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西方イスラーム史 「ミドラール朝」

シジルマーサ政権あるいはミドラール朝(757年頃〜976/7年)

 イスラーム最初の分派であるハワーリジュ派はアズラク派を筆頭とする過激派とナジュド派と呼ばれる穏健派に分裂した。その後、知られていない多数の分派を生み出し続けて次第に勢力を縮小させてほとんどが消滅していった。
 さて穏健派の内、現在でもある程度知られている分派にスフリー派がある。
 過激なアズラク派が不信仰者は殺伐で臨むと言う点で非妥協的であったのに対してスフリー派は現実的であった。ただしアズラク派とスフリー派は根本教義において間違いなく理想を同じくしており、方法論の違いがあるだけであったとも言える。不信者に対しては非常に厳しく、清貧かつ行動優先主義で非妥協的なやっかいな集団であった。
 そしてスフリー派は、同じく穏健な派閥であったイバード派と同様に8世紀になると北アフリカのベルベル人に積極的に宣教を行ったのである。


 スフリー派の伝説的な宣教者イクリマが北アフリカに現れたのはイバードの宣教開始とほぼ同時期の8世紀初頭であったと思われる。
 イフリーキーヤの首都カイラワーンにおいてハワーリジュ派の別分派イバード派は、ベルベル軍人を改宗させようと運動を展開し、ウマイヤ朝総督と鋭く対立したが、スフリー派はさらに西方で諸部族の宣教に力を入れた。

 ウマイヤ朝マグリブ総督府によるベルベル人に対する徴税や労役、奴隷狩りなどの収奪は、ビザンツ帝国時代に比べて次第に厳しくなっていったと考えられている。
 その不満が次第に蓄積され、スフリー派に付け入る隙を与えたのである。
 スフリー派のベルベル人指導者マイサラ・アルマトガリーがハリーファを称して739/40年にウマイヤ朝のマグリブ総督に対する蜂起を指導した時、彼に従ったのはベルベル系諸部族であるミクナース族やバルガワータ族だけではなく、ビザンツ帝国の元臣民、ギリシャローマ文化に影響された土着アフリカ系農民を含んでおり、住民のほとんどがウマイヤ家の支配が不公平で苛烈であると考えていたことが伺える。
 マイサラ率いるスフリー派軍はジブラルダルに面するタンジール(タンジャ)を占領したが、まもなくマイサラは内部対立により殺害された。
 しかし跡を継いだ同じくベルベル人と思われる新ハリーファ=ハリード・ブン・ハーミドは結束を固めて、ウマイヤ朝軍を撃退し続けた。ウマイヤ朝のヒシャームが送り込んだシリア軍団の精鋭すらハーリドを押さえきれず、セブ河流域のナフドゥーラの会戦で大敗した。
 結局、危機打開のために派遣された新総督イブン・サフワーンはエジプト駐留軍も総動員した大軍を断続的に送り込み、スフリー派軍を疲弊させる事でようやくカイラワーン占領を断念させることには成功した。
 しかしモロッコ内陸に撤退したスフリー派を根絶することはできなかった。またその後ウマイヤ朝の北アフリカ支配はイバード派による攻勢にもさらされ、さらに弱体化していった。

 こうしたベルベル人の反乱が続発し、またアッバース革命の混乱も手伝って8世紀から9世紀にかけて、北アフリカではイスラームの中心部から政治的独立を果たした政権がいくつか打ち立てられた。その多くは基本的にベルベル人の軍事力を基盤とする在地勢力の連合政権であった。
 ただし、その統治における支配原理については各々に特色があり、モロッコ内陸部に出現したミドラール朝の場合はハワーリジュ派のイマーム論、宗教的な原理主義、平等主義を採用していた。

 ミドラール朝はベルベル人の中でもザーナタ系方言を話すミクナーサ族を支配層とする政権であったと考えられている。
 初期においてはハワーリジュ派スフリー派の指導者と連携することで政権の正当性を得たが、後のアッバース朝の宗主権を認め、さらにはファーティマ朝の勢力が増大すると、その間接的支配に組み込まれた。
 
 ミドラール朝とは、その首都シジルマーサそのものと言っても良い。北アフリカのベルベル人世界と南方の黒人諸政との間で行われたサハラ交易の中継基地として最適な地理的な条件を持つシジルマーサの建設こそがミドラール朝の成立の基盤であった。
 塩金貿易で巨利を得る事で、一定の勢力を築き維持したのである。
 ミクナーサ族がスフリー派の教えを受け入れた経緯やシジルマーサ建設の状況などは、様々な伝説が生まれ、複雑に絡み合って混交した結果、真実を知る術は失われている。

 756年頃、モロッコのメクネスからの亡命者であり、スフリー派宣教師であったイーサー・ブン・ヤズィードがバスラから逃れてきていたスフリー派の信徒とその子孫4000名と共に内陸部に至り、共同体を創設したと言う。「黒いイーサー」と通称されるように、イーサーはベルベル人ではなく父の代に改宗した黒人(あるいは混血)であったとも言われる。
 しかし15年ほどで彼の支配は瓦解し、派内で処刑されたと言う。スフリー派集団は分裂したと考えられる。
 後のシジルマーサ周辺部の支配を引き継いだのはメクネス亡命者の一族であるサムグーン家であり、その開祖はイクリマの弟子とも言うアブー・アルカースィム・サムグーン・ブン・ワースール・ミクナースィーとされる。
 しかしバクリーの記録、伝承以外に史料もほとんどなく、その系統や即位年代ははっきりしない。
 以下は推測も交じった歴史である。

 サムグーンは彼に従う少数のスフリーは信徒と共に要所を選んで村落を建設したと言われている。この村がシジルマーサの原型であった。
 やがて周辺のスフリー派内で彼は頭角を現したようで、その子カースィムとアブー・ムンタスィル・アル・ヤサウへと派閥内での有力者の地位を継承させる事に成功した。
 790年(806/7年とする二次資料もある)に即位したサムグーン家のアブー・ムンタスィル・アル・ヤサウ(別名イマーム=ミドラール?)の頃からミドラール朝に対する記録がやや増えて、王朝の存在が確実視されている。シジルマーサで支配体制を整え、南方のダガーザーまで影響力を行使できるようにしたと言う。つまり交易における支配権を確立したと考えられる。シジルマーサは蓄えられた財力によって繁栄し、城壁も整えられた。ユダヤ人など非ムスリムを含む外国人も多く居住するようになり人口は拡大、後にミドラール朝と呼ばれる王朝を確立したのである。
 アル・ヤサウが823年に亡くなると、その子アブー・マリク・アル=ムンタスィル・ブン・アルヤサウ・ミドラールが即位し、823/4年から876/7年と言う長期の在位期間を保って、サムグーン家の最盛期を現出した。
 ミドラール朝は次第にスフリー派的性格を緩め、交易国家として多様性を認める傾向に方針転換されていった。同じハワーリジュ派のルスタム朝がイバード派イマームの優位性を主張した時あっさりとこれを認めたり、バグダードの使者がハリーファの宗主権を求めた際には、アッバース朝ハリーファ名でフトバを行うなど軍事的な対決を極力避けて生き残りと交易の自由を優先した。

 その後ミドラール朝は、アルヤサウ・ブン・ミドラールの時代に賓客を迎える事となった。それはインド洋からシリア、エジプト方面と多方面に出資して膨大な利益を上げていた経営者の一族でウバイド・アッラーフと名乗る壮年の人物であった。905年頃、膨大な贈り物を携えてアルヤサウに庇護を求め、シジルマーサで商館を開いた彼は、瞬く間に名士として周辺部族に知られるようになった。
 しかしアルヤサウが次第に疑念に思い始めたのは、彼こそがアッバース朝とアグラブ朝が探し求めるシーア派のフッジャではないかと言う疑念であった。アルヤサウが商館訪問の際に、ウバイド・アッラーフを問い詰めても彼は惚けるばかりであった。
 909年にイスマーイール派教団の軍勢がシジルマーサに迫っても、ウバイド・アッラーフは飄々として応じず、シジルマーサはイスマーイール派に降服した。910年に立ち去った後に、やはり彼こそがイスマーイール派のイマームであるアブド・アッラーフ・アル・マフディーである事が判明した。以後イスマーイール派はシジルマーサの政治的な自立を認める一方で、金地金の安定供給とと金貨発行の独占を求めるようになった。10世紀のミドラール朝はイスマーイール派を許容し、シジルマーサではファーティマ朝の金貨が発行された。ミドラール朝が瓦解するまで、ファーティマ朝は西方のサハラ交易に大きな影響力を持つようになった。

 サハラ交易の塩金交易においては、主に3つの勢力のせめぎ合いと言う側面があった。
 1つ目はチュニジア南部からワルガラ、ターダマッカを経緯してガオ、ニジェール河流域の金産出地帯に至るルートの支配層。これはイバード派商人が主な担い手であった。
 2つ目はシジルマーサからダガーザーへと南下してガオ(後にガーナ)に至るルートである。もちろんミドラール朝のスフリー派ザナータ部族がこれにあたる。
 3つ目は金を入手しようとする外部勢力であり、アッバース朝、アンダルス・ウマイヤ朝やアグラブ朝、ファーティマ朝と時代によって変化した。
 交易ルートとしてはアウリルの鉱山に直結して何よりも需要のあった塩の供給が容易であったシジルマーサが常に優位を保ったが、イバード派は決して交易を諦める事はなく、商品の多様化や外交など様々な手段で生き残りを図り、ワルガラのイバード派は現代まで存在し続けている。

 またシジルマーサを経由するサハラ交易を巡っては、ベルベル諸族の間で長く抗争が続けられる事になるが、初期の9世紀頃まではサンハージャ語族系の集団が塩交易の主体となって富裕を誇っていた。しかしサンハージャ諸族間で対立が激化して連合が瓦解し始めるとザナータ語族系が台頭し始め、サンハージャ族を交易路から次第に撤退させ窮地に追い込んだ。
 ミドラール朝時代はちょうどその交代期に当たり、アウリルの塩鉱床を支配するサンハージャ族と地中海沿岸へのルートを押さえるシジルマーサのザナータ族との勢力が拮抗していた。これが崩れるのはダガーザーに塩鉱床が発見されて、ザナータ族の優位が決定的となる11世紀初頭のことである。その時にはミドラール朝は同じザナータ系のハズルーン族のマスウードによって滅ぼされていた。

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