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コラム:チェルケス人の「物語」2

 ところが、このカフカスにおけるロシアの成功は、やがて中東における自国の権益を危うくするものとみなしたイギリスに介入を決意させることとなった。もちろんイギリスの介入理由は宗教的なものでも、人道的なものでもない。政治的、さらには経済的な理由によるものであり、人間の貪欲さのいつもの発現である。現在でもロシア.中国、アメリカが繰り広げている資源争奪のパワーゲームと同種の狂気。
 
 そんな理由でアディゲ人と接触し始めた現地外交官などのイギリス人らは、アディゲ人部族長らに武器や情報を与えて、ロシア帝国に抵抗するよう煽動した。イギリス政府関係者にアディゲ人の独立や政治体制に関して明確な計画があったとは到底思えないし、彼らを犠牲にすることに何ら罪悪感を持たず、躊躇しない事は、その後の経緯が示す通りである。悲劇をより凄惨に演出する役者がまた増えたと言うことである。
 煽動の結果、1837年にアディゲ人部族長らは、共同で政府組織を整えて独立を宣言し、イギリス政府は臆面もなく、それを承認したのである。
 もちろんイギリスの介入は、あくまでロシアの南下を遅らせるための、外交的な施策に過ぎず、本格的な援軍が送り込まれる事は遂になかったのは言うまでもない。

 一方、アディゲ人に対するオスマン帝国やイギリスからの物資や武器の援助が、黒海側から海路に頼らざるを得ないと言う弱点を、やがて理解したロシア側は、彼らの本拠であり、ゲリラ戦の容易なクバン川支流域の山岳部や渓谷地帯への攻撃より、黒海沿岸部の制圧を優先した。
 ロシア軍は沿岸部を容易に制圧すると要塞線の設けて防衛ラインを築き、海と内陸を遮断する形で彼らを部族ごと包囲した。こうして武器弾薬が欠乏したアディゲ人パルチザンの活動は低下し、ロシア軍は自身への攻撃を封じ込めることに成功したのである。

 その後、ロシアはクリミア戦争で敗北するが、カウカスの情勢は逆に悪化した。
 連合国側の関心がカフカスよりもバルカン地方にあったからである。バルカン半島進出を断念する見返りとして、実質カフカスにおけるロシアの権益は、連合国側に承認にされるような形となった。ロシア側の外交的勝利といえるだろう。

 一方、抵抗するアディゲ人側にも、内部に色々と問題を抱えていた。
 1830年頃から北東カフカスのダゲスタン・チェチェン地域には、スーフィー教団ナクシュバンディーヤに属し、その「ミュリティズム」運動で知られるカリスマ的指導者シェイク・シャーミルの抵抗運動が苛烈を極めていた。
 シェイク・シャーミルはアディゲ人政府にも連帯を呼びかけていたが、アディゲ人側は指導方針や権益を巡ってシェイクと共同歩調を取れなかった。背景にはアディゲ人部族長同士間の権力闘争があったものと推測されている。
 つまり団結して抵抗運動を続けることが出来ない状態であった。ましてや外来の指導者を受け入れる柔軟性など、彼らには存在しなかった。
 連合諸国の圧力を回避できたロシア軍は、全力を上げて北カフカス制圧戦を遂行する決断を下した。
 その結果、1859年にシェイク・シャーミルは万策尽きて遂に降伏。アディゲ人は最大の友邦をみすみす見殺しにした。
 その代償は大きく、アディゲ人は防戦一方となり、ロシア軍は彼らの村落を根底から抹消するため住居、耕作地の破壊を徹底的に行った。
 住人は見つかり次第、子供だろうと女性だろうと非戦闘員であっても皆殺しにされたようである。
 ロシア側は強硬姿勢で望み、アディゲ人側の要求は、ことごとく拒否された。
 この地を退去して、ロシア側が用意した管理が容易な平野部に集団移住するか、国外に去るか、あるいは殺されるか、選択の余地は彼らになかった。
 多くの部族が抵抗を諦め、皇帝に降伏し、平野部に強制的に移住させられた。 
 それを拒否した者は多く、海外へと逃亡する人々が後を絶たなかった。
 シャスプー人、アブゼフ人、ウブフ人による三部族連合の政府組織「大自由議会」は、それでも抵抗を続けたが、期待したイギリス軍は援軍を送る気配を見せず、抵抗は絶望的となった。
 
 1864年3月、最後まで抵抗を諦めなかったウブフ部族がとうとう武力闘争を放棄することを決定した。四月、訪れたアディゲ人使節に対して皇弟ミハエル大公は、彼らに一ヶ月以内に帝国領、つまりカフカスから退去するよう通告した。同年5月21日にロシア帝国はロシア・チェルケス戦争の終結を宣言し、その支配は確固たるものとなった。北カフカス諸民族の抵抗は一旦収まり、残った人々は帝国に編入された。5月21日は、現代のチェルケス人にとって悲劇の嘆く、悲しみの日と認識されるようになったのである。

 アディゲ人達は、黒海を船で次々と渡り、オスマン帝国領へと逃亡した。しかしロシアからの要請で、亡命者を「全て」受け入れるとの合意書に調印、受諾していたオスマン帝国も、その人数を把握していなかった。
 ロシア側が数万規模であると嘘の通告をオスマン政府に文書で行っていたからと言われている。実質100万員規模であった亡命者の数をごまかしたのは、承諾に難色を示すことがないようにするためのロシア側の外交的な策略であった。亡命、移住に伴う費用は莫大なものであり、ロシア側はその捻出を渋り、オスマン帝国側に押し付けたのである。
 オスマン帝国は、この時期財政が破綻しており、膨大な移民を到底組織だった形で受け入れることなど出来なかった。
 
 それでも戦争で人口が減少していたアナトリアへの移住が推進され、帝国は不足していた農民と兵士を入手することが出来た。
 アディゲ人は「オスマン帝国臣民としてのチェルケス人」として安住の地を得たわけであるが、その代償は余りに大きかった。まず人々は分散して移住させられ大規模なチェルケス人の分離運動などが発生しないよう、計画的に植民させられた。戦争があれば彼らは徴収され、過酷な前線に立たされる事になった。
 またチェルケス人貴族層は部族民から引き離され、彼らの離反の中心とならないよう隔離された。

 集住の結果、スブフ人などは他のアディゲ人との混血、文化的な融合によって独自の言語を失った。
 そして過酷な移動、入植の際、多数の人々が亡くなったのである。
 さらにルメリ(バルカン半島のオスマン帝国領土)に植民させられたチェルケス人は、侵攻してくるバルカン諸国の前に兵士として従軍させられた。オスマン帝国の敗北とともに他のムスリムと合わせて数十万人が殺され、100万人以上のチェルケス人やタタール人が、アナトリア方面へとまたも移住することとなった。

 オスマン帝国に移住する際、船不足や余りに多数の逃亡者による混沌、食料不足、この不幸を利用しようとする奴隷商人達や盗賊達によって、人々は様々な悲劇を味わうことになった。特に黒海では定員を大幅に上回る無理な乗船によって、食料や水不足で餓死したり、脱水症による衰弱死、はたまた圧死したりした人。さらには船が耐え切れず転覆し海中に没した人は数知れず。黒海の魚はアディゲ人にとって口にしたくないものとなった。

 さてチェルケス人問題が声高に叫ばれだしたのは近年の事である。それまでトルコ共和国にって、チェルケス人達は比較的従順な「少し変わったトルコ人」であった。それが、ソビエト崩壊とともに知識人階級を中心にチェルケス人としてのアイデンティティ、言語教育であるとか歴史的なもんだであうとか、文化的な独自性の主張であるとか、を叫びだしたのである。帰郷を願う人々も現れ、実際に故地に帰った人々も居た(多く貧しいチェルケシアで自立できず、挫折し舞い戻ったが)。彼らはロシア政府はチェルケス人の悲劇をイギリス政府や、ロシア人支配下となることで部族支配階級から転落することを恐れたチェルケス人貴族層に求める。つまり追放は貴族層が自身の既得権を守るために、「自主的に」行ったと主張する。これを信じる事は馬鹿げた事であるが、チェルケス人指導層に内部対立や場当り的な対応があったことは否めない。もちろんチェルケス人知識人達は、自民民族の過失について沈黙して語らない。オスマン帝国の後継国家たるトルコ共和国は自分達の外交的無策を反省せず、イギリスやロシアに責任を全て転化するばかりである。

 つまり、この問題について、今のところ客観的に評価する段階には至っていないと言うことである。


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