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西方イスラーム史 「ルスタム朝」

ルスタム朝(777年〜909年)

 ハワーリジュ派の分派であるイバード派はバスラのハワーリジュ派の中から生れたと言われている。この名称はセクトの創始者とされるアブド・アッラーフ・ブン・イバード・アルタミーミー(708年に死亡)の名に由来する。
 信仰を隠すことで身を守る行為(タキーヤ)を認める事で、過激なハワーリジュ諸派が衰亡する中、現代まで生き残る事に成功した。
 イバード派はムウタズィラ派神学との類似性を持つ哲学的な思想体系と、マーリク派に通じる法体系、共同体の指導者(イマーム)に関しては宗教的な敬虔さを重視し出身を問わないと言うハワーリジュ派の特徴とが融合していた。現在ではアフリカに小規模な共同体があるほか、オマーンに勢力を持っている。

 現代のオマーン王家であるブーサイード朝はイバード派である事で有名である。
 オマーンのイバード派の教義によれば、イマームの条件としては家系的な制約はなく、イスラームに関して十分な知識がある事、壮健で身体的障害がない事、成年男子である事などが制約である。
 つまり誰でもイマームになりうる事になる。
 適任者がいない場合は基本的に空位となり、イマーム以外の統治が黙認されるが、この空位時代は「圧政者」による統治時代として認識され、イマームが選出されれば打倒されるべきものとなる。
 ちなみにスンナ派はイマーム(つまりハリーファ)はクライシュ族出身者である事が求められるし、シーア派は勿論アリーの子孫でなければならない。
 オマーンではウラマーや国内の有力者の合議によってイマームは選任される事が慣例となっている。しかしながら選出されたイマームは現実には世俗君主と対峙する存在となり、現在のオマーン国家元首カーブース国王はブーサイード朝イマームの子孫ではあるがイマームではない。正統な現在のイマームであるガーリブ・ブン・アリー・アルヒナーイー(在位1954年〜)は先代の王サイードによって軍事的に攻撃され、サウジ・アラビア亡命している。そのためオマーンでは、イバード派のイマーム選出の原則を表だって唱える事はタブーとなっている。カーブース王は独裁的であり、強権ではあるが国内を安定させており、有能であると評価されている。後継者がいないため、今後物議を醸すであろうが…。

 話が脱線してしまった。

 このイバード派は、8世紀に北アフリカでも独立した王朝を築いた事で知られている。
 即ちルスタム朝である。
 イラクで同じハワーリジュ派のアズラク派やウマイヤ朝、アッバース朝の攻撃を受け勢力を失いつつあったイバード派は、719年頃に北アフリカに現れ、特にバスラ出身のサラーマ・ブン・サイードのカイラワーンでの宣教活動以後、各地に広がっていった。
 イバード派の活動は、740年前後にイフリーキア東部トリポリタニアのハッワーラ族の支援を得たことでトリポリタニア全域に広まり、その平等主義により西方のザナータ族、ナフータ族をも支持者に加えていった。
 しかしイバード派の軍隊はウマイヤ朝のカイラワーン駐留軍に撃破されてしまい、トリポリタニアの支配を確立することはできなかった。
 そこで北アフリカのイバード派が独自に擁立したイマーム=アブー・アルハッターブは体制を整えなおし、ウマイヤ朝崩壊の混乱の中、内部からの放棄でカイラワーン支配を目論見、758年これを占拠することに成功した。
 しかしアッバース朝のエジプト総督イブン・アルアシュアスは、自ら軍を率いてマグリブに侵攻して、イバード派の軍隊を761年に撃破した。
 後を引き継いだイマーム=アブー・ハーティムは768年にふたたび蜂起するが、これも容易に鎮圧されてしまう。
 アブー・ハーティムが771年に殺害された事で、イバード派はイフリーキア支配を諦めることになる。

 一方イバード派の四名いる筆頭導師(ハマラ・アルイルム)の一人であったアブド・アッラフマーン・ブン・ルスタム・ブン・バフラーム(在位776または777-784年)は、他の導師達の計画する北アフリカ征服計画には懐疑的で、すでにアッバース朝の政権が安定した現状ではゲリラ的な戦術でカイラワーンの制圧、維持が困難であると事を認識していた。
 そこで、より西方に拠点を求めて移動を決意した。
 遠征した彼は、アルジェリアの内陸部にある古代ローマ都市ティアレを占領、近傍に政権の新首都としてターハルトを築きあげた(778/779年頃)。
 東方から移住してきたイバード派の残党以外にも、イブン・ルスタムがペルシア系であったため、特にイラクのイラン系ムスリムがターハルトに集まったことで統治のため人材を確保できた。さらにイバード派本来の教義に反してキリスト教徒を特に弾圧などせず保護したため、非ムスリムの人々も人口が増加する事となった。
 イブン・ルスタムが選んだターハルトの立地の優位点は何より水資源に恵まれていた事であった。それはサハラ交易の中継点となる事を意図していた。イブン・ルスタムの目論見通り、ターハルトはサハラの遠距離交易、特に塩金交易の利益を受ける事となり、大いに栄える事となった。
 ルスタム朝は、さらに勢力を拡張するため東方に遠征を敢行した。
 第2代イマーム・アブド・アルワッハーブはトリポリタニアに勢力を張るベルベル族ザナータ系フッワーラ族の後援によって、811年にはチュニジアのアグラブ朝支配下にあったトリポリを襲撃、トリポリタニアを影響下に収めた。
 それによってエジプトとも連結したマグリブの陸上交易路を手に入れることが出来た。
 その後も政権はハワーリジュ派の教義に反してイブン・ルスタムの子孫によって継承され、内部対立を抱えつつも続いた。
 第3代アフラフまでルスタム朝イマームは長命であったために、在位期間も長く政権は安定したものであった。
 しかしアフラフ死後、政権内部の混乱が激化して行きイマームの権威も凋落して行った。
 特に第5代ムハンマド・アブ・ヤーザーン(在位871-894)の死後直後の895/6年に発生したアグラブ朝イブラヒームの軍勢との戦闘に敗れた結果、イフリーキヤから撤退することとなって以後、衰退は決定的となった。
 第6代ユースフ(在位894-897、復位901-906)は敗戦の混乱の中で、叔父のヤークーブ(在位897-901)に一時王座を奪われるなど王朝権力は混乱の極みに陥った。
 この戦役で弱体化したルスタム朝軍は、勢威を挽回する時間を与えられなかった。
 突如勃興したファーティマ朝が急速に勢力を拡大し、その軍勢が909年ターハルトを占領したことで、ルスタム朝はあっけなく滅亡した。
 それでも殺伐を逃れたルスタム王家とそれに従うイバード派は、南下し、ムザブ地方に小勢力を維持することに成功する。そしてイバード派は、サハラ交易に積極的に関与することで生き残りを図り、現代まで小規模ながら共同体を維持している。

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