頑固猫の小さな書斎

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コラム:イスラーム世界の女傑
 
イスラーム世界の女傑

 イスラーム世界に限らず、近代以前で女性の権勢を揮った人物は奇異の目で記述される事が多い。
 あるいは荒唐無稽な逸話で飾り立てられ、不信心者として蔑視も顕な書き方をされている。
 女であること自体が罪であるかのように。
 イスラーム世界で権力の座に登った女性は数少ない。
 以下は、有名なイブン・バットゥータの旅行記に記された女傑を二名挙げて、その数少ない例を見てみる。


1.勇敢なる姫君ウルドゥジャー

 イブン・バットゥータが、インドからモンゴル帝国、元朝支配化の港町ザイトゥン(泉州)に到る旅路の中で、経由した港町がカイルーカリーであった。到着は、おそらく1345年頃と思われる。カイルーカリーはザイトゥンまで海路で10日から17日の距離にあり、タワーリスィーの国の主要な港の一つと記述されている。タワーリスィーの国の所在地は諸説あるが、中国との戦争があったことや、諸文化の検討からチャンパ(アラビア語でサンフ)王国とする説が有力であり、カイルーカリーは、チャンパの主要港ファンラン(カンドランジュ)に比定されると言う。なおタワーリスィーは国家の名ではなく代々の王の称号である。さてカイルーカリー港は非常に豊かな港町で、東南アジアと中国とを結ぶ重要な交易拠点であった。イブン・バットゥータは街に上陸すると、この地の習慣に則って彼の乗船してきた商船の船長らと共に、領主の主催する宴に招待された。その領主が、この国の王女ウルドゥジャーであった。
 ウルドゥジャー王女はムスリムではなく、おそらく仏教徒であった。そのためイブン・バットゥータは出される食事が、イスラームの禁忌に触れる可能性を考え、これを断った。しかし彼がイスラームの法学者であり、知識人であることが王女の興味を引いたらしく、王女は拒否する彼を召還し、接見を行った。イブン・バゥトータが致し方なく接見した時、王女は黄金をあしらった豪華な座所に座り、施政を補佐する女性の書記官達や護衛の兵士達が、周囲を固めていたと言う。
 イブン・バットゥータが、王女に拝礼すると「汝は健やかなるか?満足しておるか?」と驚くべきことにトルコ語で話し掛けてきた。そして彼を近くに招き寄せると、「インク壷と書く物を持ってきなさい」と同じくトルコ語で秘書の女性に命令した。王女は「慈悲深く、慈愛あまねきアッラーフの名において・・・」と言う有名な一節を、アラビア語で紙に書きイブン・バットゥータに見せた。
 「これはどのような意味なのかしら?」
 と王女は訊ねたので
 「タンダリー・ナーム(アッラーフの御名でございます)」
 とイブン・バットゥータはトルコ語で答えた。ちなみにタンダリーはモンゴル語で「天」を意味するテングリのことであると言う。
 王女は、その答えに満足し、
 「それは素晴らしいわね」
 と、おそらく微笑みでも浮かべて歓待の姿勢を見せた。
 ここまでの会話は、トルコ・モンゴル諸国家で見られる、宮廷儀礼に従った挨拶であったと思われる。
 その後、王女は本題に入った。それはある意味たわいもないものであった。王女は、政治家としての情報収集もあったであろうが、つまり好奇心と退屈凌ぎに各地を旅し、知識も豊富なイブン・バットゥータの見聞を語らせたかったのである。
 「バフシー(博士)さん。あなたはどこから来たのかしら?」
 との問いに
 「インドでございます」 
と答えると、王女は興味深々の態となった。
 「あのコショウの国よね(インド南西部マラバール海岸地方はコショウの産地として有名だった)」
 「さようでございます」
 「どのような国かしら?」
 イブン・バットゥータ問われるままに、インドのトゥグルク朝最盛期に滞在した時の経験を元にインドの地勢、政治、軍隊の様子などを答えた。
 「是非、攻め込んで自分のものにしたいわ。そんなに財宝に富んで、軍隊もたくさんいるとなると、とっても心踊るじゃない」
 と姫君はのたもうた。
 「是非とも、おやりなさい」
 とイブン・バットゥータは(多分苦笑気味に)答えた。姫は機嫌良く、彼に多くの下賜品を与え、送り帰した。
 ウルドゥジャー姫は、女性の身でありながら、勇敢な武将でもあった。彼女の所有する軍隊には、王女の親衛隊なのだろう、奴隷も含む女性のみで構成された部隊が存在し、男性の軍隊より、よほど勇敢かつ巧みに戦ったと言う。武術にも優れ、戦闘では、自軍の先頭に立って突撃し、敵を切り破り、粉砕したと言う。ある戦闘では、敵軍との激戦で、多くの味方が討ち取られ、敗走寸前となったとき、ウルドゥジャー姫は単身敵陣に突撃し、驚く敵兵達を蹴散らすと敵王に迫り、これを切り捨て、その首を奪った。敵軍は総崩れとなった。敵は膝を屈して和睦を望み、そしてウルドゥジャー姫は、槍先に敵王の首を刺し父の元に凱旋を果たしたと言う。この功績で姫は、この港町の総督となったのである。
 さて勇敢で、魅力的で、しかも富と権力まで持っている、こんな姫君に各国の王子達、有力者で求婚するもの後を絶たなかったが、姫は誰とも結婚しなかった。つまりあれである、そう「私より強い人じゃなきゃ、嫌」と姫様は、何ともお決まりのわががままを言ったからである。当然、姫に負けて恥を掻くのを恐れた王子達は、求婚を行うことはなかったのであった。
 ・・・もちろん、これはイブン・バットゥータの、創り話である。あるいは実際には行ったことがない地について、伝聞をそのまま記述したものと思われる。日本語訳の注にあるように、そもそもウルドゥジャーと言う名は、トルコ人の名前で、モンゴルのキプチャク汗国の王ウズベグ汗の王妃の一人と同名である(こちらのウルドゥジャー王妃は心優しい、穏やかな人柄であるが)。姫との最初の会話も同じモンゴルのチャガタイ汗国の宮廷儀式と同一ものなのである。東南アジアで、いくら教養豊かな王族とは言え、チャガタイ・トルコ語を話し、アラビア語で書くことが出来るトルコ名の姫が存在するなど、どう考えても違和感がある。また勇敢な女戦士のイメージ、行動様式はムスリム知識人に流布していた女人国、アマゾネス伝説と同一で、つまり一つのパターンを形成しているのである。こうした勇ましい姫と言うテンプレートは繰り返し使われる魅力的な記号であったのであろう。いや、それどころか現代の我々にも、その伝統は引き継がれ再生産されている程、ポピュラーなテーマである。実際、半裸の美少女が強敵に向き合い、剣と槍を振るう姿は溢れまくっているのだから。

2.奴隷王朝のラディーヤ姫

 さてフィクションの人物以外に、イブン・バットゥータは実在した女性君主の記事も載せている。インド・ムスリム史上、唯一の女性スルターン(スルターナ)、ラディーヤ姫である。
 時はモンゴル帝国の勃興の時代、13世紀初頭、舞台はアフガニスタンからインド北部の地域である。現代のパキスタンにあたるインドでも乾燥し、イスラームの勢力が強い地域として知られる。12世紀後半、この地は資料にめぼしいため謎の王朝とも言われるゴール朝(グール朝)の支配下であった。ゴール朝スルターン・ギヤース・アッディーン・ムハンマドはアフガニスタンのガズナ朝を滅ぼし、北インドの一部を征服することで広大な王国を築いたが、その弟でアフガニスタン総督であったシバーブ・アッディーン・ムハンマド・ブン・サーム・アルグーリー(ムイッズディーン)が1203年にスルターンとなると、イランに勃興した強敵ホラズム朝によって苦境に立たされていた。スルターンはインドの統治、征服を部下のマムルーク武将に任せると、自身はホラズム朝との戦いの指揮を執った。しかし1205年、ホラズム・シャー・ムハンマド2世率いる軍勢にアンドホドの会戦で大敗を喫してしまう。スルターン戦死の誤報が流れるほどの大敗北で、ゴール朝は各地でスルターンを名乗る者が現れ、内乱状態となってしまった。スルターンは急遽インドに帰還し、内乱を鎮めようと行動した。息子のないスルターンが、後継者と考えていたと思われるマムルーク武将アイバクの軍勢と合流すると、数ヶ月もたたずに反乱を鎮めることに成功するが、再びホラズム朝との戦いのためガズナに戻ろうとしたスルターンは、後継者を指名することなく暗殺されてしまう。
 ホラズムの脅威が迫る中、マムルーク諸武将の推戴を受けたアイバクは、シバーブ・アッディーンの甥で、王朝の本貫地であるゴール地方を支配するスルターン・ギヤース・アッディーン・マフムードの同意を得て、インドのスルターンに即位した。彼が所謂、インド奴隷王朝(1206〜1290年)の開祖である。少年時代にトルキスタンの地で誘拐され、売られ、シバーブ・ウッディーンの奴隷となっていたアイバクは、彼の即位に反対した同僚で、パンジャーブの支配者であったヤルドューズがホラズム朝と結んだことに危機感を持ち、これを武力で屈服させた後、ホラズム朝の介入を阻止する事に、精力を傾けた。
 しかし、問題を解決する間もなく、彼は治世4年で病没した。彼の跡を継いだ息子アーラーム・シャーは、しかし奴隷貴族達の支持を得られず、アイバクのマムルークで、追放され奴隷に売られたトルコ系イルバリー族の王子であったシャムス・アッディーン・イレトゥミシュがアーラーム・シャー軍を破り、第三代スルターンとなった。彼はヤルドゥースなど、ゴール朝時代からの奴隷貴族部将や、旧ゴール王家の王族達、ムスリム王朝を好まないヒンドゥー王国などの反乱勢力や独立勢力を粉砕すると、スルターン自身に忠実な、新たな奴隷貴族層を形成し、側近として王朝を支え、統治を任せる体制を創出した。「40(人)のトルコ人奴隷貴族(トゥルカニー・チハルガーニー)」である。しかし彼らは、やがて政治を壟断し始め、スルターンの期待を裏切ることになる。
 1228年に、ほぼ内部の反対勢力を駆逐し王朝の基盤を確保したイレトゥミシュであったが、しかし期待していた長男が病死したことで後継者問題に悩むことになった。子供達の内で、有能かつ精力的でスルターンにふさわしい人物は一人しかいなかった。それがラディーヤ姫であったのである。1231年、イレトゥミシュは彼女にデリー総督の地位を与え、後継者に指名したのであった。
 父の期待に違わず姫は父王の遠征中は、デリーに残り、その統治を的確に代行し、その能力が優れており、王を補佐する力があることを示していた。しかし1236年のイレトゥミシュの死後、次男ルクン・アッディーン・フィールーズ・シャーが母親のシャー・トゥルカンの後押しもあって、貴族を懐柔しスルターンとなった。貴族がスルターン位を認めたのは、勿論フィールーズが怠惰で無能・・・つまり貴族の操り人形となる気弱な人物であったからである。だが母后トゥルカンは権力の座に酔い、かつて彼女を妬んで自分を苦しめたイレトゥミシュの妻妾達を気ままに虐待、処刑し、政治にも無定見であったため、次第に貴族達とも対立することになった。やがてフィールーズがスルターン候補になりうる異母弟クトゥブ・アッディーンを処刑したことから、一部貴族達が粛正を恐れ始めるようになり、ついに軍の一部によるクーデターが発生し、ラディーヤ姫が擁立されることになったのである。そのクーデター劇は以下のようなものであったと言う。
 ラディーヤ姫は、フィールーズが金曜の礼拝のために大モスクに向かったときに、警備が薄くなったところを見計らい、宮廷を抜け出した。彼女は、金曜モスクの隣にある群衆の目に見える場所である古い宮殿の屋根の上に登った。捕らわれの身を表すために、囚人用の紙で出来た色染めの衣服を纏っていたという。
 彼女は礼拝に集まった群衆を見下ろすと
 「礼拝に集まった人々よ。私はラディーヤ。偉大な故スルターン・イレトゥミシュの娘です。そしてお聞きなさい。今、モスクにいる、あの我が兄は、弟を殺したばかりか、妹たる妾をも殺そうとしております」
 と屋根の上で訴え始めた。父の公正な治世と人々に与えた恩恵、人文のデリー統治時代の公正な態度などを朗々しく人々に語りかけ、煽動した。群衆は驚き、一部の人々が騒動を起こし始めた。つまりスルターンを捕らえろと、人々をけしかけ始めたのである。勿論、そうした者達はラディーヤの配下の者であった。群衆は礼拝中のフィールーズの元に押し寄せ、混乱した護衛が民衆に飲み込まれる中、ラディーヤの部下達がスルターンを見つけ捕縛した。ラディーヤはさらに
 「このような殺人者は、殺されるべきではないでしょうか?」
 と人々に問いかけ、人々が興奮の中、賛同するのを確かめるとフィールーズを即座に処刑したのであった。
 かくして、126年、インド史上唯一の女性スルターン(スルターナ)となったラディーヤであったが、しかし女性である彼女がスルターンとなることは、多くの反発者を生んだ。また首都デリーの一部貴族によるクーデター政権であるが故に、地方の諸部将の同意があったわけでもないラディーヤの政権は非情に危ういものであった。しまも宰相ニザームムルルクすら、女性スルターンには不本意であったらしく。度々、退位をほのめかすのであった。彼女には信頼する部下は存在しなかった。彼女は、自ら支配者として、民衆と身近に接することを望み、即位後は宮廷であろうと、野営中であろうと、公の場にはヴェールを纏わず素顔を晒し、また剣を履き、弓と矢筒を背負い、男装して民衆と臣下の前に現れ、軍馬を乗り回し、男女の差違など気にもとめなかった。現代なら、剛毅な姫として何ら問題なかったかもしれないが、当時の(現代でもか?)ムスリム社会では、これは大スキャンダルであった。
 知力、気力共に優れた人物であった彼女は、人事に気を配り、派閥や人間関係を把握し、的確な政治運営を常に細心の注意を払って行った。軍人としても、彼女は有能であった。父の教訓に従って敵し得ないモンゴル軍との戦闘は外交的な手法で回避しつつ、南方のヒンドゥー諸国には反乱鎮圧や征服、略奪のための戦いに自ら鎧を纏い先頭を切って出陣し、敵を蹴散らした。ヒンドゥーまた信頼する部下を持たないラディーヤはトルコ系軍人を牽制する意味を込めて、外国人の非トルコ系の人々を重職に就けるようになった。側近として知られるアビシニア(エチオピア)人、ジャラール・アッディーン・ヤークートを宰相職に就け、トルコ人貴族の勢力を削ぎ、スルタン権力の強化を図ったのも、こうした果敢なラディーヤの政治姿勢の表れであった。
 だが「40人のトルコ人奴隷貴族」の筆頭であったバルバンは、ラディーヤを上回る曲者であったのである。
 バルバンらは、黒人奴隷たる側近ヤークートと彼女の不倫関係の噂を流し、民衆に人気のあったラディーヤの権威を失墜させるような情報操作を行う一方、武力蜂起の機会を伺っていた。
 1240年、ヤークートはトルコ人貴族の差し向けた刺客によって、暗殺された。信頼する片腕を失った彼女に対して、さらにマムルーク将軍の一人、イフティヤール・アッディーン・アイテギンがトルコ系アミールやマムルーク軍を率いて、ついに反乱を起こした。デリーを包囲され、武将達に見放され、ついに彼女は捕らえられ、スルターナの座を逐われたのであった。第6代スルターンには弟のムイッズ・アッディーン・バハラーム・シャーが嗣いだ。
 だが幽閉された彼女は、決して諦めなかった。自分の価値に目をとめる野心家が必ず現れると考えていたようである。事実、やがて彼女に接触してくる者が現れた。バーディンダの知事イフティヤール・アッディーン・アルトゥーニヤである。彼女はアルトゥーニヤの妻となることで、彼の政治的な正当を与える代わりに、幽閉状態から脱出する手助けを受けた。そしてデリーに軍勢を進めたのであった。
 しかしラディーヤの命運もここまでであった。バルバンら、トルコ奴隷貴族軍は、スルターンの名の元、軍勢を差し向け、アルトゥーリヤ軍を敗走させた。彼女を追い落としたバルバンは、やがて自らスルターンとなり(1266年)、ラディーヤの失敗した同僚達、40人のトルコ人奴隷貴族の勢力を削ぎ、モンゴルに対して攻勢に出るなど、奴隷王朝のスルターンとして最も有能と言う名声を得ることになる。
 彼女は、逃亡した。しかし、途中、空腹の中、仕方なく食料を求めたヒンドゥーの農民に一夜の宿を借りることになった。しかし、その農民は、彼女が粗末服の下に、宝石を織り込んだ女性用の上着を着ていること気付き、彼女が就寝中に、これを襲って殺し、衣服を剥ぎ、彼女の馬も奪った。死体は畑の一角に埋めて、放置した。あまりに悲惨な最期であった。
 
 農民はやがて、ラディーヤの所持品を市場に持ち込んだ。しかし持ち込まれた高価な所持品に、不審を持った商人の手によって、この農民は訴えられてしまう。結局厳しい取り調べにより、農民は自白、ラディーヤ殺害が露見したのであった。農民は処刑され、ラディーヤの遺骸は、掘り起こされ、ヤフヤー川の岸辺に墓標が建てられ、そこに埋葬された。
 イブン・バットゥータの時代にも、その墓標を利益を求めて参詣する人は多かったという。彼女はスルターナとしては不遇ではあったが、死後、ラディーヤは聖女として生まれ変わり長く崇拝される存在となったのである。その事実は、彼女の治世が4年(デリー総督時代を含めると9年)という短い期間であったにも関わらず、民衆にとっては良き君主としての記憶を残す優れたものであったと言う証拠となろう。


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