頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
 

 

 
モンゴル以後のイラン史 「通史1:フーラーグ家の消滅」

 
西アジアの風雲

 イラン、イラク、アフガニスタン西部といった旧ササーン朝に該当する地域は、13世紀半ば以降チンギス汗の孫フレグが樹立したイル汗朝(ドウラテ・イルハーニー、俗に言うフレグウルス)の支配下にあった。
 しかしこの王国は第九代の君主アブー・サイードが1335年に男子を残さず死亡したことで、求心力を失ってしまう。
 そして乱世を収束させ最終的にイル汗朝の中心地だったイラクと北西部イラン、そしてサファヴィーヤの拠点アルダビールを含むアゼルバイジャンを押さえたのがジャライル朝(首府はバグダット、スルターニア、タブリースなど)である。
 
 さて実質的に最後のイル汗であるアブー・サイード亡き後の、イル汗位を継いだのは、当初宰相ギヤース・ウッディーン(「集史」の編纂者として有名なラシード・ウッディーンの子)の擁立したチンギス・ハンの孫アリク・ブカの子孫アルパ・ケウンであった。
 しかしアルパは半年も地位を保てなかった。アルパの即位後、その擁立に関与できず、政権内の地位の低下に不満を抱いたオイラート部の反乱が起きたのである。その制圧のためにアルパは自ら出陣したしたのであるが、敗戦し殺されてしまったのである。この反乱者アリー・パディーシャーはこの大勝利によって勢いづき、第6代イル汗であったバイドゥの孫ムーサーを擁立、イル汗朝の実権を握ろうとした。しかし、これを不服とする地方のアミール(この場合は総督)達によって何人ものチンギス裔の傀儡イル汗が擁立され、互いに覇を競う乱世をイル汗朝は迎えることになってしまうのである。
 
 勢力としてはアリー・パディーシャーの擁立したムーサー。アリーは、イル汗アブーサイードの生母ハジ・ハトゥンの弟であり、アブー・サイードの小姓の一人で、アブー・サイードがスルドゥス部のチュバン家と対立した時に、アブー・サイドのために戦い功績があった人物である。

 ホラサーンのアミール達が共同で擁立したトガイ・ティムール。彼はチンギスの弟ジョチ・カサルの子孫で、叔父にあたるバーバー・バハドュ−ルが、1305年に部衆を率いてにイル汗に臣従していた。叔父の後を継いだトガイ・ティムールは、ホラサン地方の制圧にまず目を向けた。
  
 ジャライル部族長のシャイフ・ハサンが探し出して汗位につけたフレグの血を引くスルターン・ムハンマド。
 チュバン家のシャイフ・ハサンと区別するため、後の人からはシャイフ・ハサン・ブズルグ(大ハサン)と呼ばれるようになった。
 
 かつて権勢をふるったチュパン家の一族であるスルドュス部のシャイフ・ハサン(ジャライル部のハサンとは同名の別人)が第八代イルハンだったウルジェイトウの娘サティ・ベグ、後にはフレグ裔のスライマーンを擁立した。
 
 さらにホラサン地方にはイル汗から自治を許されていた小王国クルト朝(首府はヘラート)が存続していた。同じくホラサンのサブザワールにはサルバダール朝が政権を樹立した。サルバタール朝は後のサファヴィー朝と同じくシーア派スーフィー教団が都市富裕層の自治組織(これをサルバタールという)の支持を受けて成立させた政権である。南イランにはペルシスによったムザッファル朝(首府はシーラーズやイスファハーン)がイル汗朝の土着した地方長官の政権(インジュー朝)を駆逐して成立して大いに勢力を伸ばしてきた。またホラムズ島の政権やアナトリア、ルール地方に割拠する諸アターベク政権が存在していた。
 まさに群雄割拠の時代となったのである。

 インジュー朝(1303年〜57年)はシーラーズを都として繁栄した小王国である。インジューとはイル汗国内で有力者に与えられる称号の一つで、元来はトルコ語起源で「真珠」の意味であると言う。その創始者はシャラフ・ウッディーン・マフムード・シャーである。彼はイル汗オルジェイトウの時代にファールス地方の長官となり、以後一帯を支配した。
 彼は公正な人物として知られて、人々に慕われたと言うが、彼の死後、息子達の間で後継者をめぐる騒乱があり、それを見たイル汗スルタン・アブーサイードは、チュバン家のフサインをシーラーズ総督として送り込んだ。 
 ジャライル朝の開祖であるシャイフ・ハサンはイル汗朝のルム(アナトリア)総督であった。
 アルパを殺害した反乱者アリーとその傀儡イル汗であるムーサーを1336年に破り殺害したのが彼であり、この軍功と伝統あるジャライル部の長であるという権威が彼をモンゴル諸部族内での権勢を否応なく高めた。
 しかしかつて第九代イル汗、アブー・サイードの時代に弾圧されたモンゴルのスルドゥス部の名族チュパン家のシャイフ・ハサンとの覇権争いが起き、ジャライル部の政権樹立は一時挫折する。
 何度もの衝突の結果、スルドゥス部のシャイフ・ハサンにジャライル部のシャイフ・ハサンは大規模な会戦では一度も勝てなかったばかりか、1338年の戦闘で大敗した時にはジャライル部の傀儡イル汗、ムハンマドも殺害されてしまう始末であった。
 武勇で知られたチュパン家の実力はイル汗朝随一で、まともに戦って勝てる相手ではなかった。
 ジャライル部は部族ごとイランの地を去って、イラクの地でしばらく逼塞することになる。
 スルドゥス朝の成立も間近かと思われたが、しかしスルドゥス部のシャイフ・ハサンが1342年に暗殺されると(その妻に殺されたという)とスルドゥス部の凋落が始まる。
 スルドゥス部はシャイフ・ハサンの死後、その兄(あるいは弟)のマリク・アシュラフがアミールの地位についたが、シャイフ・ハサンほどの指導力を発揮できず軍事力は弱体化した。それでもアゼルバイジャンを地盤に他の諸勢力と対峙、拮抗し続ることは出来た。しかし1357年にジョチウルスがほぼ全兵力を持ってアゼルバイジャンに侵攻し、首都タブリースを攻略した際に、その弱体ぶりを露呈した。
 スルドゥス部はこの危機に動揺してまとまらず、まともに軍勢を組織することも出来なかった。この侵攻でマリク・アシュラフは捕らえられ、実質スルドゥス政権はここに瓦解したのである。

 こうした情勢の中ジャライル部のシャイフ・ハサンは戦死したムハンマドに変わり、第五代イル汗、ガイ・ハトゥの後裔ジャハーン・テムルを擁立するが、1340年にはこれを廃して自立を果たし、イル汗の宗主権を認めることを放棄した。
 スルドゥス部の傀儡イル汗、スレイマーンもスルドゥスのシャイフ・ハサンが暗殺された年に、どうやらそれに関与したとして廃位されたのか姿を消し、ホラサーンの傀儡イル汗、トガイ・テミュルも1353年サルバタール政権に敗北し、処刑された(普通この1353年をもってイル汗朝の滅亡としている)。

 かくて王位についたジャライルのアミール、シャイフ・ハサンであったが、スルドゥス部への復仇はついに果たせず1356年に寿命尽きて、無念を抱え死去した。
 しかし王朝にとって幸運なことに、後を継いだ第二代君主シャイフ・ウワイスは父以上に賢明な君主であり、混乱少なく地位を確保すると、内治にも力を入れ、ジャライール政権の安定を現出した。そして部族内をまとめたシャイフ・ウワイスは即位翌年1357年のジョチウルスの侵攻でスルドゥス部が滅亡すると、情勢を注視しながら介入の機会を伺った。
 やがて同年中に、なんともシャイフ・ウワイスにとって幸運なことにジョチウルスの当主ジャーニーベグが死去し、アゼルバイジャンとキプチャク草原に動揺が走った。
 ジョチウルスでは、その後の後継争いの混乱の結果、1359年ベルディ・ベグの横死を最後にジョチ家(バトゥ家)の正統な血統が断絶して、実質上滅亡したと言って良い有様となったのである。

 このような情勢を注視していたシャイフ・ウワイスはジョチウルスに最早力なしと判断し、1360年アゼルバイジャンに侵入、これを容易に征服することに成功した。この後ジャライル朝は支配した地域も狭く、軍事力もイル汗朝に比べれば遙かに弱体な政権ではあったが、シャイフ・ウワイス生存中は、勢威を大いに奮うことが出来た。しかし彼の死後、恒例のごとく後継者争いが起き、その衰退に繋がるのである。
 
 一連のこうした大混乱の中でアゼルバイジャンと東部アナトリア、クルディスターンにおいて、王朝の支配下のおかれた各地の遊牧諸部族が毀誉褒貶を余儀なくされ、時に抗争し、時に会盟し、地方、中央問わず勢力図が目まぐるしく変わっていったのも当然である。
 
 しかし戦乱の時代であるからこそ、次代を担う新たな勢力として、やがて頭角を表し部族連合を形成するような強力な集団も誕生していった。
 それが14世紀半ば以降のこの地方においては、黒羊(カラ・コユンル)朝と白羊(アク・コユンル)朝のトルクメン(オグス)系王朝となる。二つの政権は、諸勢力の狭間にあって、時に政治的空白が生まれたアゼルバイジャンと東部アナトリア、アルメニア、イラク北部、イラン西北部・・・・といったティグリス・ユーフラテス川上中流域に勢力を培っていった。
 
 黒羊朝はモンゴルのホラズム(フワーリズム)朝侵攻に伴う混乱期に中央アジアから移動し、やがてイラク北部に族長トゥール・ベグに率いられて移住したバハルル部が中心となって組織された諸部族連合政権である、と言われる。
 政権はヴァン湖周辺に遊牧し、その中心都市は湖の北東エルジシュであった。もっとも中心都市と言っても部族がそこに住むわけではなく、族長も含めてその周辺に天幕を張って暮らすのである。これはイル汗朝でもジャライル朝でも変わりなかった。
 さてバハルル部は諸氏族を吸収しつつ、またジャライル王朝に形式上臣従しながら、だが実質は独立した強力な君侯国としていつしか認識されるようになっていった。王朝の創始者とされるカラ・ムハンマドは領土拡張のためディヤルバクル(東部アナトリア)地方の諸君主と争い臣従させ、その勢力を拡張することを主要な目的として活動した人物であった。遊牧国家の常で、こうした軍事行動による戦利品を獲て、黒羊朝は政治軍事集団として基盤を確立していったのである。
 ところが順風満帆に思えたカラ・コユンル朝は、やがて重大な決断を迫られることになった。モンゴル帝国のチャガイタイウルスを土台に成立した中央アジアのティムール帝国が西方に侵攻してきたのである。王朝の選択はジャライル朝と同盟し、ともにこれと争う道であった。このことが王朝に深刻な打撃を与える結果となったのである。


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