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正統ハリーファ伝11:「ヤルムークの戦いその1」

ジャービヤ=ヤルムークの決戦その1

 アジュナーダインでビザンツ帝国軍を撃退したハーリドは、最重要拠点であるダマスカスを包囲した。

 ペラ攻略の後、アラブ諸軍はシリア中部に北上する。最大の目標はダマスカスであった。
 中央シリア首都とも言うべきダマスカスは、頑強な抵抗の姿勢を示し6ヶ月包囲に耐えたが、都市内部の不満分子が内応したために遂に陥落した。
 内応者の情報に基き、祭りで門衛が手薄となった日を狙って東西南北の四つある門のうち二つが内側から開けられ、突入したアラブ軍によって制圧されたのである。
 635年の8月末から9月の事である。
 ビザンツ帝国の支配に不満であった単性派のアラブへの協力の例であると考えられる。
 しかし伝承でダマスカスを裏切った人物マンスールは、教父ダマスカスのヨハンネスの祖父であったと言われている点は興味深い。
 ダマスカス陥落後、占領地拡大を目指したイスラーム軍によってシリア最大の軍事基地であったと思われるヒムス(エメサ)も636年に陥落した。
 ヒムス駐留軍はイスラーム軍が冬の到来で撤退する事を期待していたが、彼らは越冬して包囲を続けその希望を打ち砕いた。
 そこでビザンツ軍は逆に打って出て奇襲をかける事を選択した。
 この奇襲は成功し、イスラーム攻囲軍を敗退寸前まで追い込まれる結果となった。
 ハーリドの采配で何とか持ち直したものの、ヒムス城塞に撤退するビザンツ軍を追撃する事も出来なかった。
 アブー・ウバイダはそのまま包囲を続ける事は危険と判断し、ハーリドは偽装退却を行って籠城軍を誘い込む策を講じた。
 追撃してきたビザンツ騎兵部隊は、待ち構えていたハーリドによって包囲殲滅させられたのである。
 この敗戦でヒムス軍も抵抗を諦め、和約を結んで降伏した。
 ちなみにヒムスは後のハーリドの隠棲の場となり、その墓所がある事で知られている。
 
 ヒムスが陥落すると、シリアの諸軍の士気は低下し、バールベックなどの他の重要都市も次々と降伏した。
 これは在地のビザンツ軍がアラブ部族民やシリア外の人間によって構成され、地元民の兵士が少なかった事が一因であろう。再占領されて数年しかたっていないため地域の自治的な武装組織がなかったのである。おそらく反乱を恐れた事もあったと思われる。
 しかし、その結果ビザンツ主力軍が去った後には、その軍事的空白を埋める人材が存在せず、シリアには都市独自の強力な軍事力を持つ状態に至らなかった。シリアの諸都市は、抵抗する武力もなく無防備となっていた。そのため都市は、アラブとスルフを結んで降伏する以外の選択肢がなくなってしまったのであろう。

 シリアをサーサーン朝から奪還した後、ヘラクレイオス帝は宗派間の妥協を模索したが旨く行かず、皇帝の宗教政策は行き詰っていた。またシリア防衛体制再編のための軍隊への供出金も民衆にとって負担になり、不満が渦巻いていた。
 アラブの侵攻がなかったとしても、シリア・エジプト地域に単性派が分離独立し、第三、第四のローマ帝国が生れていた可能性は極めて高かったであろう。
 それがたまたまイスラームの帝国となっただけであったとも言える。


 そしてガラリヤ湖の東南部、ヨルダン川支流に位置するヤルムーク渓谷とジャービヤの間で、シリアの運命を決した会戦が行われた。
 世界帝国としてのビザンツ帝国を、実質的に崩壊させたヤルムークの戦いである。
 アンティオキアで病気療養していたヘラクレイオス帝は、シリア諸都市の陥落に暗然とした思いを抱いて過ごしていたと思われる。皇帝はアンティオキアとエデッサに駐屯している正規兵を中心に、シリアとイラク北部の各都市から防衛部隊を抽出して編成した東方軍。アルメニアから呼び寄せた軍団。アラブ遊牧民からなる軍団を編成した。またサーサーン朝からの投降兵も含まれていた。東方軍団はサッケラリオス(皇帝手元金管理官長、財務大臣に当たる)のテオドロスである。この人物は皇弟のテオドロスとは別人である。またアルメニア軍団はヴァーハーン、アラブ軍団はガッサーン朝の王族ジャバラ・ブン・アルアイハムが率いていた。
 ただ総指令がヴァーハーンであったかテオドロスであったかはっきりしない。おそらくはヴァーハーンが作戦指導を行っていたと思われるが、テオドロスとの対立があったようである。つまりビザンツ軍は寄せ集めの感が否めなかった。各軍団内部も協調性を欠いていたといわれる。また情報収集能力の不足から陽動作戦によって混乱する場面がみられ、戦場を相手に常に選ばせることになった。
 
 一方、ビザンツ軍の集結と進撃を知った総指令官アブー・ウバイダは、ヒムスとダマスクスを放棄して分散していたムスリム軍を集結させた。
 そしてビザンツ軍は数ヶ月をかけて各都市を再征服しつつ、ゴラン高原を越えた。
 その間にアラブ軍はビザンツ帝国を迎え打つ適所を選び、十分に調査を実施していたと考えられている。
 双方が牽制しつつ機動した結果、最終的に戦場に選ばれたのがガッサーン朝の本拠であったジャービヤの南方である。
 ジャービヤはアラブ商人にも縁のある交通と交易の拠点であり、クライシュ族はその地勢や気候に詳しかった。この周辺の河川や渓谷を含む複雑な地形は、大軍を迎撃するのに最適な地であった。がビザンツ側からすれば防御に適した地勢でもあった。
 ハーリドは、ビザンツ軍をゆっくりと誘い込んで、河川が入り組んで存在する地域に戦場を設定して行動の自由を奪い、撃滅する方針であった。そして、その思惑通りとなったのである。

 ヤムルーク河畔で両軍が対峙したのは636年の6月であった。
 ビザンツ側は過去の経験から大軍で圧力をかけつつ長期の対陣すれば、アラブ側の士気が落ち、自然軍隊組織が瓦解すると考えていたと言われる。
 しかし宗教的熱狂に支えられたヒジャーズのアラブ兵は、長期の対陣でも士気は衰えず、逆に雑多な集団であるビザンツ側に混乱が見られ始めた。沙漠の環境に不慣れなアルメニア兵などが不満を言い始め、アラブ兵達も元来士気が高くなかった事に加え、長期滞陣を批判し始めた。各地域の部隊同士も意見の対立が表面化した。
 瓦解の危機はビザンツ側に訪れたのである。
 そのため早期の会戦で決着する方針に変更したと推定される。
 アラブの陽動に対して、対応する形で防御に有利な地形を選んで部隊を動かしたのである。
 サーサーン朝との戦いで、多民族の兵士からなり、重装備で機動性を欠く部隊との戦闘に経験が豊富であったハーリドは、ビザンツの方針変更は予想の範囲であった。
 ビザンツの攻勢は最初からうまくいかず7月23日には先鋒部隊であるテオドロス率いる部隊が、敗れ退却している。
 そのためビザンツ側は軽率な行動を再び慎むようになった。
 常にビザンツ側からの使者が行き来して和平交渉が行われたが、イスラーム側は拒否をして、シリア征服の達成を目指した。

 ハーリドはビザンツ側を陣地から誘き出す必要があった。ビザンツ軍を河川に囲まれた峡谷地帯を利用して防備を固めていたからである。
 ハーリドは軍隊を大幅に後退させて、ビザンツ側を誘い出す事を再び試みた。
 遂に決戦を企図したヴァーハーンはこの誘いに乗って、主力部隊を峡谷地帯から平原部への入り口付近に進出させた。

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