頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋

 
 
 
 

 
 
正統ハリーファ伝7:「イラク制圧戦その2」

 ハーリド軍の特徴は軽装騎兵や駱駝部隊の活用による陽動や迅速な機動にある。
 サーサーン朝の部隊は、これに対応できなかった。
 サーサーン朝西方軍は輸送部隊や軽装騎兵の大部分をアラブ傭兵に頼っていたため、彼らが欠けた後に充当する事が出来なかったのであろう。
 ちなみにビザンツ軍も同様の状態であり、後に彼の戦術に翻弄されて大敗する訳である。ビザンツはこの時代の苦戦の結果を受け、こうしたアラブ騎兵やマヴァール、ブルガール騎兵に対抗する戦術を確立して本土の防衛には何とか成功する訳であるが、サーサーン朝は失敗し滅亡する事になる。
 加えて、おそらくは伝承が伝えるよりもサーサーン朝の兵力がかなり少数であった事も敗勢の原因であったと思われる。
 内紛で、サーサーン朝の政府に距離を置く部隊も多数存在し、また多くの兵士が寝返った事も記録から類推されるからである。降服したサーサーン朝の騎士たちは、アラブ兵士とほぼ同じ待遇を(当初は)受けたと言われている。

633年頃 マザールの戦い
 ホルムズが事前に要請したカーリーン率いる援軍は、ホルムズ指揮下であったクバーズとアンシュージャン率いる敗残兵を収容して、イスラーム軍と対峙した。その数は2万名前後(これも過大な数字に思えるが)であったとされる。
 カーリーンは、イスラーム側の規模によっては、戦闘を行わずに退却できるよう河川に船舶を集めて準備をし、撤退に備えた。
 しかし斥候による情報で、その事を知ったハーリドは、サーサーン朝軍の戦意が非常に低い事を理解し、攻撃に自信を深めたと言う。
 戦闘の詳細は不明であるが、実際は劣勢であったサーサーン朝軍の撤退戦の失敗であったと思われる。伝承ではサーサーン朝の指揮官クラスは、ほぼ戦死したとされている。
 
633年5月 ワラジャの戦い
 マザールで南部イラクを統治するための軍事組織が瓦解した事を知った皇帝は、急遽援軍を送ることを決定した。
 将軍アンダールザグハルは30000程(実際は半数ほどか?)の軍勢を持ってアラブ軍を拘束し、別ルートで進軍しているバフマーン率いる援軍と挟撃する事で、アラブ軍を撃破する予定であった。
 まず先に戦場に到着したアンダールザグハルのサーサーン朝軍は、背後を守るために丘陵地帯を背に布陣した。
 ヒーラ攻略を目指していたハーリドは、増援部隊の情報を得て、作戦計画を変更した。そして挟み撃ちを受ける前に各個撃破を図るべく、ハーリドは部隊をヒーラから撤退させて移動させたのである。
 ハーリドは戦闘を喚起するため、目立つように移動してアンダールザクハル軍を挑発し正面から対峙した。
 サーサーン朝軍は敵軍が少数であることを確認すると、この誘いに乗って単独での戦闘を決意した。

 指呼の位置まで接敵した両軍は、陣形を整えるだけで初日が暮れたため、戦闘は明け方になるはずであった。
 しかし実際には戦闘はすでに始まっていた。
 ハーリドは夜間の内に両翼から騎兵部隊を二部隊抽出し、大きく迂回させて敵部隊の後ろにある丘陵地帯の、さらに後方に移動させた。
 サーサーン朝は踏破不可能な丘陵地帯の守りに安心しており、その背後に敵部隊が潜んでいる事に気付かなかった。
 夜が明け戦闘が開始されると、ハーリドは中央の部隊長に言い含め、敵の攻勢を受ける度に徐々に後退させた。このまま後退していけば、イスラームの軍勢は後方にある山地に追い込まれ、死地に追い込まれてしまう様に見えた。
 しかしサーサーン朝軍の背後の丘陵地帯と部隊との間に十分な距離が生まれた頃合いに、丘陵の背後にいたイスラーム軽騎兵部隊が舞い戻って来た。丘陵沿いに起動してきた騎兵は、丘陵と敵の間に入り込んだのである。
 こうしてサーサーン朝は包囲される形となってしまったのである。
 勝敗は決した。
 ハーリドは敵部隊を撃滅し、容赦なく殺戮したのである。

633年5月 ウライスの戦い

 ワラジャの残兵がハーリドと会戦。ペルシア人部隊をジャーバーン、キリスト教徒アラブ部族民をアフダルらが率いていた。これも実際の戦闘の詳細は不明である。当初は互角であったものの、戦意の低いキリスト教徒アラブ部隊が戦場を離脱した事で決着が付いたようである。騎兵の追撃によって多くの兵士が河の追い落とされて死亡したと言われる。


633年5月〜7月頃 ヒーラ攻略。
 古都バビロンにほど近い要塞都市ヒーラはサーサーン朝のユーフラテス川西岸地帯の重要都市であった。ヒーラは天幕に意味(アラム語でヘルタ)であり、サーサーン朝の保護国家タヌーフ族のラフム王国の首都であった。
 ハーリドの侵攻に対して、投石機などによる攻撃を行った程度で、街は直ぐに降伏の交渉を行い、ハーリドは条件を認めて入城を果たした。
 以後、イラク各地のオアシスに行軍して、これらを威圧、多数のキリスト教徒アラブ人集落や遊牧部族を制圧していく。

633年9月末頃 ムザイヤの戦い
 サーサーン朝軍の将軍バフマーンはヒーラを奪回するため、イラクに軍勢を派遣した。軍隊は二手に分かれており、一方はルーズベフ率いるサーサーン朝の新規編成された正規軍部隊であり、もう一方はザルマール率いるキリスト教系アラブ人の混合部隊であった。
 ハーリドは部将カアバらに、それぞれを各個撃破するよう命じた。
 カアバはウライスの会戦でサーサーン朝正規軍を撃破すると、失地回復を願うアラブ人部隊に矛先を転じ、最大の勢力であったムザイヤのアラブ部族を襲撃して降服させた。

 その後、ハーリドは有力キリスト教徒アラブ族長ラービア・ブン・ブジャイルを、サニーの戦いとズマイルの戦いで敗死させた(633年11月頃)。さらに北上してビザンツとの国境付近フィーラーズでハーリドのイラク最後の戦いが行われた。このフィーラーズの戦いでは、ビザンツ帝国軍とサーサーン朝軍の合同部隊が結成された。
 しかし戦闘はハーリドの用兵の才に翻弄された。天才的な戦場認識力によってハーリドは味方部隊の中央、両翼の攻勢の緩急を操り、予備部隊を陽動のために投入する。こうして敵戦列の間隙を巧みに作るのである。そこへ真の決戦兵力である予備騎兵が(時に彼自身の直卒で)電撃的に投入され、突破されれば包囲が完成して、敵軍は壊滅するのである。失敗しても、ハーリドは戦場を駆け巡って、沈着に歪んだ戦列を回復し、再び敵軍の隙を作るべく策動する。
 この戦いでも、急遽編成された両帝国の連合軍は、統制を欠いている点で問題にならなかった。
 ハーリドの戦績に完勝を付け加えただけに終わったのである。
 ユーフラテス川西岸の全ての勢力を撃破したハーリドは、アラビア半島のアラブの大半をイスラーム化した事で目標を達成した。
 しかし彼は、これに満足していなかった。

634年4月 そしてハーリドはシリアへ転属となったのである。

 
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