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コラム:カーブースの書とペルシア古典世界 |
ペルシア古典文学をを読みつつ、中世ペルシア的恋愛について考えてみた
あまりにも有名なペルシアの古典「ホスローとシーリーン」は叙事詩であり、恋愛を詠ったものであるけれど、中世ペルシア時代の著作であり、300年以上前のサーサーン朝時代の精神風土を、どの程度反映しているかは良く分かりません。
東洋文庫版の解説によると、美女シーリーンは、著者ニザーミーの夭折した妻がモデルになっていて、ニザーミーのシーリーンの描写は、身近な人物がモデルである故に、個性的であり、当時の一般的女性の理想像と乖離した、独特のものがあったと言われています。
とは言え、女性に対する賛美の内容などは、著作当時のイラン東部地方の知識人階級の願望や現実を表現していると思われます。当時のそれなりに裕福な男性が、女性に何を求めていたか、シーリーンの美徳とされている項目で、それを伺い知ることが出来るでしょう。
ホスローとシーリーンを含む、代表的なペルシア古典文学作品の部分訳が載っています。
シーリーンは物語では、アルメニアの王女とされています。
勿論、これはフィクションで実在したと思われるシーリーンの出自は、おそらくギリシャ正教か、単性派(三位一体説を排除する教派)か、ともかく東方キリスト教徒の女性であったと推測される以外、確定できる情報はありません。
王女どころか奴隷出身であったとも言います。
この時代のアルメニアはビザンツとササーン朝に分割支配されていましたから、シーリーンがアルメニア王女であったと言うのは、やはり幻想であるとした方が無難でしょう。
またホスロー2世の後宮には数千名の女性が居たと言いますから、栄光と没落を味わった、この王の恋愛が誠実なものであった可能性は低いでしょう。
ところで中世ペルシア時代の男性が、恋愛をどう捕らえていたか、ほぼ同時代の書物である「カーブース・ナーメ(東洋文庫『ペルシア逸話集』に和訳が収録)」に面白い記述があります。
「人は繊細な気質でなければ恋をしない。というのは恋は感じやすい心からおこる。感じやすい心から生じるものは、全て繊細である。恋は微妙なものであるから、繊細な心に生まれる」
これはカーブース・ナーメの恋愛に関する章の、冒頭の言葉です。
この書の著者カイ・カーウースは、カスピ海南岸、タバリスターン地方を本拠地とするズィヤール朝の第7代の王(在位1049年〜不明)でした。
彼は小国とはいえ一国の王であり、当時最高の知識人、文化人であり、また文芸の保護者でもありました。
ズィヤール朝は、イランのホラサーン地方から中央アジアにかけて勢威を振るったサーマーン朝のダイラム人武将アスファールの部下で、同じくダイラム地方の豪族マルダーウィージュ・ブン・ズィヤール(在位927〜935年)が、王朝に反旗を翻して成立させた、在地の王国でした。
マルダーウィージュの出自ははっきりしませんが、ササーン朝以来の地方貴族層の出身であったとも言います。
彼は、そのためかササーン朝ペルシアの後継を旗頭として、その領土全てに覇権を確立しようと、征服活動に従事し、一時はホラサーン地方を除くイランのほぼ全土を征服しました。
彼自身はシーア派ムスリムでしたから、アッバース朝ハリーファを退位させ、過去王権を手中にしていたアラブ人から政権を奪い、イラン系の人々を中心とした、新たなイスラームの政治秩序確立をもくろんでいたともされます。
実際、後世の歴史が示すようにそれは不可能ではありませんでした。
しかしマルダーウィージュ王が、部下のトルコ人奴隷軍団に背かれて、暗殺されると、その勢威は急速に衰え、タバリスターンのみを保持するだけの、地方王国に転落しました。
皮肉にもイスラーム世界の新たな支配層には、イラン人ではなく、マルダーウィージュ王を殺害したトルコ系軍人が担うことになります。
しかしズィヤール朝は、大国の狭間で細々と政権を維持しつづけ、4代カーブース(978〜1012年)は文芸の保護者として知られるようになり、名君と称えられています(この王がカーブース・ナーメの書名の由来であるということです)。
しかし、強国ブワイフ朝に敵対して敗れ、一時領土を失ったり、王自身が、敵国の捕虜になる事件が起きるなど、政治的には弱体なままでした。
とは言え、第5代マヌーチヒル(1012〜1029)の時代も、なんとか平穏に過ぎ、ズィヤール朝は小国ながら、文化国家として繁栄しました。
しかし急速に勢力を拡大した東方の大国ガズナ朝の脅威が迫ると、王国の勢威も急速に衰え、第6代王アノーシールワーン(1029〜1049年)の時代に、王国は占領され、実質ズィヤール朝は滅びました。
ですが著者カイ・カーウースは、ガズナ朝のスルタンに仕えることで、旧領土の一部を安堵される形で、名目的にズィヤール朝の再興を成し遂げたようです。
しかし、カイ・カーウースの死後、息子ギーラーン・シャーは王統を維持できず、1090年ごろギーラーン・シャーは、シーア派のニザール派によって殺害されたとも、セルジューク朝に領国を占拠されたとも伝えられ、どちらにせよ最終的に王国は滅亡したとされます。
このような歴史的背景を持って生まれた「カーブース・ナーメ」は、カイ・カーウースが、息子のギーラーン・シャーに王者として、人間としての心得、処世の術を語りかける形で記述した散文です。
成立は、1082年から1083年頃となっています。カーウースのほぼ死の直前の著作と言っていいでしょう。
このような言ってみれば、お説教的な作品は、鑑文学と言われるジャンルとなります。
この手のものは王者に臣下の者が統治の術を書き記し、献呈すると言う形が多いようです。例えば、インドのマウリヤ朝の宰相カウティリヤの著作と伝えられる「実利論」や、唐太宗皇帝と臣下の問答を理想化してして記した「貞観政要」なども、この分野の書物と言ってよいでしょう。
おっと話が逸れました。
さてカイ・カーウースによれば、恋愛は利益より、失うものが多い、慎むべきものと言うことになるようです。
「人は恋をすると不幸につきまとわれ、特に貧しい場合はそうだ。金がなければ目的を適えられぬから」
「恋をする人は結ばれるか、別れるかいずれかで、一年結ばれた愉悦も、一日の別離の悲哀に及ばない」
「恋の本質は、悲哀、心痛、苦悩だから」
「その悲哀(つまり恋)は心地良いものであるとは言え、もし恋人と別れたら苦悶しよう」
「もし結ばれてから(相手の悪い性質を知って)別れたなら、その結びは、さらに悪い」
そして恋をしたら、その心を知性で抑えるよう息子に忠告しています。
恋は病であり、それを癒すことの出来る完全な知性を備えよと。
もし恋煩いに苦しんだとき、その治療法として、断食すること、重い荷を運ぶこと、長い旅をすることなどを挙げています。
そしてこう詩を詠んでいます。
愛しき者よ 恋の炎が愉しいのか
燃えさかる炎に喜びを見た者なし
カイ・カーウースはつらい恋愛でも経験したのでしょうか?
恋を羨みながらも嫌悪し、憧憬を抱いているように思えるのです。
おそらく現在と違って恋愛は、やはり自由なものではなく、様々な障害があった事や、対象が奴隷など限られていたことなどが問題だったのでしょう。
ところで恋の対象について、近世まで、主に東方イスラーム世界では、女性のみならず、少年を対象にする事が公然と行われていました。日本などでも同性愛の風習はあった訳で、世界的に珍しい事ではないのですが、現代ではイスラームと言えば同性愛者は死刑で臨む、重大な禁忌です。しかし中世では、特にイランでは、公然と行われたことであったようです。カーブース・ナーメでカーウースは、祖父や、ガズナ朝のスルタン・マスードと奴隷少年との関係を語り、王者がいかに恋心を抑えて、(恋人への思いを隠し通したり、遠ざけて目の届かないところに送り込んだり)制御しているかを述べている。ただし、自制しているのは、同性愛ではなく、恋愛感情そのものである事に注意が必要です。対象が女性であっても、同様に愛に溺れるのことのない様、訴えているのですから。
しかしカーウースにとって、恋愛と違って、性の愉悦は別物のようで、その気になるたびに行ってはならぬとか、酔っている時にしてはならぬとか、節度を持つようにと語ってはいますが、基本的に禁じてはいません。
それどころか、
「女と若者のいずれの性にも偏ってはならぬ。いずれからも愉しめようし、いずれかがそのたの敵になってはならぬ」
「夏には若者を、冬には女性を可愛がれ」
「房事過度は有害であるが、禁欲も害がある」
と推奨する傾向にあるようです。ちなみに陛下によると、浴場でするのは良くないらしいです。
ただこの場合の性の対象(恋愛対象もか?)は、主に奴隷出身者に対してであるようです。女はジャーリヤと呼ばれた、グルジア系などの女性奴隷であり、若者(グラーム)はトルコ系奴隷の事です(実際にはグラームは若者と言う意味が転じて、奴隷が従事する事が多かった単純労働、肉体労働を行う職業の人々を指す。グラームとされる集団内には、自由身分の人々も含んでいるのです。職能集団と訳すべきだとも言う説もあるようです)。
グラームを性的対象とする期間は基本的に10代から、「髭が生え始めるまで」の少年で、その後は戦士として戦場に立つか、家内奴隷として労働に従事することになる人々でした。
そのため現代のような、恋愛、性愛事情と比較する事は注意が必要でしょう。
日本の戦国時代に盛んになった
ちなみにジャーリヤを好むのは、粗野な遊牧アラブの古い習慣であり、洗練された優雅さを知らない時代のものであると著名な文人ジャーヒズは主張しているそうです。ちなみに宦官(生殖器を切除した男性奴隷)は、グラームやジャーヒズと区別されており、もう一つの性として捕らえられている。もちろん宦官(ハーディム)が好みの人々も多数いたようです。
こうした奴隷にたいする愛情の例として有名なのは、10世紀のブワイフ朝の君主で、大アミールの地位にあったイッズ・アッダウラ(バフティヤール) の逸話でしょう。イッズ・アッダウラは、従兄弟アドゥド・アッダウラと覇権を争い、戦場で敗北したとき、いつも側に侍らせていたトルコ系奴隷を捕虜とされました。イッズ・アッダウラはその奴隷を溺愛していたため、深く嘆き悲しみ、政務も手につかず泣いてばかりであったと言うことです。結局、何とかとり返そうと、敵方に琵琶の名手と知られたジャヒーズを二人、そして10万ディナールと言う膨大な現金を贈りました。呆れたのか、哀れに思ったのか、アドゥド・アッダウラは、この少年奴隷を返してやったとのことです。
後世のサファヴィー朝の名君アッバース1世も、晩年は少年愛に耽溺して、政治への興味を減じていったとされるように、確かに為政者にとっては恋愛は制御すべき課題であったのでしょう。
しかし、同時に多くの人々を魅惑する、万人にとっての遊戯であったわけです。
しかし、それはイスラーム世界全体に余裕があった時代、寛容の精神が公に認められる経済的、政治的に強盛であった時まででした。宗教的不寛容と経済的繁栄は反比例しますから、現在のようなイスラーム不遇の時代には、恋愛は自由を失っていく運命であったようです。注意しなければならないのは、中世的な恋愛は、男性中心的なものであった事を忘れてはならないでしょう。
イスラームにとって、素晴らしい恋愛を許容するような社会が、将来生まれることを祈っています。
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