頑固猫の小さな書斎

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正統ハリーファ伝6:「イラク制圧戦その1」

 ◆イラク征服戦第一期

 ハーリド・ブン・ワーリドが指導した初期のイラク征服については、正確な所は実は分からない。
 後世に史料を書いた人々が、伝承の異同に関して辻褄を合わせ、また宗教的な観点から創作を交えた事によって、戦闘の経緯や政治情勢、年代に至るまでかなりの改変の手が加わっている事が推測されるからである。

 一般にはリッダ戦争中(あるいはそれ以前から)、イラク付近に住むバクル族系シャイバーン族の一部が、アルムサンナー・ブン・ハリーサの指揮下に、東ローマとの戦争で衰弱していたサーサーン朝の領域に略奪(ガズワ)を行っていた事が発端であったとされている。
 ムサンナーは、ムハンマドのマディーナ政権の興隆を見ると、すぐさま使者を派遣して権威を認め見返りに安全保障と略奪戦への援軍を要請した。後のハーリドとの良好な関係から、ムハンマド政権以前からムサンナーは彼と交流があったと考えられる。
 ムサンナーは、それまでのイラクへの略奪によって巨利を得ており、またサーサーン朝の政治情勢に詳しかった。彼は、さらなる利益のためには兵力が不足していると痛感していた。その補充には西方のアラブの参加を促すしかないと考えた。そのため新たな西方のアラビア王となったアブー・バクルに、イラクへの大規模な侵入を進言する事を決意したのであろう。
 ムサンナーは、これまでの略奪の実績をハーリドを通じて伝えさせたと思われる。そして国内平定が見えてきたアブー・バクルは、これを了解したのである(ただしアブー・バクルには伝わっておらず。イラク攻撃はハーリドの独断の可能性もある)。
 
 作戦にはアブー・バクルは参与せず、兵力のみ提供し、行動は現場に任せる事にした。
 またマディーナ政権は、野心的なムサンナーにはやや警戒感を持っており、軍隊の指揮権をマディーナ側が握る事を条件に援軍を送り込んだと思われる。
 その指揮官には、リッダ戦に継続してハーリド・ブン・ワリードが選ばれた。
 アブー・バクルの意思と言うよりも、彼以外に適材がいなかったと言うべきであろう。
 ムサイリマとの戦いを終えたハーリドは、新たな戦いの場を求めていたため、おそらくはハリーファの命令がなくても独自の判断で行動したと思われる。リッダ勢力の軍事力を、そのままにしておく訳にも行かず、その力を外部に振り向ける必要があったからである。あるいはハリーファの命令と言うのも、後世の歴史のつじつま合わせの結果、生み出されたフィクションであったかもしれない。
 またハーリドによるヒーラ制圧は、彼がイスラームに改宗する以前、ムハンマド時代ではなかったかと言う説もある。つまりマディーナ政権とは関係のない軍事行動であったと言うものである。

 しかし、以下は定説に従って記述する事にしよう。

 野心家ムサンナーの標的は主にユーフラテス西岸部であった。
 この地域は、非常に豊かで帝国の中心部に近かったにも関わらず、サーサーン朝の首都クテシフォーンの混乱によって中央政府との連絡が途絶え孤立していた。
 ムサンナーは主にサーサーン朝に従属していたアラブ系の人々の集落や小地主(ディフカーン)の私有地を攻撃して、自分の支配下に置く事を考えていた。自分が新たな小王国の王となるためであったと考えられる。
 ハーリドもアラブの統一という観点から、この地方の制圧は必須である事に同意した。しかし、それはサーサーン朝との全面対決に至る道でもあった。

 ハーリドは、合計18000の部隊を率いてイラクに侵入したとされる。

 援軍として現れたハーリド軍の主力となったのは、彼に敗北したヤマーマ族であった。主君を失った彼らから兵士を募り、イラク方面に振り向ける事はマディーナ政権取っても有益な事であった。
 すでにリッダ戦の形勢は決まっており、地方の反乱はハーリドの軍略を必要とする規模ではなかった。
 そのため彼は自由に行動する事が出来た。
 ハーリドの最終目標はヒーラであった。キリスト教系アラブの最大の集落であり、サーサーン朝との連結点にある重要都市であった。
 ハーリドはユーフラテス川河口域から次第に北上して、西岸の諸都市を征服していく計画を立てた。
 またハーリドの副将として、前述のシャイバーン族の長アルムサンナー・ブン・ハリーサの他に、マジュル・ブン・アディー、ハルマラ、スラマらが、それぞれの部族から各2000の兵を同伴して参陣していた。
 以下、重要な会戦を時系列中に書いて行く。


・ウブッラの戦い、鎖の戦いまたはザート・アッサラースィルの戦い(633年4月、ただし628年〜629年説もあり) 

 ハーリドとイラク軍の最初の戦いである。
 ハーリド軍がヒーラを目指すには、サーサーン朝の地方軍を撃破する必要があった。そこでハーリドは策略を用いる事にした。サーサーン朝守備部隊を疲弊させるため偽情報を流し始めたのである。

 ユーフラテス河口域のサーサーン朝の総督はホルムズ(ホルムズド)と言う人物で、有能な人物ではあったがアラブを軽蔑し、横柄な態度で諸部族の長達に臨んでたと言われる。
 そのためアラブの人々に憎まれ、激しい憎悪の対象を表す諺「ホルムズより憎らしい」が使われ、言い伝えられたほどである。実際のホラムズは、確かに有能であったようだ。ただし戦場の動静を掌握する事に長けたハーリドとの対戦は酷であった言えるだろう。

 ハーリドは、まずホルムズへの揺さぶりかけるための恫喝と降伏の書簡を送りつけた。

 また軍勢は重要な港湾都市ウブッラを、最短ルートのカズィーマ経由で目指している事を軽装の斥候部隊を通じて喧伝させた。そして実際には北周りのルート、フフェイル経由で進軍した。ホルムズはカーズィマへ部隊を送り込み、待ち構えていた。
 ところがハーリド軍がフフェイル前面に現れた事を知ったホルムズは、慌てて部隊に沙漠を横断させて北進させた。
 しかし少数の部隊に欺瞞させていたハーリドは、ホルムズが北進を開始した事を掴むと、ホルムズ軍と接触しないように、やや西側に迂回しつつ南下して、逆にカズィーマ近郊に移動したのである。
 この様な事が可能であったのは、サーサーン朝軍が非常に重装備の軍隊であった事に起因する。逆にイスラーム軍は軽装(と言うより貧弱)であり、素早く移動出来た事や沙漠の移動に関するノウハウが豊富であった事。サーサーン朝軍の指揮官クラスの世代交代期であった事…つまりビザンツ軍との死闘で、戦場経験豊富な指揮官や貴族の騎士が失われていた事などが挙げられる。

 さてカズィーマが危機に陥ったため、ホルムズは再び沙漠を横断させて、救援に向かわねばならなかった。軍は疲弊して、不満が漏れるようになり、指揮は低下した。
 逆にハーリド軍は、休息をとる余裕があり、サーサーン朝を待ち構える形となった。
 疲れ果てていたサーサーン朝軍にハーリド軍は襲いかかり、部隊同士の激突は一歩的な結果となった。
 しかも戦闘初期の段階で陣頭指揮を執っていたと思われるホルムズが、あっさりと戦死した(ハーリドとの一騎打ちの結果とも言われる)。
 これで勝敗は決したも同然であった。

 サーサーン朝の中央の歩兵部隊は、互いを鎖で繋いでいたと言われている。
 これは味方の逃亡を防いだり、敵が方陣に浸透して突破する事を阻止ために採用されたものであり、特に騎兵による中央突破を防ぐには有効であった。逆に数名の重装騎兵が互いに鎖で結び、強大な戦車の如く衝突力を強化して、歩兵の陣を突破する戦術も見られる。またイスラーム軍も海戦で採用してビザンツ海軍に大勝する事になる。
 しかし今回の会戦では意味をなさなかった。
 緒戦から士気が落ち込み、戦列を維持できないと考えた両翼の指揮官が退却を決意したからである。
 退却は両翼に関しては成功したようである。十分な追撃もなされなかったようである。さすがにハーリド軍も疲弊していたからであろう。しかし鎖で繋がれた部隊は、退却に失敗してしまった。当然であろう。彼らは投降を拒否したハーリド軍によって殺された。
 
 戦後、周辺都市を制圧したハーリド軍は騎兵一人当たり1000ディナールの戦利品が得られたと言う。

 
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