頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋

 
 
 
 
 
 
 
 
正統ハリーファ伝1:「アブー・バクルの即位」

■アブー・バクル・アル・スィッディーク・アブド・アッラーフ・ブン・クハーファ・ウスマーン・ブン・アーミル・ブン・アムル・ブン・カーブ・ブン・サード・ブン・タイム(573年〜634年8月23日、在位632年〜634年)

 アブー・バクルは初代ハリーファ(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)であり、ムハンマドの親友であり、熱心な信奉者であった。
 彼は最初の正統カリフ(アルハリーファ・アルラシッドゥーン)とされる。正統ハリーファとは、「正しく導かれた代理人」の意味であり、後世に規範とされた初期イスラームの世俗指導者である。
 一般に宗教的権威はなく、世俗支配の権限のみをムハンマドから引き継いだと解釈されているが、それはアッバース朝も後期を過ぎてから生み出された論理であり、当初は宗教的な介入や統制を目指していた事は疑いないであろう。

 一般に初期の4人のイスラーム共同体の指導者が正統ハリーファと呼ばれる。
 即ちアブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーを指す。
 ただしアリーの息子ハサンが即位したと見做して、5人とする立場を採用する見解もある。
 なおシーア派では、アリー(とハサン)を除いた3人のハリーファを、ムハンマドの血筋から権力を奪った簒奪者と考えている。

 アブー・バクルはムハンマドの同年輩の親友であり、最初期の教友(サハーバ)であった。また娘アイーシャをムハンマドに嫁がせており、彼の義理の父にも当たる。
 彼の元々のイスムは多神教、星神信仰に由来するアブド・アッカァバ(カァバの下僕)であったが、入信と共にアブド・アッラーフ(唯一神の下僕)と改名したと言われる。
 
 この様な改名は、しばし行われたようである。例えば預言者の父もアブド・アッラーフであるが、多神教の星神の名を冠した名前であったものが、後世に改められたと言う説もある。
 一般に彼はイスムではなく、クンヤのアブー・バクルで呼ばれる事が多い。

 またスィッディークは尊称(ラカブ)であり、真実を語る者の意味である。これはムハンマドの有名なミウラージュの奇跡(天使に導かれて天馬に跨り、イェルサレムへ一夜にして往復したと言う伝承)を真実であると信じ、人々に語った事を始め、ムハンマドに対する信頼、忠誠心、揺るぎない信仰心を常に示した事績に由来している。
 またアティーク(美顔の持ち主)の二つ名も持つ。アブー・バクルは若い頃には大変な美貌の持ち主であったとされ、老いても威厳があったためである。また文芸を好んみ、特にアラブ人らしく詩を愛したが、アラブの歴史にも詳しかったと言われている。さらに祖先に関する記憶が正確かつ広かったと言われる。この伝承から、アブー・バクルはアラブの系譜学の祖として、後世の系譜学者から看做される事になった。

 マッカの名門クライシュ族のタイム家と言う、アラブでも裕福な家に生れたアブド・アッカァバが、何故に信仰の道に入ったかは不明である。
 歴史を愛するなど、彼が知的好奇心が旺盛な青年であったことは間違いないであろうから、一神教の創造という友人の活動に熱狂したのかもしれない。ムハンマドの豹変に疑問なく従ったアブー・バクルは、ムハンマドの隠れた秘密の思想を共有していた可能性もある。趣味の文芸仲間であり、以前から何らかの意見の交換を行っていたのだろうか。
 その後の彼のムハンマドへの献身は、伝説的なものであった。 
 有名なのは、ウマル(後の第2代ハリーファ)が、ムハンマドの死を認めない発言をした時、これをアブー・バクルが否定したという伝承である。
 過去の預言者が死を迎えたように、ムハンマドも死を免れ得ない。しかし神は消えることもなく、神がムハンマドに授けた預言の数々も意味を失う事はない。即ち、信仰は永遠の真実となっていると言う趣旨の反論である。
 ウマルの発言に、キリスト教的復活の思想がある事は明らかで、当時のアラブに流布していた一神教の信仰内容をかいま見せている点は興味深い。しかしアブー・アクルは、ムハンマドに神性が付与されることを断固として拒否している。この点はムハンマド自身の思想を表しているのであろう。そういった点で確かにアブー・バクルは確かに宗教者として、ムハンマドの継承者であった。

 西暦632年の預言者ムハンマドの死とともに、生まれたばかりの宗教国家に解体の危機が迫ったのは当然であったと言える。
 預言者ムハンマドの生きている間、特に死の間際において、イスラームの宗教共同体(所謂ウンマ)は、ほぼアラビア半島全域にまで影響力を広げ、シリアに目を向け始めてさえいた。
 しかし実質的にムハンマドが支配を及ぼしていたのは、マディーナとマッカを中心とするヒジャーズ地方のみであり(ムハンマドや教友の考えはともかくとして)、他のアラビア半島の諸勢力は、あくまでムハンマドと個人的な同盟を結んでいたと考えていたのである。

 故に彼を預言者と信じて、これまでの征服活動に従事しウンマを構成してきた人々(主にマディーナ、マッカなどヒジャーズ地方の都市と周辺の小さな遊牧民集団ら)と、それ以外のアラブ諸族は、預言者の死とともに急速に乖離を始め団結力を失っていった。
 さらにマッカ(ムハージルーン)、マディーナ(アンサール)の都市富裕層からなるウンマの指導者間でも、後継者問題が紛糾していた。
 もしこの問題がこじれていたなら、各地で次々と起きた諸勢力のウンマ離脱の動きに対応できず、ムスリムの共同体は、消滅していたかもしれない。
 結局、アブー・バクルら教友達の迅速な対応によって、危機は回避された。
 預言者の死から時を経ずに、マディーナの住民が集まり、後継者をクライシュ族以外から選出しようとする人々の動きがあった。これに対して、周囲の危機的な情勢を説き、共同体の維持をまず第一として、対立を避けるよう説得したのがアブー・バクルであった。そして誰もがある程度納得できる後継者として、彼アブー・バクル自身が選択されたのである。
 アブー・バクルは最初期からのムスリムで、ムハンマドの親友であり、最愛の妻アイーシャの父親でもある。温厚で、信頼される人柄であり、謙虚な人物であった事も大きい。
 アンサールにもムハージルーンにも、クライシュ族を始め、アラブの諸族にも顔がきく人物として、無難な人事であった。
 そしてアブー・バクルは自身を神の代理(ハリーファ・アッラーフ)と称して、ウンマの指導者たることを宣言し、忠誠の誓い(バイア)を受けたのである。

 さて初代ハリーファとなったアブー・バクルは、すぐさま半島各地で反抗を示したアラブ部族を武力で鎮圧し、共同体分裂の危機を回避する事に成功する。
 当初は使節を送り込んで平和裏に協定を結び直すつもりであったが、各地の勢力はほとんど靡かなかった。
 後にリッダ(背教者)と呼ばれるこれら反抗部族の中には、ユダヤ教と単性派キリスト教の影響を受けた独自の一神教を掲げる宗教組織を武装蜂起の中心に据え、アラビア半島の主導権をクライシュ族から奪うために行動するようになる。
 彼らの盟主となった幾人かの「偽預言者」とムハンマドの立場は実に相似的であり、教義の内容も同じ傾向があったと思われる。ムハンマド以前にも多数の「アラブの預言者」が存在したためであろう。
 預言者が死んだのであれば、新たな預言者が神より遣わされる、と考える者がいてもおかしくはない。
 ムハンマドが「最後」で「最高」の預言者という立場は、後世の理解でしかない。
 少なくともムハンマドは、自分が「最高」の預言者であるとは断言していない。
 それ故にリッダに対する討伐は、徹底的に行わねばならなかった。
 イスラーム共同体の存在意義を確保するためには、彼ら偽預言者の権威を一部なりとも認める訳にはいかなかったのである。
 それ故に平定後もリッダに関連した人々は、マディーナ政権から常に不信の目で見られることになったのである。

 さらにアブー・バクルは元々実行予定であったシリアへの略奪征服活動を、さらに大規模に実施する準備を行った。
 ムハンマド自身はシリアのアラブ部族を統合して、ビザンツ帝国との間に緩衝地帯を設けるつもりであったのだろう。帝国主力部隊との、全面対決が(遠い将来はともかく)予定されていたとは思えない。しかし結果的に、地勢と政治状況(特にビザンツ帝国内部の複雑な内部構成)故に、後の大アラブ帝国の成立を視ることになるのである。
 またムハンマドやハリーファの統制外で、イラクへの略奪遠征も実施されていた。

 
追記:現代では、このウンマの指導者ハリーファ(英語でカリフ)の正式な呼称についてはクルアーン(コーラン)にある「ハリーファ・アッラーフ」と、スンナ派が一般に流布させている「ハリーファ・ラスール・アッラーフ(神の使徒の代理人)」の二説がある。
 アブー・バクルがハリーファと名乗ったのは本来、それほど意味のある事ではなかったと考えられる。独裁的な支配者ではなく、統治の「代理人」であると言うスタンスを人々に暗に知らせるためであったのであろう。
 彼の就任演説では、あくまでも信者のまとめ役であり、王や統率者として権力を奮うと言った表現を避けている。
 しかし後世ハリーファは、神と預言者を除く、理想上の政治的最高権威として、神話的な要素を付与されるようになっていく。
 なおシーア派では最高権力者について、元来指導者を意味する「イマーム」と呼ぶのが一般的である。
 加えてウマル一世以降、軍事指導者としての側面を強調した「アミール・アルムーミニーン(信者の指導者)」と言う呼称が、実質的にウマイヤ朝、アッバース朝を通じて最高権力者の正式な称号として公式文書用いられた。
 これに対して、ハリーファが王朝の公式の文献上で称号として用いられることはなかったともされる。
 ただハリーファは一般の人々の間では使われたようで、本来は言ってみれば俗称とも言える称号であった。

Copyright 1999-2010 by Gankoneko, All rights reserved.
inserted by FC2 system