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正統ハリーファ伝10:「ウマル1世即位」

ウマル・ブン・アルハッターブ(586から592年頃の11月5日生?〜644年11月3日または7日没、在位634年8月23日〜644年)

 第二代ハリーファ=ウマルはムハンマドの教友の中で最も重要な人物であり、世俗イスラーム国家の基礎を確立した稀有な政治家である。
 彼は、ムハンマドの伝道初期は反対派の急先鋒であったとされる。しかし、やがて改心して熱心なイスラームの徒となった。
 ハディージャとアブー・ターリブ死後に、政治・経済的にムハンマドを支えたのは親友アブー・バクルと、このウマルであった。
 特にウマルは二人が亡くなった同年にムスリムとなり、マディーナ時代のムハンマドを政治的に支える重要人物となった。
 元々は反ムハンマドの急先鋒であったと言われる彼が、突然転向して敬虔な教徒に変貌した事件は奇跡のように語られる。
 しかし改心後の彼へのムハンマドの信頼は揺るぎなく、かつ徹底していた。
 もしかすると妹など近親者がイスラームに初期から入信していた事などから、彼自身もすでに初期から入信しており、ただし政治的理由から表向きは信仰を隠していただけだったのではないかと思える。
 つまり元々ムハンマドのブレーンで、彼のイスラーム批判は擬態であり、宣教の計画の一部ではなかったのでは?と言う推測も成り立つ。
 まあ妄想はともかく、実際にウマルは共同体の諸制度を創始した建国者と言えるだろう。
 公平である事を重視し、決して妥協しない強固な意志の持ち主であり、暗殺されなければ随分とイスラーム世界も違っていたかもしれない。
 またクルアーンを結集して、現在の形にしたのも彼の治世になっていただろう。

 アブー・バクルは亡くなる前にウマルを後継者の指名した。長老クラスの人物で、問題なく指導者として認められる人物は、彼とシリア出征中のアブー・ウバイダぐらいであったので、順当な選択と言えた。
 そのためか、この継承は特に異議申し立てはなされなかったようである。
 ウマルは自身を、神の使徒の代理人の代理人(ハリーファ・ハリーファ・ラスール・アッラーフ)と名乗った。後に単にハリーファと省略される事になる。
 ただ煩雑なこの名称より、軍の指揮官と「信徒達の指揮官」を意味するアミール・アルムウミニーンと呼ばれる事を好んだ。この称号の採用は、軍の指揮官たち(おそらくアムルかムギーラ)が、そう呼んだ事がきっかけであったと考えられる。
 アミール・アルムウミニーンの称号は、実質的に後のハリーファ達の正式称号となっていく。

 アブー・バクルの跡を継いだウマルが最初にした事は、シリア軍の指揮権をハーリドから奪う事であった。ウマルとハーリドは不仲であったとされる事や、イラクの征服地のアラブ達に支持層を持つハーリドが西方でも大軍の指揮権を握る事は危険であると考えたのであろう。謀将とも言えるアムル・ブン・アルアースが、後にエジプトで半ば独立した勢力になった事を考えると、ウマルの懸念も仕方がない所であった。

 内政面では、各地の占領地帯の統治の問題に追われた治世であった。
 征服地はアラブ軍駐屯地として設営された軍営都市(ミスル)を中心に、徴税のみが中央政府の業務と連結して整備された。徴税業務のために設置されたのがディーワーン(台帳の意味。転じて税務と年金管理を行う役所を指す)であり、集めた税金を年金(アター)として、アラブ軍人や支配層に再分配する役目を与えられた。
 地方行政の大半は徴税機構と人材を含めてビザンツやサーサーン朝時代のものを、そのまま継承した。司法も同様であり、軍営都市に派遣された総督が裁判を実施する場合も、ほとんどがアラブ人の起こした問題に限られたようである。
 イスラームの司法制度は、後世にビザンツ帝国のそれにサーサーン朝の宗教的要素を含む司法システムを加味して枠組みが作られ整備される。しかしウマイヤ朝時代まで、ハリーファの裁量権の枠組みが判然としなかったため、皇帝が絶対的権威を持っていた二つの帝国時代と違い、司法に関する問題は何回かの大きな揺らぎを経験する事になる。
 ウマルはカーディー(裁判官)を各地に派遣したと伝承されているが、これは司法専門の職ではなく、総督に司法権も委ねた事を意味すると考えられている。
 つまり初期イスラーム帝国時代に組織的な司法制度が整備された形跡はない。しかし、そう言ったものを目指していた事は間違いなく、その先鞭を切ったとするならば評価は出来る。
 税制に関しては、征服地の人々にはハラージュ(土地税)とジズヤ(人頭税)が課された。ただしウマル時代に両者の区別が厳密になされていた訳ではない。実際の業務は地方の旧制度の関係者の権限を再確認し、前代と変わらない徴税方法で徴収され、それを一年に一度一括してハリーファが送り込んだ徴税人(アーミル)に引き渡すと言う単純なものであった。
 一方アラブ人の土地保有者は、少額のウシュルのみ納税すればよかった。それすら時に曖昧となる事が多かった。
 文書行政機関も、収税と軍人への給与を行うディーワーンのみであり、人口調査などを積極的に行って直接に政府が人民を掌握する体制には程遠かった。
 ウマルは税制の基本を示したものの、その実施には困難が伴ったのである。

 また征服地の人々、特にシリア・エジプトなどでは、新たな支配者がより寛容な政策を取ることを期待し降伏した人々も多かった。
 しかし、未成熟な統治体制では劇的な変化など望めるはずもなかった。
 実際にイスラームは宗教的には寛容な、と言うより無関心な姿勢を取ったので、残虐な弾圧者ではまったくなかった。
 そう言った意味では寛容であった。
 しかしビザンツ帝国時代の宗教非寛容政策も大虐殺であるとか、税の過度の不公平などを伴うものではなく、制度的にイスラーム統治時代と大差はなかった。
 税金などの金銭的負担や労働義務などは、全く変わる所はなかったのである。それどころかイスラームの統治時代には負担は増大する傾向にあり、非イスラームの住人は旧帝国時代以上の困窮状態に陥る事となった。
 またヒジュラ歴を制定した事でも有名である。文書行政上、正確な暦は必須であった。
 軍事面でも、ウマルは積極的に前線に赴いた。
 ウマルは638年にはイェルサレムに自ら訪れ、その降服交渉を指導した。そしてシリア戦の仕上げを行い、イラク征服に続いてイラン、アルメニア、アゼルバイジャーンなど征服地の拡大に邁進した。

 さてウマルは徴税改革を行うに当たり、征服最初期に多くのアラブ達が占領地を私物化して、農地を囲い込んでいる事に頭を悩ませていた。この問題は、結局はアッバース朝時代まで尾を引く大問題であり、マディーナの中央政府が大征服のコントロールを完全に出来ていなかった事に起因している。
 ウマルは自ら定めた原則を断固として実行する決意を固めていたであろうが、結局はそれが彼の寿命を縮める事となった。
 その計画の一環としてウマルは、教友の一人アルムギーラ・ブン・シュウバの私有地からも徴税を行う事を決定した。
 シュウバ自身がどう思っていたかは不明である。
 愚痴ぐらいは言っていたのかもしれない。
 しかしながら彼のペルシア人奴隷アブー・ルウルウが、イスラーム政権成立に大功のある主人への課税に激怒したのである(あるいは主人の代弁をしていただけかもしれない)。
 そして644年11月、ウマルが礼拝を行っている最中に事件は起きた。
 アブー・ルウルウはウマルの近付くと、隠し持っていた短剣でウマルを襲い、6ケ所以上の刺し傷を与えたのである。
 アブー・ルウルウは周囲の人々をも次々と襲って殺し、ようやく取り押さえられるとその場で殺された。
 ウマルはその後、3日ほど生きながらえたが後継者を決めかねた。
 結局、合議によって決めるように伝えて息を引き取った。
 偉大なハリーファは凶刃に倒れ、志半ばで世界の表舞台から去った。

 そして後継者選びは、実に紛糾する事になるのである。

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