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正統ハリーファ伝8:「シリア制圧戦その1」

シリア遠征

 アブー・バクル政権における、シリア遠征の背景には以下の理由が良く挙げられる。
(1)政治的な理由。リッダ反乱の鎮圧に伴う不平、不満、余剰となった軍事的エネルギーの発散。内部の不満を外部への攻撃や略奪に向けさせる事は、古今東西よく行われた施策である。

(2)宗教的理由。一神教発祥の地であり、イェルサレムを始め重要な聖地を持つシリアの併合に関しては、熱心な信者からの要望が強くあった。

(3)商業的な理由。ムハンマドを含めてターイフやマッカの有力者は、シリアとの交易で利益を上げていた。彼ら新支配者層の経済的基盤であるシリアの交易網の確保や拡大は、商人達の利得の増大をもたらす願望であった。

(4)民族的な理由。アラブの統合が目的であった。シリアには長くビザンツと同盟して、イスラーム共同体に加わっていない多数のアラブ部族が存在した。アラブの統一の維持と言う観点からも、彼らの統合なしでは実現は難しいと考えられた。

…等である。

 また本格的なシリア征服が始まる以前にも、何回か襲撃が行われている。
 特に大規模なものは以下の遠征である。

・預言者ムハンマド時代
 
 629年9月10日 ムウタの戦い 主敵ビザンツ帝国アラブ部隊
 アラブ側主将:ザイド、副将ジャーファル、ハーリド
 ビザンツ側主将:不明(ヘラクレイオス皇帝?)
 結果:アラブ側の敗北

 630年10月 タブーク遠征
 アラブ側主将預言者ムハンマド ビザンツ側不明
 会戦なし。タブークやトゥーマル・アルジャンダルオアシスの併合。

・アブー・バクル時代

 632年 ムウタの戦い(第2次)
 アラブ側主将:ウサーマ・ブン・ザイド
 会戦なし。ムウタなどを制圧するが、トゥライハの勢力にマディーナが襲撃されたために帰還。


 シリア方面にはムハンマドが生前から遠征軍を派遣していた事から分かるように、イスラーム共同体国家が成立した時点から、その維持拡大のためにも必須の行動であると考えられていたようである。

 様々な説を総合すると、その当面の目的は独占的な貿易の再開のためであったと思われる。つまりシリア方面の通商路を支配する遊牧民を威嚇することと、東ローマ(ビザンツ)と正面から激突しない範囲でできるだけ多くのアラブを支配下におくことであった。
 また従来の部族間闘争の際には、各部族の影響下のオアシスや町に略奪遠征が相互に行われた。その戦利品は遊牧民の臨時収入として、常に魅力的なものであった。これがムハンマドによって禁じられた結果、それにかわって外に対する略奪行為が必要になった事も重要な理由であった。
 
 加えてイスラーム共同体の安全保障上、サーサーン朝の長期の支配から奪還されて間もないビザンツ帝国の東方地域の防衛組織が未だ十分機能していない内に、隣接するシリアに対して攻勢をかけて、緩衝地帯を設ける必要があったと思われる。

 こうした様々な理由からアブー・バクルはリッダの中でも有力であったムサイリマの勢力が瓦解した段階で、シリア遠征の準備を始めた。
 ハリーファは主にムハンマドの死後もイスラームに忠実であった人々、つまりムハージルーン、アンサール、マッカのクライシュ族、ターイフのサキーフ族、(リッダ参加者を除く)ヒジャーズのカイス族系遊牧民、ヤマン系のオアシス農民、牧畜民、遊牧民から兵士を募った。

 
 戦いの流れはおおよそ次の通りではないかと思われる。
 実際、はっきりと分からない点も多い。

 シリア遠征開始は諸説あるが、633年秋〜634年初頭であったと思われる。
 集まったおおよそ20000から30000名のアラブ兵は、初期の段階では4隊に分けて派遣され各地で略奪を行い、一定の地域を確保した後に撤退する計画であったのではないだろうか。
 
 全軍を統率するシリア方面軍の主将は、最初期の教友の一人でウマルの友人であり、次代のハリーファ候補でもあった主将アブー・ウバイダ・ブン・アルジャッラーフ(581年〜639年)であった。

 アブー・ウバイダ軍はシリア内陸部ハウラーン地方を制圧する事を主任務としていた。
 最初の戦闘は、マアブ(アレオポリス)のビザンツ同盟アラブ部族軍への襲撃である。アラブ部隊を瓦解させて、シリアのアラブをイスラームに靡かせる事が目的であったのであろう。
 アブー・ウバイダはビザンツの部隊を壊乱させた後にマアブを占領、和平条約を結んで撤退した。
 ヘラクレイオス帝はマアブ襲撃と占領に驚き、すぐさま対策を取るように命じたと言う。
 
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