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コラム:チェルケス人の「物語」1

チェルケス人の追放

 カフカスの諸民族の悲劇としてアルメニア人虐殺やチェチェン人の抵抗運動は有名である。
 有名であるがゆえに、表面的に、これをキリスト教徒とイスラームとの対立問題とリンクさせて理解する人、または理解させようとする人もいる。
 もちろん、そんな単純な図式は国際政治や歴史学の世界では成り立たない。
 この地域の諸問題や過去の歴史上の位置付けに関して論じるには、古代から現在まで至るカフカスの地勢上、政治上、経済上等の諸問題を総合的に理解する必要があり、それは容易とは到底言えない。
 それでも、どのような事件、問題があったのか個別にであっても一定の知識を得ることは、カフカスという特異な地域に対する理解への重要な一歩であるだろう。

 そこで以前扱ったキリスト教への迫害事件であったアルメニア問題に対になる形で、ムスリムへの迫害事件であるチェルケス人追放事件を取り上げ、その経緯を簡単に書いてみようと思う。
 ただし前もって断っておくが、これから記述する内容は、日本において得られるわずかな情報に基づいており、学問的な論文でもなければ、また客観的な記述内容とは到底言えるものでもない。
 この事件の歴史的な位置付けを考察すべく、過去と現代におけるより具体的な状況を知り、この問題に真剣に取り組もうと言う方は、自身で一次史料にあたるなど、面倒な作業を行っていただく必要があるだろう。
 であるからして、あくまで物語として、以下の読みにくい文章に目を通して欲しい。
 
 予断は禁物であるのだから。

チェルケス人離散の物語

 カフカスには、現在いくつかの小規模な自治共和国が存在する。我々が名前すら聞いたことがないような小さな国が多く、それらは大部分が旧ソビエト、現ロシア共和国の、いわば傀儡国家である。
 そのうちアディゲ共和国、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルディーノ・バルカル共和国、グルジア共和国領(実際はロシアの軍事援助で事実上独立・・・と言うよりやはり傀儡国家か)のアブハジア共和国の4つの黒海沿岸の諸国がチェルケス人と呼ばれる人々と関連のある国々である。
 この地域、クバン川とテレク川流域は、前述の共和国群と現ロシア直接統治領となっている地域と合わせて、古くはチェルケシアと他称されていた。
 チェルケス人と言う呼び方も自称ではなく、彼ら自身はアディゲと称していた。また、ほぼ同じ文化的背景を持つ人々、クバン川流域から少し離れた黒海沿岸域に居住していたウブフ人やアブハズ人をも広義には含む場合がある。
 そこで、以後チェルケス人と呼ばれる様々な人々を、本稿ではアディゲ人と記載することとする。
 
 もちろんアディゲ人達は単一民族と称するには無理がある集団である。
 
 チェルケシアは(カフカス全土にも言えることだが)地勢的条件も手伝って、多種多様な諸方言が狭い地域に混在し、また人々は地域ごと言語ごとに自立性の強い多数の部族集団に分かれており、さらには社会的構造も部族によってかなりの違いがあった。
 カバルダイ地方の如く、貴族支配が確立し、カースト的な強固な身分階層を持つ地域もあれば、アブゼブ人など部族長より、一般民衆の政治的発言力が強い地域もあった。

 つまり彼らは政治的統一性と言う言葉とは無縁な人々であったのである。

 さてチェルケス人追放事件、ディアスポラの概要を簡単に書くとと以下のようになろうか?

 18世紀以前、チェルケシアには300万人以上のアディゲ人が居たと推測され、オスマン帝国を形ばかりの宗主として、部族ごとに自主自立の生活を送っていた。
 ところが18世紀後半から始まったロシア帝国の南下政策が彼らの運命を暗転させることになった。
 軍事的侵攻作戦と、それに並行して行われた強制移住を含む植民政策が遂行され、住民のほとんどが故国を追われて世界中に離散する結果となったのである。
 チェルケス人側の主張によれば、累計で80万人以上が殺され、200万人以上の人々が諸外国に追放されたと言う。また脱出した人々も、主な逃亡先のオスマン帝国側の受け入れ体制が整っていなかった事もあって、多数が犠牲となり、また生き残った者も奴隷として売り飛ばされたり、極貧の生活に追いこまれた。
 チェルケス人の多くは故国を失い、帰還することもままならず、全世界に300万とも600万とも言われる人々が、主にトルコ共和国を中心に、それこそ世界各地至る所に分散し居住している。
 これが近年、主にトルコ在住のチェルケス人が主張する彼らの民族的悲劇である。
 彼らは、ロシア帝国、反乱を煽動して見捨てたイギリス政府、逃亡者に適切な対応をしなかったオスマン帝国を糾弾し、それらの後継国家に歴史的責任を認めさせようと活動している。
 
 次にその経緯を順を追って概説していこう。

 エカテリーナ2世時代にロシア帝国のカフカス侵攻作戦は本格化したのだが、その最初の目標となったのがチェルケシア東部テレク川流域のカバルダイ地方であった。
 この地は地図を見ればわかるように、北カフカスの中央にあたり、カフカス征服の拠点確保のためには絶対に奪取しなければならない要地であった。
 第一次露土戦争(1768〜1774)を通じてオスマン帝国に勝利したロシア帝国は、和平の条件としてカバルダイ地方における権益を得て、その後も次々とオスマン帝国支配下のカフカス領土に手を伸ばしていった。
 第二次露土戦争では黒海沿岸まで軍隊が制圧、和平条約の結果カバルダイの正式な併合とクバン川右岸地帯の併合がなされ、カバルダイ人は故郷を追われ、他のアディゲ人も部族ごとクダン川も左岸に避難せざるを得なくなった。
 また重要な事件として、このロシアとの紛争の最中、オスマン帝国はチェルケシアにおいて積極的にイスラーム布教を後押しし、その結果アディゲ人の改宗者が増大、ほぼ全部族が熱心なスンナ派ムスリムとなっていった事である。
 そのため懐古主義的な人々は、オスマン帝国のカリフ・スルターンという虚構と絡めてチェルケス人追放を宗教的なロマンティズムをもって語るようになってしまう。実際にあった出来事の背景と、後世に作られたイメージが融合して、真実としてから語られてしまった例であろう。
 もちろん我々に「真実」を語る事を否定する資格はないことも忘れてはならない。真実とは、集団や個人の間で相違することままあるのであり、語ることはともかく強制することは悲喜劇を生むだけである。

 さて1801年にグルジアがロシアに併合されると、アディゲ人はロシア領内に孤立する形となった。さらに1829年アドリアノープル条約でオスマン帝国が黒海沿岸地帯を放棄するに至って、ロシアは北カフカースの支配を確立し、アディゲ人はロシア帝国「臣民」と化したのである。

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