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コラム:イスラームの巡礼と聖者崇拝3 |
宗教施設の破壊については、近代のワッハーブ派の聖廟破壊が有名です。
ワッハーブ派はイスラームの復古主義、あるいは原理主義的な理想を掲げ、実践した組織、宗派でした。18世紀、アラビア半島中央部、ナジュド地方に教勢を持つに到ったワッハーブ派は、現在でもサウジアラビアにおいて勢力を持ち、その後のイスラーム世界に多大な影響を及ぼした事で知られています。
ワッハーブ派揺籃の地である17世紀末から18世紀のナジュド地方は、乾燥した辺境地域で、地下水に頼る事が出来る場所に、小規模な街や村が点在する、荒涼とした土地です。
当然人口も少なく、遊牧民は羊やラクダなどを主とする牧畜で、定住民はナツメヤシの栽培などで細々と生活する、素朴な社会を人々は形成していました。
彼らは、町や村ごとの有力者、あるいは遊牧民の場合は部族長の支配下にあり、各々の指導者は、自立した存在でした。
統一された中央政権は存在していなかったのです。
時にはペルシア湾岸のハサー地方の支配部族であるバヌー・ハーリド部族や、メッカとマディーナを支配するヒジャーズ地方のシャーリフ政権が、ナジュド地方に侵攻して、征圧しようと試みたことが何度かありましたが、結局支配するには到りませんでした。
アラビア半島中央がそのような情勢の18世紀初頭、後のワッハーブ運動の創始者ムハンマド・ブン・アブド・アル・ワッハーブが、1703/4年にナジュド地方に誕生しました。
彼はナジュド地方のウヤイナの町で、地方の裁判官を輩出してきた家系に生まれました。
ナジュド地方では比較的裕福な、知識階層の出身であったと言えるでしょう。
ワッハーブはイラクのバスラなどで、イスラームについて学んだ後に、ナジュドで自身の主張を広めるべく活動を開始しました。
一般にワッハーブの主張は、イスラームのスンナ派の四大法学派の一つハンバル派に基づき発展させたもので、神の唯一性(タウヒード)の徹底、イスラーム初期の教えへの回帰と後世に加えられた諸説(ピドア)の否定、これらの教説から導かれる聖者崇拝や自然崇拝への激しい批判が特徴でした。
しかしイスラーム世界の苦境を不信仰故とし、先鋭的かつ非妥協的な教義を掲げたワッハーブに対して、旧習に慣れ親しんだ人々は拒否反応を示しました。
故郷ウヤイナの人々は、ワッハーブとその支持者を追放してしまうのです。
ワッハーブは戦略を変え、世俗権力の協力を求めました。それがディヤールの町を統治していた小豪族サウード家でした。
1744/45年、ワッハーブとその支持者達は、サウード家の当主ムハンマド・ブン・サウードと協議の末、盟約を結びました。具体的にはワッハーブ派の人々が兵力として軍事活動に従事する事となり、サウード家はその見返りにワッハーブの運動を保護、支持する事となったのです。
この協力関係は大成功を収めます。
ワッハーブ派の支援を受けたサウード家は、積極的な対外拡張政策と取り始めます。
当初、自治自立の傾向の強いナジュド地方の人々は、サウード家になかなか屈することはなく、ムハンマドの治世中、さしたる勢力拡大は出来ませんでした。それでも少しずつサウード家は勢力を拡大し、兵力や資金力を増していきます。
そしてムハンマドの死後、新たにサウード家当主(アミール)となったアブド・アル・アジーズ(在位1765年〜1803年)は、リヤード市征服を皮切りに、ナジュド地方の諸都市を次々に攻略していき、1787年までにナジュド地方をほぼ掌中に収めます。
さらにサウード家はハサー地方にも勢力を伸ばし、バハレーン島などペルシア湾岸をも支配することに成功しました。
さらにオマーンのブーサイード朝にも軍隊を差し向け、1802年にはホラズム島を望む、ラアス・アル・ハイムの町等、オマーン北西の沿岸部を占領しました。
しかし海洋への道を得たが故に、サウード家は以後、イギリス艦隊とも衝突するようになります。
また1802年4月21日、イラクのカルバラーに遠征軍を送り込むと、イマーム・フサイン廟を略奪、破壊し、この地方を領土とするオスマン帝国の怒りを買います。
それ以外にも、ヒジャーズ地方への侵略も行われ、メッカに継ぐ聖地と言えるマディーナにも侵入し、ムハンマドの墓廟を破壊し、町を略奪しました。ワッハーブ派が預言者の墓廟まで破壊したのは、アッラーフ以外への崇拝、多神教的行為を徹底的に排除し様としたためでした。
こうした拡張策が、周辺国の不審と敵意を買うことは、自明でした。しかし過激な宗教思想故に、自らが行動を抑止する事は、不可能でした。
ともかくもアラビア半島中央に久方ぶりに統一政権サウード朝は、ワッハーブの教えを奉ずるベドウィン達を軍事力の主力となし、宗教的な情熱と略奪品の魅力とが相互に作用して、初期ムスリムの如く、精強な軍隊を短時間に組織できた事が、成功の要因であったと推測されます。
サウード朝は国王であり、ワッハーブ派のイマームであるサウード家の当主を指導者に、政治実務はワッハーブ派ウラマー達が、司法と財政をイスラーム法に基づき行ったとされています。地方統治も中央からカーディーが派遣されて、イスラーム法を可能な限り遵守して行われたようです。
軍隊は前述のように、ベドウィン達が主体であり、略奪品は5分の一税(フムス)が国家に収められ、さらなる征服活動の軍資金としていました。
ワッハーブ派は、1803年5月2日、当時の人々を驚愕させる行動に出ます。この日、ワッハーブ派のベドウィンを主とする軍勢は、聖地メッカを占領し、以後十年にわたって聖地を支配下に置いたのです。
1803年にアミールのアブド・アル・アジーズが逝去したため、一旦軍勢は引き上げましたが、体勢を整えると再びメッカを征服して、1813年まで居座りつづけることになるのです。
ワッハーブ派は聖地巡礼を禁じることはしませんでしたが、その教えに基づき厳しい制限を課しました。例えば指揮官マスードは、当時の慣習であったマフミルを受け入れませんでした。マフミルとは巡礼者のキャラバンがラクダの背に乗せて運んでくる大きな駕籠のことで、金糸銀糸で刺繍された豪華な絹の布に包まれ、中にはメッカの支配者であったシャリーフ家や貧困者などに分配される金品が納められていました。
権力者への賄賂を含む、こうした金品の持ち込みをワッハーブ派は厳しく批判し、廃棄するよう巡礼者に求めました。
特にオスマン帝国のスルタンが用意したマミフルを含むシリアのダマスクスで編成される巡礼団は、そのオスマン帝国のとの関係から、厳しい目が向けられ、1807年にはシリアの巡礼団は、巡礼を果たす事なく帰国を余儀なくされたのです。
この強硬な姿勢が、オスマン帝国の逆鱗に触れることになりました。
またワッハーブ派は、メッカを占領するとカーバ神殿に隣接するザムザムに泉の天蓋やカーバ神殿の建設者(とされる)イブラヒームの子イスマイールとその母ハガルの墓廟を破壊しました。
注:ちなみにメッカのカーバ神殿はノアの子孫イブラヒーム(旧約のアブラハム)とその息子イスマイール(旧約のイシュマエル)のために建立された場所であるとされます。ムスリムの理解ではイスマイールの子孫がムハンマドを含む北アラブ族の祖なのです。南アラブ族は、アブラハムとは無関係で、アブラハムの先祖ベルグの弟ヨクタンが祖先であるとされ、一線を画しています。
結局、ワッハーブ派のメッカ支配は、オスマン帝国エジプト総督のムハンマド・アリーの軍勢によって終わりを告げ、ワッハーブ王国自体もエジプト軍によってナジュド地方諸都市が全て、攻略され滅亡しました。
しかしワッハーブ派の活動により、聖者崇拝やズィヤーラの再考が進み、スーフィー教団の再編が促されることになったのです。
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