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正統ハリーファ伝5:「アフル・アルリッダ(棄教者)との戦いその4」 |
その他諸地域の制圧
632年9月中旬。アブー・バクルは、フダイファに命じてオマーンのアザド部族を統率するラキート・ブン・マリク、別名ドゥール・アッタージュ(戴冠する者)への討伐部隊を派遣した。
フダイファは賢明にも事前に情報を集め、その結果アサド部族の勢力は予想以上に強力であり、増援が必要であると判断した。
彼からの急使を受けて、ハリーファは、632年9月末頃イクリマを将軍とする支援部隊を派遣した。イクリマは周辺部族民を威圧しつつ進軍して、諸部隊を糾合しアサド部族との戦闘に入った。直接の会戦は11月下旬頃に発生し、イスラーム勢力が勝利した(ダーバの戦い)。
その後、フダイファはオマーンにおけるイスラーム支配体制の再構築を行う事となり、イクリマはダーバ周辺地域を荒らしてアザド部族の抵抗勢力を瓦解させた。
その後イクリマはアブー・バクルの命令で、さらにマーラへ進軍した。
イクリマが現地に到着すると、マーラを担当していたアルファジャ・ブン・ハルサマが、天候や編成の遅れでマーラに到着していなかった。
マーラの防御はそれほどでもないと判断したイクリマは単独で攻撃を行う事を決め、これを急襲して降伏させた。
一方シリア方面のビザンツ帝国との境界地帯では、ビザンツを支持するキリスト教系部族とアラビア半島古来の宗教を信奉する勢力が混在し、ユダヤ教徒も多かった。
632年10月に、アムル率いるの軍勢が遠征しシリアの統制を試みたが、結果は芳しくなかった。
また、この地域で下手に動けば強力なビザンツの援軍が到来する可能性もあり、反乱諸集団は強気であったようだ。
結局はアムルはタブークとドゥーマルト・オアシス、ムウタなどビザンツ国境に近い町を陥落させるには至らなかった。アムルは慎重な策を採り、シュラハビール軍が到着するまで攻勢をかけない事とした。
援軍が到着する頃には半島の他の地域も制圧が進み、イスラーム勢力の優勢が明らかとなっていた。そのため反乱は急速に勢いを失い、さしたる抵抗もなく諸都市、諸勢力はフムスを結んでイスラームへの従属を選択した。
さてイエメンではイスラームに改宗したサーサーン朝の元総督バドハーンが死ぬと、後継の総督であるファイローズがサヌアで統治を開始した。
しかし632年6月(または7月)頃、マズヒジュ族の有力者カイス・ブン・アルマクシューフが反乱を起こし、偽預言者の一人アル・アスワドを截てて独立を策した。
カイスはイスラーム側指揮官に刺客が送ったと言われ、数名の有力者が死亡したとされる。
ファイローズは何とか山岳部の要塞に逃げ込んで、生き延びる事が出来た。
そこには逃げ隠れていたイスラーム信徒の兵士達が少しずつ参集し、十分な数がそろった段階でファイローズは反撃に出て、カイスを打ち破りサヌアを奪還した。
バフライン討伐は、ヤマーマにおける反乱に決着がついてからとなった。
バフラインはムハンマド時代に、当地の小王ムンディルがイスラームを受け入れて基準していたが、預言者が死亡しムンディルも死去すると、イスラームから離反しヒーラの王族の子孫を立てた。預言者が死ぬはずがないとの問答がなされた事でも有名である。結局、アブー・バクルはウーラ・ブン・ハドラマーニーに命じて、討伐軍を送り込んだ。迅速な進軍による急襲によって諸都市は防衛線の準備の間もなく簡単に陥落し、反乱者は逃亡した。追撃してきたウーラに沿岸部まで追いつめられると、反逆者である王子アル・ガーリフは633年1月(または3月)に彼に降伏して捕虜となり、後にイスラームに入信した。
ハドラマウト討伐は厄介であった。ナジュラーンを中心に勢力を持つキンダ部族の王アシュアス・ブン・カイスが、633年初頭反乱を起こし、強力な軍隊と共にイスラームを棄教したからである。
ハドラマウトの代官ジヤード・ブン・ルバイドは、アシュアスの勢力が強大で、単独での討伐は難しいと考え、周辺部族にキンダ族に同調しないよう外交攻勢をかけると共に、マディーナに援軍を要請した。
ムハージール率いる援軍が送り込まれ、ジヤード軍を増強する命令を与えられた。またアブヤーンに駐屯していたイクリマの部隊にも、当面の任務を完遂次第、ハドラマトに向かうよう指示が出された。
ザファールで合流したジヤードとムハージールの軍勢は、633年1月下旬にアシュアスの軍隊を衝突し、これを敗走させた。
アシュアスは再びイスラームに改宗し(後の反乱を再び起こす事になるが)事態は収拾された。
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