頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋

 
 
 
 

 
正統ハリーファ伝4:「アフル・アルリッダ(棄教者)との戦いその3」

 
ナジュド制圧戦


 トゥライハに対するハーリドの勝利と、その軍4000名の接近を知り、ナジュドのタミーム族の多くはハーリドの陣営に使者を送って帰順してきた。
 しかしタミーム族の一氏族ヤルブ族の指導者マリク・ブン・ヌワイラは投降を拒否して、逃亡を図った。
 ナジュドの征服自体は大きな戦闘もなく、威圧的な軍事行進を行うだけでイスラームの支配下に再び収まったのである。
 しかしマリクに対する懲罰は必要であるとハーリドは判断した。
 マリクは当時の有名人で、寛大さ、詩作の才能、勇気と言うアラブ人男性の美徳として最も重要な3つについて、当代最高の人物と認められていた。
 つまりアラブに大変に影響力のある人物であった。
 またマリクは、ムハンマド時代には徴税などを任され、公平さによって多くの人々の信頼を得ていた。ムハンマドが死ぬと、収税した金品を人々に返した事でも知られてる。しかし、これは住民の支持は得たものの、明らかなマディーナ政府に対する背信行為であった。ただし彼がイスラームを棄教したと言う訳ではなさそうである。

 しかしハーリドは部下を送って彼を捕らえると、背教者として残虐に処刑したのである。
 日和見や納税を渋っている勢力に対する見せしめの行為であったのであろう。
 そこまでは政治的判断と言う事で許されるかもしれない。
 ところが処刑の同じ夜、ハーリドはマリクの未亡人の ライラ・ビント・アルミンハルを無理矢理に自分のものにして、さらに彼女と結婚したのである。
 当時最高の美女と言われていたライラを手に入れるために、ハーリドが本当は無実であったマリクを殺したのではと言う世評が立ち、非難の声が挙がった。
 アブー・バクルはこの件に対する詰問の使者を派遣したが、実際に何らかの罰則が即座になされた訳ではなかった。勝利者の権利、略奪の一環と認められたのである。 
 まずはリッダ勢力の討伐が優先されたのであろう。

 アクラバーの戦い

 最大の敵であるヤマーマ族に対してはイクリマ・ブン・アビージャフルが派遣されムサイリマと対峙する形になった。ただし、イクリマ配下の軍事力は十分ではなく、ハーリドがトゥライハを撃破して合流するまでの間は、ムサイリマの勢力をけん制するに止める方針であった。イクリマの使命はムサイリマをヤマーマに貼り付かせ、他の勢力との共同作戦やマディーナへの攻撃の意図を挫く事であったのである。

 ムサイリマはイクリマに牽制されてはいたが、戦力的には優位である事は理解していた。しかしながら攻勢には出ず、自身の拠点から動かなかった。
 ムサイリマが積極的な攻勢にでなかった理由は不明だが、冒険的な攻撃に出るよりも、ムハンマド時代と同様に何らかの協定を結ぶ事で決着させようと考えていたのかもしれない。
 しかしムサイリマの予想は外れ、マディーナ政権は内部分裂を避けるため強硬策を取らざるを得ない状況にあり交戦は不可避であった。
 
 さて戦況はアブー・バクルが第二陣としてシュルハビールの軍団を送った事で動き始めた。ただしマディーナ政権側に不利な方向にである。
 632年9月上旬頃、突然イクリマがハリーファの命令を守ることせず、現状の兵力でムサイリマへの攻撃を開始し敗北したのである。おそらく援軍が到着する前にムサイリマを破り、功績を一人占めしたかったのではないかと思われる。

 当然アブー・バクルは、イクリマの不服従の姿勢と独断に驚きと怒りを露わにした。
 アブー・バクルは各地の軍隊に使者を送り、作戦内容の変更を命じた。ブータにいるハーリドにヤマーマ討伐を優先するように伝え、イクリマの軍勢は後退してオマーンへ侵攻予定のフダイファの指揮の元で再編するよう命じた。
 ちなみにフダイファは順調に侵攻してオマーンの担当地域を順調に再征服し、後にイエメンに侵攻したムハージールの派遣部隊を援護するため移動した。

 アブー・バクルはウンマに忠実なヒジャーズ地方のムハージルーンとアンサールの増援部隊を編成してハーリドの元に送った。
 この強化されたハーリドの軍勢が到着するまで、シュラフビールはヤマーマで待機する予定であった。
 しかしシュラフビールはムサイリマ側の誘いに乗って戦闘を始めてしまい、彼我戦力の差が圧倒的な戦闘はムサイリマの勝利に終わった。逃亡した兵士とシュラフビールは敗走したが、行軍してきたハーリドの軍と何とか合流し、壊滅は免れる事が出来た。

 ハーリドは他の将帥に比べて軍事的な攻勢以上に、情報収集と外交交渉なども積極的に駆使してリッダの戦いを進めていた。
 集められた情報を分析したハーリドは、ムサイリマを助けようとする勢力がないことを確認し、十分な兵力を集めれば会戦による早期の解決が可能であると判断した。
 ハーリドは妥協する気は、全くなかった。
 勝てる戦いをしないのは愚かな行為である。
 ムサイリマも決戦を望んだようである。
 緒戦の戦闘で自信を深めた事もあるであろう。
 またハーリドの軍勢がこれ以上の増援を受ける前に、数的優勢を維持して戦闘を開始した方が得策と判断したのであろう。

 決戦はアクラバーの平野で行われた(632年12月、または633年2月とも)。
 伝承では、戦いの経緯は次の様であったと言う。 
 戦場で隊形を整え相対した両陣営の部隊はアラブ側が13000、ムサイリマは40000(おそらく誇大な数)の兵力を持っていたと言う。
 しかしアラブ側が精強な部隊であったのに対して、ムサイリマ側は戦闘経験が少ない者も含まれていた。実質は戦力的に互角であり、決着がついても勝者にも多大な損害が出るであろう事が予想された。

 実際初日の戦闘で互いに多数の死傷者が出たため、ハーリドは単純な正面からの戦闘継続が困難であると考えざるを得なかった。

 そこでハーリドは一計を案じて、ムサイリマを誘い出す事とした。

 次の日に戦場で対峙した際に、アラブの伝統に従って勇者同士の一騎打ちを求め、応じたムアイリマ側の戦士をハーリド自身が次々と打つ破ったと言う(信じ難い話ではある)。
 そして敵の士気がやや衰えた所を見計らって、ハーリドは和平交渉を持ちかけたのである。
 これに同意したムサイリマは、和平の場でハーリドと対峙した。
 卑怯にもハーリドは和平の場で隠し持っていた剣を抜いて斬り付け、ムサイリマを騙し討ちにしようとした。
 だが十分に警戒していたムサイリマは機敏のこれを避けて、自陣営に逃げ込む事に成功する。しかしながら、その逃亡が無様であったためムサイリマの支持者たちに失望が広がったと言う。

 ハーリドがムサイリマに切り付けると同時に、ムスリム側が攻勢を仕掛けた。
 和平がなると考えて休息していたムサイリマの軍勢は油断しており、急襲に耐え切れずに後退をした。
 結局後退は逃走へと変化していった。

 撤退を支援するためムサイリマ側の右翼の指揮官ムハーキムは、自身が率いる予備部隊を決死隊として投入した。
 彼らが時間を稼いでいる間に残存部隊は城壁に囲まれたムサイリマの「庭(あるいは果樹園)」に撤退させる事が出来た。しかしムハーキム自身は、アブド・アッラフマーン・ブン・アブー・バクルに討ち取られた。

 ムサイリマは、この城塞「庭」に籠って対抗した。
 要塞攻略は長期化するかに見えたが、アルバラー・ブン・マリクが城塞の門兵を買収して、扉を開けさせる事に成功した。
 ムサイリマは突入してきたムスリム軍に自身剣を手に激しく抵抗し、血みどろの戦いが繰り広げられた。たがウフドの戦いで勇名を馳せたワースィ・ブン・ハラブの投げ槍によって遂に討たれ、首を取られた。
 カリスマを失い、ムサイリマの軍勢は壊乱した。

 ヤマーマはハーリドの制圧する所となったのである。

 
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