題であろう。。
 これはビザンツ騎兵と歩兵が重装備過ぎて、機動性に欠けた事も一因であろう。後の帝国軍は重装騎兵と弓騎兵の分化が進むが、これはサーサーン朝、スラブ諸族、アラブ騎兵との戦争の結果得られた戦訓によるものと思われる。

 敗戦によってビザンツのシリア現地部隊は、壊滅的な打撃を受けた。
 この時点で、ビザンツ帝国はシリアの一時的な撤退を決めた。
 しかし、その後奪回が容易でないことを理解すると、ヘラクレイオス帝は軍事的リアリズムに従って、東方全地域の放棄を決定した。
 勿論、ゆっくりと時間をかけてである。
 辺境の守備部隊は大幅に削減され、最終的に帝国陸軍はおおよそ半分の15万程度となった。その大半は正規兵であったため、質的な点では維持されていた。彼らはタウロス山脈によって小アジアの防衛体制を整え、後方にも基地をおいて縦に深い新たな防衛体制を築いた。病身の皇帝は641年に死亡するまで最期の力を振り絞って、帝国が後々800年も生き残る体制を再構築していった。

 一方アラブ側も問題をいくつか抱えていた。
 占領地に関する利権が、その最も懸念される問題であった。アラブ軍人の内、指揮官クラスのものは、土地を略取し税を納めなかったのである。
 アラブ兵の利益を代表するハーリドが ウマルによって罷免されたのも、この問題と重なっていたし、ウマル自身の暗殺も同様であった。
 
 アラブにとって幸運な事にビザンツ側は、抗戦の意思と実力を失っていた。
 ヤルムーク戦までは長期化すればアラブ勢力が撤退する可能性が高いと判断していた(塹壕の戦いの如く)ものが、目論見が外れアラブ人勢力の団結力や組織力が全く違うイスラーム勢力の実力知る事になったからである。ブルガール人の侵入などバルカン半島側の危急の事態もあって、皇帝は両面作戦は無理であると奪還を断念していた。
 638年、包囲されたイェルサレムに対してウマル自身が出馬し、総司教ソフロニウスと交渉が行われた。
 この結果、条約が結ばれイェルサレムは降伏する事を選択したのである。
 しかし戦闘は滞り始めていた。
 シリア沿岸部の都市はカルケドン派も多く、海上補給も容易であったために比較的長期の抵抗が見受けられたのである。またウマルと親しい教友アブー・ウバイダが再び主将となったものの、シリアで流行したペスト(天然痘?)で639年に死去、ヤズィードも病死した。軍団兵も当然減少した。
 新たに指揮官となったムアーウィアは残りの軍団を結束させ、シリア軍団の信頼を得る事に奔走しなければならなかった。だがこの時代の苦労が報われ、後の王朝創始に繋がるのである。こうしてアラブの包囲攻撃は継続され、カエサリアも皇帝の死去に伴い士気が低下し、屈服を選択した。


 こうしてムアーウィアの尽力によってシリア征服は、ほぼ完遂された。
 住民の退避などで空白地帯となったジャズィーラ地方には、カイス系諸部族が移住して、シリア総督となったアブー・スフヤーン家との結び付きを強めていった。
 ウマイヤ家を支えるシリア軍団が産声を上げたのである。

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