頑固猫の小さな書斎

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モンゴル以後のイラン史 「通史2:ティムールの嵐」

 1379年までにマーワラーアンナフルとホラズム地方を制圧し帝国を形成しつつあったティムールは、1380年代に入ると西方遠征を開始し、数年でクルト朝とサルバタール朝を滅ぼしホラサン地方を奪取、早くも1385年にはジャライル朝の首都スルターニヤを占領し、ジャライル王家はイラクに逃走した。
 さらにティムールはイスファハーンとシーラーズに進撃してムザッファル朝を服属させることに成功すると、アナトリアとコーカサスに侵攻し、諸地方に宗主権を認めさせた。

 破竹の勢いのティムール朝を前に、カラ・ムハンマドは弱体化したジャライル朝を見限って、カイロのマムルーク朝のスルタン・バルクーク(ブルジー・マムルーク朝の創始者)を宗主と仰ぎ、その武力を頼ることになる。
 スルタン・バルクークは1388年にティムールがその首都サマルカンドに帰還したのを見て、ジャライル朝のアゼルバイジャンでの首都であったタブリーズを占拠し、ティムールと対峙した。
 
 カラ・ムハンマドもこれに協力したと思われるが、同年に小規模な部族抗争に絡んで出陣した際、油断し戦死してしまう。直ぐさま、息子のカラ・ユースフが族長位を継承し部族内の混乱を収拾して、その器量を示したが、しかし頼みのスルタン・バルクークはティムールに臣従していた白羊朝のカラ・ウスマーンの抵抗に手を焼いて、まもなくカイロに退去してしまう。
 
 そうしているうちにティムールがジョチウルスを支配した風雲児トクタミシュを撃破して北方草原の不安を取り除くと、西方に再び姿を現し、カラ・ユースフの前に立ちふさがった。
 窮したカラ・ユースフは、バグダットで雌伏していたジャライル朝と再び手を結ぶことでこれに対抗しようとした。
 同時期にティムールがムザッファル朝の君主マンスールの抵抗に苦戦をしいられていたこともカラ・ユースフを強気にさせたのかもしれない。
 実際ムザッファル朝は、一度敗れ去ったものの、マンスールの元で兵力を再編し、力を取り戻していた。そしてペルシス地方で行われた決戦の際にはティムール軍は最初大いに不利となり、総崩れの可能性もあったほどである。
 しかし勝利に焦ったマンスールの戦術機動の失敗を突いて、最後にはティムールが逆転勝利を収め、息子シャー・ルフの奮闘もあってマンスールを討ち取り、ムザッファル朝を最終的に滅ぼしたのである。
 その後、ティムールは事後処理を行った後、改めて大軍をジャライル朝の拠るバグダットに差し向けてきた。

 シャイフ・ウワイスの子で、このときのジャライル朝君主スルタン・アフマドは対抗できる軍勢を集められず、再起を期して戦わずしてシリアのマムルーク朝に亡命する道を選んだ。
 スルタン・アフマドは1396年にティムールがサマルカンドに帰還した時期を突いて、マムルーク朝の援軍により、バグダットを一時回復するなどティムールに対抗して蠢動を繰り返したが、1400年に今度はシリア制圧を目指して主力を率いたティムールが三度現れると、その統治は直ぐさま頓挫した。
 西方イスラム世界の勢力はこの時代、異常気象や疫病の流行などで経済的にも弱体化しており、ティムールに対抗できる大軍を編成できる勢力はなかったとも言われる。それが急拡大の一因であったとしても、やはり何よりティムールは野戦の天才であり、彼を敗退させられるような将帥は地上にもは存在していなかった。

 ティムール軍は同年シリアのアレッポを占領、1401年にはスルタン自身が率いるマムルーク軍を撃破して、マムルーク朝を大混乱に陥れた。
 このときティムール軍と戦った黒羊朝のカラ・ユースフは、危うく難を逃れて唯一ティムールに対抗できると思われたオスマン・トルコ朝のバヤジット1世の元に亡命した。
 バヤジット1世も同時代人から戦争の天才と見られ稲妻王と称されていたからである。
 しかし、常に逆らってきた黒羊朝の君主を匿ったと知ったティムールはオスマン朝に宣戦し、強勢を誇ったオスマン朝の軍勢を1402年7月アンカラの戦いで一蹴してしまう。バヤジット1世は捕虜となり幽閉され、やがて病死した(毒殺、自殺説などもある)。

 この時も逃亡に成功したカラ・ユースフであったが今度はマムルーク朝統治下のシリアに亡命したものの、ティムールの侵攻を恐れたマムルーク朝は彼を実質的に幽閉してしまう。
 彼が解放されるのは、ティムールが明帝国遠征のためにサマルカンドに帰還し、西方に当分戻らないことが確かになった1404年のことであった。

 このとき、シリアにはカラ・ユースフの他に、ジャライル朝の君主アフマドもともに抑留されていたが、同じような境遇に互いに同情しあった二人は友情をはぐくみ、縁戚も結んで、解放後には協力してティムール朝と戦いカラ・ユースフはアゼルバイジャンを、アフマドはイラクを支配するという協定を結んだという。しかし、君主同士の約束ほどあてにならないものはない。解放後、二人はやはり戦い合うことになるのである。


 さて視点を変えて、白羊朝に目を向けることにする。
 白羊朝は黒羊朝より、やや早くセルジュークトルコの西進期にアナトリアに進出してきた諸部族、ドゲル族やバヤド族などを14世紀の混乱期にバヤンドゥル族の長がまとめ盟主となって形成された遊牧国家であった。
 
 アーミド(ディヤルバキル)を中心にエルズルム周辺の牧草地帯を遊牧し、主にキリスト教諸国に対するガーズィ的略奪中心の軍事行動によって勢力を伸ばしてきた。
 しかし東方からは常に黒羊朝の軍勢が蠢動し、いつしか常に相争う関係となった。やがてジャライル朝と結んだ黒羊朝が強力になり、戦局が不利に傾くと、白羊朝はなんとか外交的にこれを解決できないかと模索することとなった。
 そのような情勢の中、度々のアク・コユンルの略奪に耐えかねた北方のビザンツ系君侯国トレビゾンド帝国のアレクシオス3世コムネノスが同盟(実質は服属)を申し出てきた。その証として、皇妹マリアとクトゥルグ・ベグとの婚姻を結ぶことを提案したのである。アク・コユンルは、この同盟を皮切りに全周囲的な近隣諸国への略奪の方針を転換、後顧の憂いをなくして東方問題に集中することとした。1353年のことであった。
 こうした外交政策を通じて白羊朝は黒羊朝のカラ・ムハンマドに対抗しつつ、周辺諸国との関係を安定させることに成功したのである。

 1378年に父クトゥルグの跡を継いだカラ・ユルク・ウスマーン(オスマン)・ベグは、西方より進出しつつあったティムールの帝国が敵しがたいことを早くから察知して、これと結ぶことを決意する。
 この同盟により、黒羊朝がティムールに敵対したため、白羊朝は戦局を有利に進め、ディヤルバキル地方から黒羊朝の勢力を駆逐することになる。
 カラ・ウスマーンの敵は主にエジプトのバルジー・マルムーク朝となり、その軍勢もティムール軍に撃破され、マムルーク朝が表面上はティムールに臣属した形となったため白羊朝は安泰となった。
 ティムールのシリア進撃の際の案内役を勤めたことやアンカラの戦いに従軍したときの功績で、ディヤルバキルを支配することをティムールに正式に認めてもらうと、ティムール没後のその帝国の内乱時にもうまく立ち回り、第3代ティムール朝君主シャー・ルフが政権の安定支配に成功した際にも巧みに取り入り、彼に忠誠を誓い東方を安全とした。
 またシリアとのいくつかの戦いにも勝利し、その勝利を外交時の手札としてマルムーク朝との間に有利な関係を築くことにも成功した。

 しかし前途洋々と見えた白羊朝は、再起した黒羊朝の前に苦戦を強いられることになる。

 ティムールの去った後、カラ・ユースフは離散したかつての配下であったバハルル部などの遊牧民達を再結集するとアゼルバイジャン占拠のためにティムール朝のアミール達と激しく争い、遂にティムールの孫アブー・バクルの軍勢を大破して、旧領回復を成し遂げた。
 しかし、両陣営の対峙していた間隙を縫って、ジャライル朝のスルタン・アフマドがタブリーズを占拠するという事件が起こる。
 かつての盟約に対するこの違約に怒ったカラ・ユースフはタブリーズに進撃して、ジャライル朝軍を破り、この旧友を処刑し、タブリーズを奪還した(1410年)。白羊朝との戦闘も再開され、戦局は勢いのあるカラ・ユースフに優位に進む。
 さらにイラクに攻め入りバグダットを奪い息子アスパンドに与え、スルターニヤ・イスファファーンとイラン西南部を奪取することにも成功するが、このような状況をティムール朝の盟主シャー・ルフが見過ごすはずがなく、ついに自ら率いる大軍が黒羊朝に差し向けられた。
 
 カラ・ユースフは何とか和平を模索し、シャー・ルフと交渉を持とうとしたが果たせず、この苦衷の中、体調を崩し、戦没してしまった。カラ・ウスマーンは仇敵の死に驚喜したが、その後度々シャー・ルフに援助を求め、その軍勢の力を借りたにも関わらず決定的な勝利を収めることができずアゼルバイジャンは黒羊朝の支配を脱することはなかった。
 カラ・ユースフの跡を継いだのは第4子(あるいは3子)のカラ・イスカンダルであった。有能と言える人物ではあったが、兄弟達の反乱やクルド族の反抗に悩ませられ、ティムール朝の攻勢にも晒され、次第に勢力を失っていった。
 イスファファーンやスルターニヤなどのイランの領土はシャー・ルフに奪還され、1432年にシャールフがまたも遠征してきたときにはオスマン朝に亡命しなければならず、逃亡途中には白羊朝の執拗な追撃を受けた。唯一の慶事は、このときの戦いの戦傷が元で1435年に宿敵カラ・ウスマーンが死去したことであった。この80才を過ぎた老英雄が死んだことで白羊朝がしばらく混乱に落ちることは明白であったからである。

 だが、その喜びもつかの間で、シャー・ルフの援助を受けた弟のジャハーン(ジハーン)・シャーがアゼルバイジャンで反旗を翻したのを制圧できず、ウルミヤ湖の北まで敗走したところで頼りにした弟アスパンドの息子(つまり甥)のシャー・クバードに殺されてしまう。

 兄を追い落として権力を握ったこのジャハーン・シャーは、父死後の黒羊朝をまとめあげ、王朝の最盛期を築いた人物である。外交手腕に長け、政治的にも見識と公正さを持ち、父が苦心して築き上げた黒羊朝の統治機構を引き継ぎ、より発展させた。またペルシア語の詩集を自ら著作するなど、文化人としても知られていた。
 このように君主としては大変に有能であったが、だが個人としては、酒乱であり、また阿片中毒者でもあった。快楽主義的な性向にあった伝えられる背景には、どうやら彼が宗教的にはシーア派であったためらしい。彼の宗教態度に反感を持っていたスンナ派の書記による恣意的な誇張であるのかもしれない。しかし人間的な性向はともかく、彼が軍事的な才幹を持っていたことは否定できない。

 彼の代で黒羊朝はほぼペルシア西部とイラクとアゼルバイジャン、そして旧白羊朝の領土を統一し、帝国と言ってもよい勢力にまで発展させたのである。シャールフ死後に弱体化したティムール朝を攻撃してその領土を次々と蚕食して、もっとも勢力を伸張させた一時にはティムール朝の首都ヘラートを占領したこともあったほどである(1458年)。彼への評価は否定的なものが多いが、その30年にも渡る治世は、イラン・アゼルバイジャンに新たな統一政権への準備を促したものとして、彼の後を受け継いだウズン・ハッサンとともに褒め称えても良いのではないかと言う意見もある。
 
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