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西方イスラーム史 「イドリース朝」

 マグリブ西端、モロッコの地にシーア派政権イドリース朝が成立したのは、ハワーリジュ派の活動によるルスタム朝の勃興が背景にありました。

 アルジェリアにルスタム朝が誕生したことで、アグラブ朝との連絡が途絶え、政治的な空白が生まれたモロッコは、当然アッバース朝に反感を持つ一部の人々の注目を浴びることになったのです。

 そのため、そのような場所にハリーファ=アリーのハサン系の子孫、イドリース・ブン・アブド・アッラーフが来訪、政権を誕生させたのは偶然ではなく、事前の調査、準備があったればこそだったと考えられています。

 ザイド派の指導者の一人であったと思われるイドリースの中央からの逃亡物語は、伝説と虚飾に覆い隠され、真実は判然としません。
 イブン・アビー・ザブルの「書き物」などの歴史書では、ムーサー・ハーディーの時代にアリー家のフサイン・ブン・アリー・ブン・ハサン・ムサッラスが起こしたファッフの戦い(786年6月)に参加し、力及ばず敗れたイドリースは苦難を伴う逃亡生活に入ったとされます。
 イドリースは神の試練として、そのような流浪の末に、モロッコに辿りついたとされるのです。
 しかし実際には、イドリースはファッフの戦いには参加せず、それ以前に北アフリカに渡り、政治活動を行っていたと考えられています。
 イブン・アビー・ザブルがアル・マンスールの時代にアンナフス・アッザキーヤが起こした反乱とファッフの戦いを混同した結果、イドリースがファッフの戦いに参加しているような錯誤があったと考えられているのです。
 この様な経緯の真実はともかく、忠実なマワーリー、ラーシドを従えモロッコにイドリースが現れた事は間違いのない事実です。
 彼は、アッバース朝のアレクサンドリア知事で、シーア派だったと言うワーディフ(アッバース朝ハリーファ=ラシードにより、後に処刑された)の援助などもあって、788年頃にベルベル人のアウラバ部族の保護を得ることが出来ました。イドリースは、しばし彼らの元で、その勢力圏にあるザルフーン山中のワリーラ(旧ボリュビルス)の町に居を構える事になったのです。
 その後789年2月にアウラバ部族の族長達を集めた彼は、自らの高貴な血筋やイスラームに関する知識を活かして、ベルベル人達に宗教的な権威を認めさせたのみならず、利害を訴えて政治的指導者としても自身を認知せしめました。
 こうしてベルベル族の後援を得たイドリースは手始めに、モロッコ中央部のアラブ人の影響の少ないタドラ地方の町々に狙いを定め、軍勢を繰り出して次々と征服していったのです。
 そして租税を集める体制を整え、経済力をも確保すると、準備の後に配下のベルベル人達を総動員してモロッコの中心都市トレムセンに侵攻し、これを征服したのです(790年)。
 しかしイドリースは、アッバース朝のハリーファ、ハールーン・アッラシードに危険視され、彼の(あるいはアグラブ朝の)放った刺客シャンマーフに毒殺されてしまいます。

 ハールーン・アッラシードの家臣だったシャンマーフが、提案したというイドリース暗殺計画は、シャンマーフ自らがマグリブに乗り込み、実行に移したと言います。
 まずシャンマーフは、アッバース朝を追放されたように見せかけ、イドリースに保護を求めました。そして彼を受け入れ、家臣としたイドリースに信頼されるよう、しばらくは忠義を尽くしたのです。
 そして信頼され、主君と二人きりで語り合えるようになった時を見計らって、食事に毒を盛り殺害したのです。
 王の突然の死で、生まれたばかりの政権は動揺しました。
 しかし、イドリース家の王朝を維持したい執事ラーシドは、ベルベル人指導者を説得します。
 そしてイドリースの子を身ごもっていたベルベル人奴隷がおり、その子が生まれるまで後継者問題を先伸ばしにすることに成功したのです。
 結局、ラーシドの願った通り、男子が生まれて父と同じくイドリースと名付けられ、このイドリース2世をラーシドが後見することで、新王朝は権力を維持することができたのです。
 アグラブ朝の刺客に今度はラーシドが暗殺されてしまいますが、イドリース2世の権威は揺るがず、ベルベル人は彼に忠誠を誓い続けました。
 イドリース2世が、イドリース1世の子ではなく、後宮も監督していたラーシドの子であると言う風説も流れました。ですが、ほとんど彼の権威が揺るがなかったことから、これはアッバース朝の誹謗中傷であろうと考えられてます。
 
 さてイドリース2世は、父が建設に着手していた新首都フェズを808年完成させ、アンダルスやマグリブ各地の亡命者を受け入れることで発展させました。亡命者の多くはアラブ人とユダヤ人で、首都圏ではアラビア語が主流となり、王朝政府のアラブ化が進みます。これはベルベル人達の不信を買い、ハワーリジュ派につけいる隙を与え、やがてイドリース朝の軍事力の低下を招くことになります。
 イドリース2世の死後、王朝は彼の子供達によって分割支配される連合王国の形態をとりました。
 フェズを支配する長子ムハンマドが、王国全体の一応の宗主となり、同時に8人の兄弟達が統治する地方政権が分立しました。これら計9つの小王国が同時に存在する体制が、以後モロッコの政治システムとなりました。
 ムハンマド以後のイドリース朝の王は、フェズの文化的発展に力を注ぎました。
 しばらくは平和が続きましたが、王朝は900年前後に起きたアブド・アッラザーク・アルフィフリーの乱で、フェズの一部を占拠されて以後衰退していきました。
 ベルベル人が多数参加した、この反乱は王朝の地域原住民への影響力が失われたことを象徴していたと言えるでしょう。
 アラブ人や経済的に豊かな都市のユダヤ人を重用する王朝に、山岳民や農民達の不満が高まっていたのです。
 ちなみに反乱の主導者アブド・アッラザークは、ハワーリジュ派でした。
 ベルベル人の軍事力を失い、弱体化したイドリース朝は、917年エジプトのファーティマ朝軍にフェズを占拠され、実質的に終焉を迎えました。
 しかし地方公国のすべてが滅んだわけではなく、リーフ、スースの小王国はしばらく存在しました。
 アンダルスのウマイヤ朝に、リーフ政権が最終的に接収されたのは、974年のことでした。
 スース公国はさらに存続しましたが、11世紀に入るまでには消滅したようです。
 
 さて、イドリース朝の衰退期、ファーティマ朝の撤退以後に、イドリース家を執拗に攻撃し「神の敵」と称されたメクネスのアミールのムーサー・ブン・アビー・アーフィヤと言う人物がいました。
 タンジャやタザなどを征服し、モロッコ北部、中部に独立勢力を築き、モロッコ全体の宗主となった英傑ですが、当然ながらシーア派からは非難され、貶められています。
 彼は分裂弱体化していたイドリース朝系諸王朝を次々と攻撃し、929/39年にイドリース家の人々をフェズから完全に追放し、モロッコでの覇権を確立しました。
 生き延びたイドリース家の人々は、ハジャル・アンナルス市(現アルホセイマ)に逃れ、逼塞しました。
 さらに追撃してきたムーサーは、ハジャル・アンナルスを包囲しましたが、シャリーフ一族を皆殺しにしようとすることに恐れおののいた部下達に説得され、包囲網を解いたとされます。
 彼は953年にフェズをまた包囲した際にも、その宗教的権威を危険視し、イドリース家の者を絶滅しようと図りましたが、この時もイドリース家の人々の内、何名かは、市内に協力者を得て逃亡に成功しました。
 イドリース家が滅びなかったのは、こうしたシャリーフ崇拝が背景にあったのです。
 各地に逃亡した一族の者は、イドリース家の血筋を誇るシャリーフ(モロッコのアラミー家、カッターニー家、ドゥッバーギー家など)として、地域の人々の尊崇を集め続けました。
 トレムセンに後代成立したザイヤーン朝などは、イドリースの一族(ザナータ族に逃れたカースウィム・イブン・イドリースの血筋)であると称して政治的権威を高めようとしました。
 後にマリーン朝下のモロッコでは、保存状態の良い状態でイドリース2世の遺体が発見され、以後イドリース家を中心としたシャリーフ崇拝が興隆し、王朝側もそれを利用しました。
 ザイド派のシーア派政権と認識されていたイドリース朝は、次第に北アフリカでは奇妙にもスンナ派的政権とされるようになっていきます。確かにシーア派の教義を強制するよな王朝ではなかったのですが、ザイド派であったイドリースにまつわる様々な伝承や、イドリース家に対する崇拝などシーア派的な王朝であったことは否めないでしょう。

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